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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校三年生・合宿編
373/444

十四ノ二十六「木下睦美 四」

 電子メトロノームのテンポを、六十に設定する。ピ、ピ、という規則的な音が、二年五組の教室に響く。

 個人練習は、自分の教室でするのが好きだった。

 クラスメイトである七海、ひなた、ののかは、職員棟で練習することを好んでいる。だから、この教室を使うのは、睦美だけだ。


 メトロノームに合わせて、日課の跳躍練習をする。ドからソ、レからラのように、五度の関係性を持つ二つの音を二拍ずつ、スラーで跳躍する。

 正しい音程感や音色、自然な指の動きを意識して、低音から、丁寧に吹いていく。


 クラリネットといえば、楽譜が真っ黒になるような連符の箇所だとか、美しいメロディで目立つ楽器だ。それらに比べたら、こんな地味すぎる練習、好んでしたい人はいないだろう。

 だが、睦美にとっては、この静寂にも似た穏やかな時間が、たまらなく心地良かった。


 自分の音に向き合い、丁寧に息を吹き込んでいる間、自分とクラリネットが溶け合い、一つになっているような感覚すら覚える。

 精神統一のような時間とも、言えるかもしれない。

 

 跳躍の練習が終わったら、全調分の音階練習をスラーで行う。ここでも、音に丁寧に耳を傾けていく。音と音が、極端に変化したり、ガタガタした音階にならないように、息をスムーズに流すことを意識する。


 それが終わったら、タンギングをしながら、半音階の練習。これは、テンポを今の自分が吹ける限界まで上げて行う。指回しや舌使いを正確にすることを意識している。


 一つひとつの基礎は、誰でもやれるようなものだ。それを、愚直にやり続ける。誰よりも美しく吹けるように意識する。

 そうすると、徐々に上達していく。


 三年生の綾がそう言っていたから、まずは、言う通りにやってみている。

 過去の自分、駄目な自分を見るのではなく、自分がやっていることを見る。そうすると、嫌いな自分を見つめて苦しむこともなく、ただ前を見ていられる。

 綾は、そうやって、成長したのだという。


 睦美も、変わりたかった。いつも七海を羨み、自分を卑下するような毎日から、抜け出したかった。

 自分を、認めてあげられるようになりたい。そのために、今はクラリネットを吹き続ける。


 







 帰る頃には陽も落ちて、外は真っ暗だった。小雨も降っていて、衣替えしたばかりの夏服では、少し肌寒い。

 生徒玄関を出て傘を差し、睦美は、正門へと下りた。


 いつものように、部員達がたむろしている。その中から妹の七海を探したが、皆が差している傘が邪魔で見つからない。

 近くにいた絵里に、声をかける。


「絵里ちゃん」

「おー、睦美、お疲れぇ」


 ひなたとののかも、お疲れ、と声をかけてくる。


「お疲れ様、皆。七海知らないかな」

「七海~? 知らないなぁ。リーダー会議終わったら、すぐ部屋出て行ったし」

「そう……」


 七海とは毎日、必ず一緒に帰るようにしているから、先に帰ることはあり得ない。

 音楽室にも総合学習室にもいなかったから、てっきりここに居ると思ったのに、どこへ行ったのだろう。


「まだ上にいるんじゃない?」

「そうかな」


 仕方なく、絵里達と話しながら、七海が現れるのを待った。

 五、六分して、七海は、元子と並んで坂を下りてきた。


「七海、どこ行ってたの?」

「非常階段」

「ごめんね、七海ちゃんのこと借りてたよ、睦美ちゃん」

「あ、いえ、元子先輩」


 二人で話していたのなら、心が読める力についてのことだろうか、と睦美は思った。

 元子は部内で唯一、睦美と七海の持つ力の事を知っている人物だ。それで、二人とも定期的に相談に乗ってもらっている。


 互いの考えていることが突然頭に流れ込んでくるという、迷惑な力。

 心の中が、一番知られたくない七海に筒抜けなのだから、ただただ邪魔な力である。

 しかも、いつ、何を七海に読まれたのか、睦美には分からない。


「睦美ちゃん、明日の夕練の後も、個人練する?」


 元子が言った。


「はい、します」

「じゃあ、その時、ちょっと話そうか」

「分かりました」


 やはり、力のことだったのだろう。


「よろしくね。じゃあ、お先に」

「お疲れ様です」

「皆も、早く帰るんだよ」


 はーい、と絵里達が返事をすると、元子は頷いて、そのまま歩き去っていった。


「帰ろ、睦美」

「うん」


 絵里達に別れを告げ、歩き出す。

 二人の家は、学校からはそこそこの距離があるが、睦美が自転車に乗れないから、歩いて登下校している。七海は、それに付き合ってくれていた。

 

「元子先輩と、どんな話したの?」

「んー、いつも通りだよ」


 ポニーテールにするために縛っていたヘアゴムを外して、七海が頭を振った。ヘアゴムから解放された髪が、勢いよく広がる。

 睦美も、サイドテールを解いて、髪をほぐした。

 

 睦美も七海も、周囲から見分けがつくようにするために、髪型を分けている。だが、学校が終われば、分ける必要もなかった。

 髪を縛っていると頭皮が引っ張られて疲れるから、こうして帰る頃には、髪を解くのだ。


「力に変化はないかとか、体調や部活のことで悩みはないかとか」

「そうなんだ」

「うん。元子先輩もその質問以外は、あんまり自分から話す人じゃないし」

「そうだよね」


 今まで生きてきて、七海が悩みを抱えているような姿を見たことはない。多分、元子との話も、そんなに長くならないのだろう。

 睦美は毎回、元子には三十分以上話を聞いてもらっている。何か明確な答えを貰えるわけではないが、話していると、自分の内側を見つめられる気がして、重要な時間だった。


「睦美はさあ、何か悩みとかあるの?」


 七海が言った。


「え、うん、そりゃあ」

「そうなんだ」

「うん」


 それで、会話は止まった。

 最近、七海とは、会話の数が減っていた。

 喧嘩をしているわけではない。睦美は話下手だから、自分から話題を振る事が出来ないだけだ。だからいつもは七海が沢山話してくれるのだが、最近の七海は、口数が減っていた。


 ここ最近は七海の心も流れてこないし、何を考えているのか、睦美には分からない。

 双子でも、何でも分かるわけではないのだ。















 翌日の夕練が終わってすぐ、自主練の為に二年五組へ向かっていたところを、元子に呼び止められた。


「今から話せるかな、睦美ちゃん」

「あ、はい」

「じゃあ、私も二年五組に行くよ」

「分かりました」


 並んで、中央の渡り廊下を抜ける。教室に入ると、元子は窓も扉も全て閉めて、睦美の斜め向かいに椅子を持ってきて座った。


「最近は、力は発動してる?」

「いえ、しばらくしてないです」

「そう。七海ちゃんも、そうらしいね」

「そうなんですか」

「前回はいつだったっけ」

「去年の終わり位、だったかもしれません。あんまり、はっきり覚えてないですけど」

「そう……力が……弱まってる? それとも、たまたま? もしくは、発動条件のようなものがある?」


 元子は、黒縁の丸眼鏡を光らせながら、ブツブツと呟いている。

 特殊な力とか、この世界に存在する不思議なモノについて、元子は個人的に研究するのが好きらしい。睦美達の力についても、元子は何とか仕組みを解明したいと思っているようだ。


 この世界には心を読める力を持つ人が多く、元子の父親もその一人なのだという。何故この力がそれほど多く発現するのか、そこには、何か理由があるはずだ、と元子は考えているみたいだが、力に振り回されているだけの睦美には、そんなことを考える余裕もない。

 

「まあいいや。何か変わったことがあったら、また教えてね」

「はい」


 頷くと、元子はふ、と表情を緩めた。


「で、最近はどう。少しは自分が変わるための道筋、見えてきたのかな」

「いえ……まだ、良く分かってないですけど……ひとまずは、綾先輩の言う通りにやってみてます」

「言う通り、というと?」

「自分の過去とかを見るんじゃなくて、今自分のやっていることを見続ける。そうすると、少しずつ前に進める、って綾先輩は言ってました。だから、練習を頑張ろうかなって」


 元子は何も言わず、微笑んだ。


「……七海ちゃんとは、きちんと会話してる?」

「会話、ですか?」

「うん。最近、端から見てると、なんだか二人の間柄が少し変わった気がしてたの。七海ちゃんにも同じ質問はしたんだけど、睦美ちゃんの口からも聞きたくて」

「……別に、喧嘩はしてない、ですけど」

「けど?」

「……会話は、減ったかもしれません」

「そう」


 元子が、窓の外に目を向ける。真っ白で、陶器のように滑らかな肌。首筋はすっと伸びて、吸い込まれそうな美しさだ。眼鏡の奥の瞳は、音楽室の方を見ている。

 

 この人は、いつでも姿勢が良いな。

 思って、睦美も、少しだけ背を伸ばしてみた。


「睦美ちゃんは、まだ七海ちゃんには勝てないとか、考えてる?」

「え?」

「ほら、去年のリーダー決めの時期に、そんな話をしていたでしょう」

「ああ」


 昔から、そうだった。睦美と七海は、いつも同じものを好きになっていた。

 それがお菓子とかゲームのように、二つ以上あるものであればいいが、好きな人だとか、なりたいものだとか、そういうたった一つしかない特別な何かの時は、いつも、七海がそれを獲得していった。

 睦美は、生まれてから一度も、七海と同じ何かを好きになって、勝ち取ったことはない。


「未だに、劣等感がある?」


 睦美は、俯いて、静かに首を振った。


「なくなることは、多分、ありません」

「どうして?」

「私は、良い所を全部、七海にあげちゃったから」

「そうなの?」

「私にないものを、七海は全て持ってるんです。私が欲しくてたまらないものを、全部。多分、生まれた時に、全部あげちゃったんです」

「本当に?」

「そうですよ。私が七海に勝てたことなんてないって、前も言ったじゃないですか」

「そうなのかな」


 呟いてから、元子が立ち上がった。そのままゆっくりと窓まで近づき、外を眺めはじめた。ここからでは、元子が何を見ているのかは分からない。


「私は、いつだって睦美ちゃんと七海ちゃんを見てる。それが仕事だからね。自慢じゃないけど、人を観察することについては、誰よりも得意な自信がある。その私からすると、七海ちゃんには無くて、睦美ちゃんにだけあるものも、沢山あるけどね」

「……ないですよ、そんなの」

「自分の事は、自分じゃ見えないんだよね」


 言って、元子が振り返った。


「だから、人間は面白いんだけどね」

「……はあ」

「……綾ちゃんは、綾ちゃんのやり方で自分を乗り越えた。でも、睦美ちゃんには、睦美ちゃんのやり方があるかもしれないよ」


 それは、先ほどの話のことか。

 綾の言う通りにするのは間違っている、ということだろうか。

 きっと、どういう意味か尋ねても、元子は答えてくれないだろう。自分で考えろ、と言われるだけだ。


 その後も雑談のような話を少しして、元子は教室を出て行った。

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