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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校三年生・合宿編
372/444

十四ノ二十五 「真二と心菜 三」


 自由曲である『GRシンフォニックセレクション』のカットが、確定した。

 元々は十八分ほどある曲だが、丘の発表した演奏箇所だけだと、八分から八分三十秒ほどになるらしい。課題曲の『ブライアンの休日』が三分ちょっとだから、曲間も合わせると、コンクールの規定時間である十二分以内に収まる計算だ。


「実際のテンポに関しては、タイムも考慮しながら考えていきますが、まずは楽譜通り一音一音、丁寧に吹けることを意識してください」

「はい!」

「特に、トゥッティの場面など全員で吹いているところは、なあなあに吹いてもそれらしく聞こえるものですが、必ず音の濁りが発生します。それでは、コンクールで評価されることはない。

 トゥッティでも、まるで溶け合って一つの楽器の演奏であるかのように、正確に吹く事を意識してください。イメージは、オーケストラの弦楽セクションです。彼らは、何十人といるのに、乱れることなくぴっしりと同じように演奏するでしょう。それがあの美しく荘厳な響きを生み出しているのです。良いですか?」

「はい!」


 丘が、頷く。


「では、自由曲を冒頭から。今日のソロは、桜が吹いてみなさい」

「分かりました」


 立ち上がって、丘が指揮棒を構える。

 それだけで、空気が引き締まる。


 サスペンデッドシンバルの静かなロール。その残響の中、音葉の美しい音が響き渡る。

 この子は、不思議な子だ、と心菜は思った。

 まだ高校一年生なのに、そうとは感じさせないような大人びた振る舞いと、自信に満ちた言動。


 その存在感が、音にも表れていて、思わず聞き惚れてしまう。

 滑らかな跳躍。心地良いビブラート。間を感じさせぬブレス。

 上手い、という言葉では片付けられないほど、魅力を持った奏者だ。

 

 音葉のソロが終わり、クラリネットの低く、地の底から湧き上がるような響きと、フルート群による応答。それを二度繰り返し、ホルンの怪しげなハーモニーが空気を震わせる。

 そして、木管セクションによる連符の渦が生じ、打楽器セクションのクレッシェンドを伴ったロールを経て、だいごのクラッシュシンバルが物語の始まりを告げた。


 ホーンセクションによる二部音符の連鎖。トランペットが高らかにファンファーレを響かせる。

 始まりからクライマックスかと錯覚するような、音の洪水。その勢いに、ただ吞み込まれていく。

 

 これまで心菜が吹いてきた曲の中でも、かなり重厚感があり、交響的な響きを持った楽曲だ。題名にシンフォニックとつけられているだけはある。

 元はロボットアニメ用の音楽として作曲されたものを、作曲家本人が、ある楽団の依頼で編曲したものが、この曲なのだという。

 その元であるロボットアニメを心菜は見たことは無いが、曲からはかなり硬派な雰囲気を想像させる。 


 たった冒頭一分四十秒ほどの間に、壮大な物語が展開されていくのだ。その一つ一つに、妥協が許されない。

 

 曲の途中で、丘が手を止めた。すかさず、演奏が止む。


「ダイナミクスの付け方が人によってバラバラすぎます。もっと合わせて。一体となって奏でてください」

 

 言って、丘が歌で強弱を示す。


「こういう風に。もう一度今のところからやりましょうか」

「はい!」


 丘の納得の行く強弱がつくまで、何度でも繰り返される。

 休み箇所であったため、心菜は、楽譜をぼんやりと眺めていた。


 まだ、書き込みの少ない真っ白に近い楽譜。

 心菜は、指摘されたことは全て楽譜に書き記すようにしているから、いつもコンクール間近になると、楽譜は鉛筆で黒く塗りつぶしたようになるが、今はまだそこまでではない。


 そんなに書き込んでは楽譜が見えないんじゃないか、とコウキにはたまに言われるが、

 元の楽譜など、とうに暗記している。写譜しろと言われたら、原譜を見なくても出来るレベルだ。

 

 真の演奏家なら、楽譜を見るだけで作曲者の意図を読み取り、表現するのだろう。

 だが、心菜はただの高校生であり、演奏家としても平凡だ。綺麗な楽譜をどれだけ眺めていても、表現は思い浮かばない。

 丘に言われたことを忠実に再現する。それでようやく、出来るようになるのだ。

 そのためには、丘の指示を強調する必要がある。だから、書き込む。


「違う。もう一度」


 丘は、まだ同じところをやっている。

 徹底してこだわった音楽作り。一切妥協をせず、求める表現ができるまで、部員に要求し続ける人。

 音楽家には、皆、こういう手を抜かないという素質が要るのだろう。


 心菜は、中学時代から手を抜いてやってきたことを、今でも後悔している。

 きっかけが上級生の圧力とはいえ、それに負けずに努力し続けていたら、自分は今、どのくらいのレベルになっていたのだろう、とよく考える。

 少なくとも、華や音葉に負けないレベルでは、いられたのではないか。


 悔いても始まらないことではあるが、そう思わないでいるのも、難しい。

 今出来ることは、がむしゃらに練習することだけだ。それでも、きっと、あと数ヶ月で、自由曲のソロを任されるようなレベルには、到達できないだろう。

 

 自分が学生指導者で良いのか、という想いは拭いきれない。

 コウキには、相応しいと言ってもらえている。自分でも、少しずつ指導者としての振る舞い方を覚えつつあるという自覚はある。

 だが、トランペット奏者として平凡な自分の言葉が、自分より楽器が上手い人間に、響くのだろうか。


 



 











 

 夕練が終わって、自主練の時間だった。

 心菜は基本的に、夕練後の自主練では、リップスラーの練習だけにしている。

 一日の疲労が溜まった状態では、曲の練習は唇への負担が大きいから、それよりは、唇の柔軟性を培うためのリップスラーをした方が良い、と考えているためだ。


 まずは難易度の低いリップスラーから始めて、徐々に難易度を上げていく。そしてまた難易度を下げていって、最後に簡単な跳躍で終わる。

 それが、一日の終わりだった。

 

 トランペットを口から離し、唇をハンカチで拭う。

 心菜の自主練は、いつも三階の東端にある空き教室で行っている。ここだと、音楽室から遠く離れているから、だいごのシンバルの騒音も聞こえないし、人も少ないから、自分の音に集中できるのだ。


 花田高も、随分部員が増えた。

 今では、総合学習室や英語室など、四階の空き教室だけでは部員の練習場所が足らず、職員棟の空き教室はほとんど吹奏楽部が練習に使っているし、それでも足りないから、外や非常階段、生徒棟の方も使うようになっている。

 

 勿論、他の部が使っている部屋は使わないが、そうでもして校内に分散しないと、互いの音が邪魔で、練習にならないのだ。

 とはいえ、見方を変えれば、吹奏楽部の音が、他の生徒の邪魔をすることにもなる。それでも校内に散らばって自主練することが許されているのは、吹奏楽部がずっと学校の優等生の集まりとして、教師から認められてきたからだ。


 心菜も、どちらかと言えば、優等生に見られる一人だろう。

 他人からどう見られているかなど、どうでも良い事だが、そのおかげで練習がしやすくなるのなら、良い方に見てもらった方が都合は良い。


 制服のポケットに入れていた携帯が、振動する。

 取り出して画面を見ると、真二からのメールだった。


『先に校門に行っとく、お前も来いよ』


 すぐに、返信を打つ。


『ちょうど終わったから、行くね、待ってて』

『千奈と隆は、先に帰った』


 携帯を閉じ、立ち上がる。トランペットと譜面台を持って、教室を出た。

 楽器ケースの置いてある総合学習室に戻ると、もう、部員はほとんどいなかった。入り口で、星子とひなたが練習しているくらいだ。

 楽器ケースを置いていた席に座り、トランペットを仕舞っていく。


「お疲れ」


 隣に、莉子がやってきた。


「お疲れ。莉子も今終わり?」

「うん。コウキ先輩に、フリューゲルの練習見てもらってた」

「そっか」


 莉子のペア練習の相手は、コウキだ。

 心菜もまた、コウキが相手である。

 

 二人も見るのはコウキの負担が大きいのではないかとも思うのだが、コウキにとっては何てこともないようだ。

 来年、三年生になる莉子と心菜が、よりレベルアップすること。そのためには、コウキが直接指導したい、ということらしい。

 

 実際のところ、コウキの指導は全部員から大人気であり、直接見てもらえるのは幸運なことなのだ。

 隙あらば見てもらおうと、コウキの暇を窺っている部員も多いのである。


「早く帰ろうと思ってたのにまた最後までやっちゃったよ」


 莉子が言った。


「何か用事でもあるの?」

「信太君と電話」

「えっうっそ」


 信太とは、莉子が想いを寄せている野球部の男子だ。


「電話できるようになったの?」

「ちょっと、勉強教えるだけね」

「それでも大進歩じゃん」

  

 恥ずかしそうに、莉子が笑っている。


「上手く電話できるかなぁ。ねぇ、心菜は真二といつもどうやって電話してる?」

「私は、特に……何も考えてないけど、まあ、自然体で、とか?」

「それが出来ないから聞いてるんだけどなぁ」

「私だって、よく分かんないし。それこそコウキ先輩に聞けばよかったのに」


 コウキは、練習の指導だけでなく、恋愛相談でも、大人気だ。

 特に女子部員は、好きな人が出来ると、積極的にコウキに相談に行く。実際、コウキのアドバイスを受けて、意中の子とデートまで行けたという子も、いるのだ。


「あー、そっか、しまったなぁ」

「まだいるんじゃないの、コウキ先輩?」

「洋子ちゃんと、帰っちゃった」

「あーらら」

「まあ、頑張ってみる」


 カチリ、と楽器ケースの鍵をして、莉子が立ち上がった。

 心菜も、ケースを閉じて、立ち上がる。

 鞄も持って部室へ行き、ケースを仕舞ってから、莉子と階段を降りた。

 

 校門まで向かうと、メールをくれていた通り、真二が待っていた。他の部員もチラホラと残っている。


「じゃあ莉子、またね」

「ん、また明日」


 莉子と別れ、真二と合流する。


「お待たせ、真二」

「おう」


 地べたに座り込んでいた真二が、立ち上がる。

 そのまま、並んで歩き出した。


「今日も疲れたねぇ」

「だなぁ」

「もうすぐ、プールコンかぁ」

「その後は、もうオーディションだぜ」

「あー」


 考えたくなくて、忘れていた。

 七月十二日、土曜日。その日が、オーディションだ。五十五人のコンクールメンバーを決める、運命の日。

 最近、部内がピリピリしているのは、それが近いからだろう。


「そういや心菜、聞いたか?」

「何を?」

「一年の間で噂になってるんだよ。こないだのソロコンの順位が、実はオーディションに影響してるんじゃないかって」

「は、なにそれ?」

「今回のソロコン、全員分の順位が発表されただろ」

「うん」

「あの順位の高い順から、オーディションに受かるんじゃないかって噂」

「そんな訳ないじゃん」

「だよなあ」

「誰が言い出したの?」

「知らね。でも、一年の間ではそこそこ信じられてるみたいだぜ」

「何でリーダーに本当かどうか確かめないかなぁ。確かめれば、すぐ嘘って分かるのに!」

「まあ、一年からリーダーに話しかけるのは、難しいんだろ」

「何でよ」

「格が違う、んだってよ」

「誰がそんなことを?」

「うちのパートの一年生達は、そう言ってるな」

「……何よ、格が違うって、意味分かんない」


 リーダーも、所詮はただの部員だ。格も何も無い。コウキを神格化するというなら分かるが、心菜は、他の部員と、大して変わらないではないか。


「こんだけ部員数の多い部活を経験してる奴って、そうそういないだろ。その部で部員をまとめるリーダーやってる人間ってのは、まあ、上に見えるんじゃね?」

「真二も、そう見えるの?」

「なわけないだろ。だったら、お前とこうやって帰ってないって」

「……そう」

「まあ、そうでなくても、一年生が二、三年に部の事を聞くのは、何となくしづらいんじゃないか。俺らが中学の時も、そうだったじゃん」


 言われてみれば、そうだった気もする。


「うちはあんまり上下関係みたいなの少ないけど、入ったばかりの一年には、そういうのも、まだよく分からないのかもな」

「そういうもんかな」

「多分」


 静かな夜道に、二人の靴音だけが響いている。いつも、学校の敷地の横を通って帰るが、この時間に車が通ることは、滅多にない。

  

「……なんか、真二も先輩らしくなったね」

「そうか?」

「うん、後輩のことを考えて話してる」


 中学の時の真二は、学年が上がっても、いつも自分の練習の事ばかり考えている子だった。

 今でも練習熱心な所は変わらないが、花田高で色んな経験をして、他人の事を考える余裕も、生まれるようになったのかもしれない。


「そんな気はなかったけど、そうなのかな」


 照れ臭そうに鼻をかきながら、真二が言った。


「良い事だと思うよ。少なくとも、私はそっちの真二の方が好きだな」

「……」


 言ってから、恥ずかしいことを口走ったことに気がついた。


「好きって、あれだよ、人としてとか、そういうのだからね? 真二が好きとかそういうのじゃないから、勘違いしないでよ」

「ん、おう」


 何よ、その反応。

 こっちまで、反応に困るじゃん。


 何となく気まずくなって、二人とも、無言になってしまった。

 緩やかな上り坂。

 数分も歩いていれば、もう、心菜の家だった。


「じゃ、また明日な」

「うん」

「おやすみ」

「あ」


歩き出そうとした真二が、止まった。


「なんだよ」

「いや、あのさ、真二」

「何」

「今日……」

「うん」

「夜、電話しない?」

「何の電話?」

「何のって、何でも無いけど」

「……なんだそれ」


 確かに、なんだそれだよな、と心菜は思った。

 電話しようなんて、わざわざ誘う間柄でもない。

 変に思われたのだろうか。

 

「……んじゃ、九時ぐらいな」

 

 顔を上げる。


「え、良いの?」

「良いよ、別にすることもないし」

「あり、がとう」

「それだけ?」

「うん」

「じゃあ、また後でな」

「うん、後で」


 今度こそ歩きだした真二の背中を、心菜は門扉の前で見送った。

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