十四ノ二十四「ゼノ」
傷一つない、銀色の輝きを放つトランペット。
自分の手の中に握られたそれは、どれだけ眺めていても見飽きないくらい、美しかった。
トランペットとしての基本の形状は保ちつつ、主管を支える二本の支柱は吹奏感への影響を考慮して、計算された配置になっている。
そしてトランペットの心臓とも言えるピストンからバルブケーシングにかけても細かな改良が加えられ、より軽量で指に馴染む反応性だ。
そして、ベルの上部には、XenoArtistModelの刻印。
日本の楽器メーカーであるヤマハが手がける、最上級モデルのトランペット。コウキが、長い間目をつけていた楽器だった。
これまで使っていた楽器と比べると、各段に反応が良くなり、音に艶が生まれるようになった。
まさに、アーティストのための楽器。奏者にとって、相棒となりうる名器。
ゼノとは、外から来た、という意味がある。
米国で始まった開発を経て、日本国内で量産化に成功し、世界のアーティストからも認められるようになった最高のモデル。その名前としては、これ以上ないほど最適だ。
扱う者として、身が引き締まる想いである。
この楽器なら、今まで以上に、コウキの中にあるイメージを明確な音にすることができるだろう。
そのためにも、まずはこの楽器に慣れることだ。隅から隅まで把握し、音の癖、吹奏感などを、身体に染みこませる。
そして、コンクールとソロオーディションに、全力で挑む。
「よし、やるか」
呟いて、椅子から立ち上がった。
英語室の窓際。開け放った窓からは、心地良い風が入り込んでカーテンを揺らしている。
例年通りなら、もうすぐ梅雨になる気がするのだが、そんな気配は微塵も感じさせない程の晴天だ。
静かに楽器を構え、口元に、マウスピースを当てる。深く息を吐き、吸い込み、そして、吹き込んだ。
一本の太い芯が打ち込まれたかのような、ずっしりとして、それでいてどこか身体が浮くような軽やかさも感じる、透明感溢れる音。
真っすぐにロングトーンしただけのFの音が、心地良く耳を刺激してくる。
良い音だ、とコウキは思った。
そのまま、Fのスケールで一オクターブ下に下がり、戻ってニオクターブ上がる。
どの音も、これまで感じる事の無かった艶が含まれるようになった。
輝かしい音。
まさに、コウキの求めている音。
リップスラーでの跳躍も、オクターブでの上下も、何の引っかかりもなく、気持ちよく上がることができる。
音のツボも分かりやすく、どっしりとした吹奏感はありつつも、反応の良さのおかげで、音がするすると出ていく。
「良い楽器だ」
浜松の楽器店で、入念に試奏はさせてもらった。
その時から感じていたことではあるが、吹き慣れた空間で鳴らしてみると、一層、この楽器の持つ性能の高さが実感できる。
それからも、吹き慣れた練習メニューをコウキはいくつか吹いた。
簡単なものから少し複雑なものへ、唇の慣らしも兼ねながら、楽器の特性を身体に覚えこませていった。
あまりじろじろ見ると失礼なのは分かっていても、華は、コウキの持つ楽器をチラ見せずにはいられなかった。
まばゆい光沢。見惚れる程美しく、完成された形状。何より、コウキの手に握られたそれという光景が、尊かった。
華が持っている楽器の、最上級モデル。まだ発売されて数年の、華が頼み込んでも買ってもらえなかったものである。
コウキは、楽器店でローンを組んでもらい、卒業したら全て自分で払うという約束で、買ってもらったらしい。
それを聞いた時は、そんな手があったのか、と頭を抱えた。
楽器を買ってもらった当時の華には、一括で買ってもらうことしか選択肢が思い浮かばなかったから、親に出してもらえる限界の額だったスタンダードモデルにしたのだ。
カスタムモデルですら高額すぎて手が出なかったのに、それを更に上回るアーティストモデルである。
来年から自分で払うという選択肢を提示できたからこそ、コウキは買ってもらえたのだ、と言っていた。
これが、年齢の差か。
吹いてみたい。
コウキの楽器を、吹いてみたい。
頼めば、試奏させてもらえるだろう。
だが、もし吹いてしまって、想像以上に気に入ったら。
今の自分の楽器に対して、不満を覚えてしまうかもしれない。
華にとっては、間違いなく、今の楽器が相棒なのだ。この子で中三のコンクールも挑んだし、いつだって一緒にやってきた。
その子に、不満を抱くなんて、嫌だ。
惹きつけられる目をどうにか逸らし、華はため息を吐きだした。
あまり、視界に入れないでおこう。
そうすれば、羨ましいなんて気持ちも、抱かなくて済む。
「中村華。聞いてるのですか」
「! はいっ、すみません!」
丘に呼ばれて、華は姿勢を正した。
「全員で、Aからと言いましたよ」
「ごめんなさい!」
慌てて、楽器を構える。
「サン、シ」
課題曲『ブライアンの休日』の練習記号Aからは、トランペットのメロディが始まる。丘の指揮を注視しながら、華はトランペットに息を吹き込んでいった。
今、華が担当しているのはセカンドである。
ファーストがコウキと莉子で、セカンドが華と音葉と心菜で、サードが万里とみか。このパート分けは、コウキが決めたものだった。
セカンドパートは、ハーモニーを担当することが多いが、同時にファーストの補助としてメロディを吹くこともある。ある程度上の音から低い音まで、まんべんなく吹かされるため、柔軟な唇と音感が求められる、難しいパートと言える。
加えて、ファーストに寄り添うような演奏が求められるため、人の音に瞬時に合わせていくアンサンブルの能力も必要となる。
セカンド奏者が完璧に吹きこなすと、ファーストの負担が大きく減るため、需要なポジションだ。
職人のような繊細で丁寧な仕事が求められる。
そういうところが、華は好きだった。
「もう少し軽やかさを出しましょう。十六分の音は前につけすぎず。しかし、前の符点八分に関しては、短く切り過ぎないように。しっかりと響きは出しつつ軽くしましょう」
「はい!」
「もう一度Aから」
再度の演奏の途中で、丘が止める。
「ベースだけください」
「はい!」
低音パートだけで、Aからの演奏。
すぐに、丘が止める。
「いつも言っていることですが、ベースの皆さんは、ただ四分音符を吹いているわけではないのです。曲において勢いや流れを作るのはパーカッションのように思われがちですが、貴方達ベースこそが、曲の勢いや流れを生み出しているのですよ。
楽譜を見てください。二小節ごとに、動きがあるでしょう。その動きこそが、曲の根幹なのです。その二小節、そして連なった四小節、更にはフレーズとしての八小節のまとまりをどう奏でるか。それがベースの仕事であり、醍醐味でもあります。
音量も一定ではないのです。フレーズに流れがあるように、ベースの刻みにも流れを作ってください」
「はい!」
「もう一度行きましょう」
丘の腕が、しなやかに動く。
丘の指導は、的確で分かりやすく、華の好みだった。指揮の振り方も、奏者に寄り添ったものである。
言うほど多数の指揮者に指導されてきたわけではないが、人によっては、奏者が楽器を構え、心の準備をする前に棒を振りだす人もいる。そういう人に指揮をされると、自分の中のリズムを整える暇がなくて、呼吸が浅くなったり、心に忙しなさが生まれたりする。
その点、丘はきちんと奏者一人一人の準備を確認してから、指揮を振る。演奏を止める時も、必ず指揮棒を指揮台に当てて、音で知らせてくれる。おかげで、指揮が止まったことに気づかずに無駄に吹き続けるようなこともない。
楽譜に慣れて目を離せるようになってからなら別だが、まだ楽譜を見ながら吹かねばならないような曲だったりすると、そのほんのちょっとの無駄が、体力的にも、時間的にも、浪費となるのだ。
「良い感じですよ。あとは、ベースの全員で、完全にそのリズム、流れ、勢いを揃えてください。それは、セクション練習で重点的にやるように」
「はい!」
「では、もう一度Aから全員で」
「はい!」
すかさずトランペットを構え、丘の指揮棒に注視する。
合奏は、それから一時間以上、休むことなく続けられていった。




