十四ノ二十七 「思いやり」
花田町の駅前にある雑貨屋。その地下には、元子の父親が管理している店の商品保管庫がある。
使用者が現れるのを待つ道具は次から次に店へ届くのだが、置ききれない分を一時的に保管しておくための場所として、元子の父親が雑貨屋の店主である美月から借りているのだ。
何のために使うのかも分からないような道具ばかりだが、父には、分かるらしい。だから、用途ごとに、棚へ分けているのだそうだ。
わざわざ雑貨屋へ行かずとも、保管庫へは店の扉から直通で行く事が出来る。それで、こうして元子も手伝いで中に入る事もあった。
「ねえ、お父さん」
棚の整理をしていた父に、小さな鈴のようなものを手渡しながら、声をかける。
「なんだ、元子」
受け取った鈴を棚の箱に入れながら、父が言った。
「他人の心を読めなくする道具って、この中に無いの?」
ピタリと、父の動きが止まる。それから振り返って、じっと目を見つめてきた。
「何故そんなことを聞くんだ?」
「七海ちゃんから頼まれて。ほら、木下さんとこの双子の妹ちゃん」
「ああ」
睦美と七海の親は、父と付き合いが長いらしい。それがきっかけで、元子にあの二人の観察と相談役を任された。
「相手の心を、読みたくないと?」
「そう」
「何故だ。今まで、ずっとそのままできたのに」
父は仕事の手を止めて、部屋の中央にある一枚板のテーブルまで向かって、椅子に座った。こちらへ来い、と仕草で伝えられ、元子も向かいの椅子に座った。
「姉の睦美ちゃんはね、妹の七海ちゃんにずっと劣等感を抱えて生きてきたの。何をしても勝てないし、自分の欲しいものは、全て七海ちゃんに取られてしまう、って」
「ふむ」
「でも、その気持ちは七海ちゃんには知られないようにしてた」
「だが、知ってしまった?」
「そう。例の力が、発動しちゃったみたいでね」
「なるほど」
「あの二人、人でも物でも事でも、いつも同じものを好きになっていたんだって。でも、最初は睦美ちゃんがソレを好きになって、後から七海ちゃんが好きになる、っていう形だった。その原因は、睦美ちゃんの何かを好きという感情が、七海ちゃんの心に流れ込んできていたから」
父が、顎に手をやって、唸る。
「七海ちゃんは、睦美ちゃんの心に触れるうちに、自分までソレを好きになったような気がしていった。そうなると、自分も欲しくなった。それで、まあ性格的に七海ちゃんの方が積極的だから、結果として睦美ちゃんの好きなものを、七海ちゃんが手に入れてばかりになった。
でも、七海ちゃんとしては奪うとかそういうつもりはなかったんだって。むしろ、好きなものを口に出せなかった睦美ちゃんの代わりに、自分が言葉にして、二人でなんでも分け合いたかったんだって。
だけどさ、好きな人とかって、一人しかいないわけじゃん。そうなると、手に入れられるのは姉妹でどちらか一人だけ」
「うむ」
「七海ちゃんは、自分のそういう気持ちは、睦美ちゃんに伝えたことなかったみたい。だから、睦美ちゃんは、ただただ奪われていくという気持ちだけを抱いてしまった」
「それで、なぜ妹さんは、心を読みたくないと言ったんだ?」
「もう、睦美ちゃんと同じものを好きになりたくないから、だって」
また、父が唸った。
七海はこれまで、睦美のことを一番に考えてきた。それが行動として睦美に伝わっていたかは、別として。
今も、そうなのだ。睦美をこれ以上傷つけたくないから、睦美との会話を減らし、睦美の心が流れこまないようにと努力している。
実際、七海が睦美と距離を取るようになってから、二人の力の発動頻度は減っていた。あの二人の力の発動にどういう原理があるのか、それは元子にも父にも分からないままだが、もしかしたら、心の距離のようなものが、力の発動にある程度は影響しているのかもしれない、と元子は仮説を立てている。
「七海ちゃんは、自分の心を睦美ちゃんに読まれることを、嫌ってない。むしろ、それでもっとお互いのことが分かり合えるのだから、素敵な能力だと思ってた。
でも、睦美ちゃんは、そうじゃない。七海ちゃんに読まれてしまう事を、苦痛に感じている。そんな睦美ちゃんのことが大切だから、七海ちゃんは、もう心を読みたくない、って。
私には、心を読める人の気持ちは分からない。でも、あの二人の苦しみなら、理解できる。それを何とかする方法があるのなら、そうしてあげたい」
父は、元子の話を聞いても、何も言わず、しばらく黙っていた。
ギャップについては、元子より父の方が遥かに詳しい。父の答えを聞く以外、元子があの二人にしてやれることはないのだから、口を開くまで、いくらでも待つつもりだ。
こんな風に他人のために動くなど柄ではないが、一年以上仲間としてやってきた子達の事となれば、別だった。
何とか、力になってやりたい。
「……心を読む力は、制御できないのだ」
重々しく、父が言った。
「この世界には、私と同じ力を持つ人間は多い。そして、その中の誰も、この力から逃れられた者はいない」
「……」
「可能なら、私も協力してやりたいよ。だが、この力を持つ全ての人が望んでもなお、そのような道具は現れないのだ。心を読むための道具なら、現れるというのに」
「そんな……」
「私ごときにこの世界の理など分かりようもないが……人は、人の心を読むことが必要だからこそ、一定数、この力を持つ者が生まれるのかもしれん」
「でも、あの子達は、他人の心なんて読めない。お互いの心しか読めないんだよ」
「それもまた、理由があるのだろう。それが何なのか分かる日が来るのかは、私には分からない。だが、力を持った者は、その力に向き合い続けるしか、ないのだ」
父の言葉に、元子は唇を噛んだ。俯いて、自分の膝に目をやる。
この世に数多ある不可思議をもってしても、どうにもならないことはある。
死者を蘇らせたり、不老不死を実現することが、良い例だ。
できないものは、できない。
だが、蘇生とか不老不死とか、そんな壮大な願いよりも小さな、たった一人望んだ相手の心を読めなくするという些細な願いでも、同じくらい不可能なことだというのか。
「七海ちゃんに、何て言おう」
「ありのまま伝えるしか、ないだろう」
保管庫の重々しい空気は、その後も、消えることはなかった。
翌日、父に聞いた話は、そのまま七海に伝えた。
落ち込んだ表情を浮かべながら、七海は、小さく礼を言って、元子から離れていった。
「真二ー」
放課だった。教室内で携帯をいじっていると、廊下から聞き慣れた声に呼ばれた。
心菜だった。窓枠に肘をついて、手を振っている。
真二のいる二組は、進学クラスだ。二年生で分かれる普通クラスとは、授業内容もまるで違うから、部活外で関わる機会は少なくなる。だから普通クラスの四組である心菜がここへ来ると、好奇の目で見られるのに、心菜は気にしている様子もない。
「何だよ」
近くに行くと、心菜はもじもじと身体を動かしながら、窺うような様子で口を開いた。
「あのさ、今日、夕練休みじゃん」
「ああ」
「学校終わったら買い物付き合ってくれない?」
「なんの?」
「もうすぐ千奈の誕生日だから、ちょっと駅前の雑貨屋にプレゼント買いに行きたくてさ」
「ああ、そうだったな」
千奈は、六月の末生まれだ。
「どうせ、真二もまだ用意してないでしょ?」
「ああ」
「考えたんだけどさ、二人で一緒にお金出せばさ、いつもよりもうちょっと良い物を贈れるじゃん?」
「ん、確かに」
「だから一緒に買いに行こうよ」
「メールで言えば済むだろ、そんな話」
「直接話したほうが早いでしょ。ね、行こうよ」
「ああ、分かったよ」
心菜の顔が、ぱっと輝く。
「じゃあ、終わったら正門集合ね!」
「ああ」
「後でね!」
少し弾むような足取りで、心菜は去っていった。その後ろ姿を窓から眺めていると、突然腕が伸びてきて、首をホールドされた。
「ぐっ!」
両手ではがそうとするが、ガチガチに極められた腕から、逃れることが出来ない。
「真二、てめえ、彼女出来たのかよ」
クラスメイトの男子達だった。首が締まって、息が出来ない。
「こいつ、抜け駆けしやがって」
声を絞り出そうにも、言葉にならない。
「しかも、あんな可愛い女子と!」
「くそ、羨ましすぎる!!」
「いつだ、いつから付き合ってんだ!」
違う、と言いたいのに。
ホールドされた腕を叩いても、クラスメイトは離そうとはしない。
「やめなよー。真二君と心菜は付き合ってないよ」
「そうだよー」
喋れない真二を助けてくれたのは、トロンボーンの同期のこのはと、トランペットのみかだった。少し、腕の力が弱まった気がした。
「何だよ、本庄達もあの子と知り合いなのか?」
「吹部の仲間だよ」
「マジで付き合ってないの、こいつ?」
「マジだって。そもそも、真二君に彼女を作る度胸なんて、あるわけないじゃん」
みかの言葉に、クラスメイト達の動きが止まった。
数秒間の、沈黙。
次の瞬間、あっさりと腕のホールドは解かれていた。
「それもそうだな」
腕を離したクラスメイトが、真二の後頭部を叩く。小気味よい音が鳴って、真二は呻いた。
「こいつに彼女が出来るわけなかったわ。もしできたら、俺、坊主にしても良いし」
「俺も俺も」
馬鹿共は、そう言って笑いながら、自分の席に戻っていった。
「くそが……」
激しく呼吸をしながら、真二はみかを睨みつけた。
どさくさに紛れて、コケにしやがって。
「そんな睨まないでよ。だって、事実じゃん? ねえ、このは」
「ん、んー、あはは」
「助けてあげたんだから、感謝してよね」
そう言って、みかはこのはを連れて、去って行った。
真二は、自分の席に戻りながら、心の中で舌打ちをした。
別に、彼女を作る度胸がないのではなく、要らないから作っていないだけだ。その気になれば、彼女の一人や二人作ることくらい、やれるに決まっている。
「馬鹿にしやがって」
呟いて、真二は椅子に勢いよく腰を下ろした。
「あはははは」
雑貨屋へ行く途中の道で、教室での出来事を心菜に話したら、大爆笑された。
「お前のせいなんだからな!」
「ごめんごめん、そんな事になってるなんて思わなかった」
「次からは、用事があるならメールで言え。教室には来るなよ」
「別に良いじゃん、誤解はなくなったんだから」
「それでもだ」
「はいはい」
心菜が息を吐いて、苦笑する。
「でもまぁ、みかの言う事も間違ってない、よねー?」
「んだと!」
拳を上げる素振りを見せると、きゃあ、と声を上げて、心菜が離れた。
「だって、真二、彼女できないじゃん」
「要らないから作ってないんだよ!」
「ほんとにー? 作れない、じゃなくて?」
「……マジで殴るぞ?」
「えー、女の子を? 殴っちゃうの? 真二ってそういう子だったんだ」
真二が本当は殴れないことを分かっているから、心菜は余裕そうな表情でからかってくる。
舌打ちして、真二は顔を背けた。
「その気になりゃ、彼女くらい出来るっつうの」
「へー、そうなんだぁ。何、前言ってた気になる子とか? Kさん、だっけ」
「それはっ」
くすくすと、心菜が笑った。
「最近どうなの。その子と、上手くいってるの?」
「……」
答えたくなくて、真二は無視をした。
「答えろよ、少年」
脇を指で突かれて、身体をよじる。
「やめろ」
「お姉さんに話してみな? 相談に乗ってあげるから」
「何がお姉さんだ、馬鹿。お前だって彼氏もいたことないくせに、偉そうに」
「あら、言っとくけど、私は今まで、何回も告白されてますから」
「え?」
それは、初耳だった。
「好きじゃない相手と付き合う気が無いから、全部断っただけだから。それと今は、好きな人が超がつくほどの鈍感で、全然私の気持ちに気づいてくれないから進展しないだけだもん」
「は……はっ、そいつ、女子の好意に気づかないなんて、相当な馬鹿だな」
真二が鼻で嗤うと、心菜がおかしそうに笑いだした。
「そうだね、馬鹿だよね」
「ああ」
「私、結構アピールしてるつもりなんだけどねぇ」
「そんな鈍感馬鹿、やめた方が良いんじゃねえの?」
「んー……そう思う?」
「ああ。付き合っても苦労するだけだぞ」
「そうかもねぇ。でも、一度好きになっちゃったもんなぁ」
そう言って、心菜は遠い目をしながら、かすかに笑った。
その表情は、どこか不満気なのに、同時に充実感や幸福感も感じさせるような、女の子らしい表情だ、と真二は思った。
普段、真二に見せるような表情ではない。その男だけに向けられた、特別な表情。
その事実に、少しだけ、心がざわついた。
イニシャルは、Nだったか。
どこのどいつか分からないが、心菜がそこまで好意を持つのなら、何かしらの魅力でもあるのだろうか。
「確かに鈍感だけど、良い所もあるんだよね。そこそこ、かっこいいし」
心菜が他の男子を褒めるのは、珍しいことだった。
心のざわつきは、そのままだ。
真二は、心菜の言葉には答えず、黙って歩き続けた。
不意に、鼻先に何かが当たった。
それは、空から降ってきた、水滴だった。
「あ、雨だ」
心菜が、小さく言った。
見上げると、いつの間にか、空が黒くなっていた。
すぐに、雨粒が、ぽつぽつと降り始めた。そしてそれは、いくらも経たないうちに怒涛の勢いへと変わり、真二と心菜に降りそそぎはじめた。
「嘘だろ!」
「きゃああ!」
突然の豪雨に、心菜と並んで、走り出した。まだ梅雨入り前だったし、天気予報でも降水の報せはなかったから、二人とも傘を持ってきていなかった。
心菜がついてきている事だけ確認しながら、雨を避けられる場所を探す。バス通りを歩いていればいくらでも見つかっただろうが、今日は近道をしていたせいで、ちょうど良い避難先がない。
雨に打たれながら一分ほど走り、通りがかった公園に飛び込んだ。敷地の一画に、山のような形の滑り台がある。内部がくりぬかれていて、空洞になっているようだ。
そこへ駆け込み、鞄を床に置いた。
「くっそ、最悪だ!」
びしょ濡れになった髪の毛をかき上げて、悪態をつく。
ドドド、という反響する轟音と共に、入り口の向こうは、雨のカーテンで遮られている。幸い、ドームのようになっている滑り台の内部には、雨は入ってこない。
「やだもう、完全に濡れたぁ!」
隣で心菜が叫び、スカートの裾を絞った。大量に吸われた水が、音を立ててコンクリート製の地面に落ちていく。
「もー……すぐ止むかなぁ!」
「わかんねぇ! つうか、さっむ!」
冷たい雨を浴びたせいで、身体が一気に冷えてしまった。少し身体が震えて、真二は舌打ちをした。
隣から、くしゃみの音がする。目を向けると、心菜も、寒そうに身体を震わせていた。
「これ、使えよ」
自分の鞄の中から、スポーツタオルを取り出し、心菜に差し出した。防水の鞄を使っていたおかげで、タオルは乾いたままだ。
「ありがとう」
素直に受け取って、心菜が髪の毛を拭き始める。その様子を眺めていて、真二は、はっとした。
心菜の制服は、今週から衣替えをして夏服になっていた。花田高の女子の夏服は、ブラウスにスカートという簡素なものだ。薄いブラウス一枚では、通常時でも肌着が薄く透けて見えるものだが、今は、雨に濡れて肌に貼りついているせいで、下着まで、ばっちりと見えている。
薄暗くても分かる、黒色の下着。その色と形に、見てはいけないものを見てしまった気分になった。
慌てて目を逸らして、真二は自分の学ランの上を脱いだ。
まだ衣替え期間で、冬服で登校してきていて、良かった。
「これ、かけとけよ」
心菜の肩に学ランをかけて、真二はまた目を逸らした。
「え……あ」
真二の意図に気づいたのか、心菜は、こちらに背を向けて、小さくありがとう、と言った。
だが、それは雨の音にかきけされて、真二には聞こえなかった。
一向に、雨の止む気配はない。
小学生以下向けの狭い空間だから、二人の距離は、嫌でも近くなる。
隣に立つ心菜は、俯いたまま、ずっと黙っていた。




