十四ノ二十二 「トランペットソロ」
トランペットを、真っすぐに構える。視線は遠くにやるが、何かを見ているわけではない。
肩の力を抜いて、息を吐ききる。それから、深く吸い込んだ。
Gの音から始まる、トランペットソロ。自由曲の冒頭だ。
透明感のある美しい旋律で、地平線から昇る朝日という情景が、自然と脳裏に浮かび上がる。それは、音葉がまだ幼く、両親の仲が悪くなかった頃に、旅行先で三人で見た景色だ。
そして、もう、二度と見る事のない景色でもある。
張り上げるような音色ではなく、柔らかく、それでいて芯と艶のある音色が、このソロには相応しい。
息は長く、丁寧に流す。音と音の境目ははっきりとしつつも、連続した一つの音かのように。
一度吹いては、また吹く。
何度でも、吹く。
頭の中に浮かぶ情景は、まだ、はっきりとはしない。
自分の中にあるイメージを、完璧に音で表現する。それが、ソロだ。
花田高の吹奏楽コンクールは、県大会から始まる。しかし、音葉の戦いは、合宿からだった。
トランペットソロの、オーディション。合宿で行われるそれで選ばれた奏者が、コンクールでもソロを担う。
バンドにとって、何よりも重要なポジションだ。曲の始まりを務め、その後の曲の出来すらも左右する。
「私が吹きたい、いや、吹く」
毎日のように、口にしている。自分の中の目標を口にして、それを実現させるために、努力する。そうやって、音葉は常に一番であり続けてきた。
ふと、耳に伝わってきた音に、眉を顰めた。
Gから始まる旋律。今しがた、音葉が吹いていたものである。
音葉とも違う切り口から攻めている表現。
この音はコウキだ。
上手い。
心の中で唸り、奥歯を、噛みしめた。
校内ソロコンで、コウキは六位だった。音葉は、九位。
それが、今の二人の間の実力差、ということになる。
合宿まで、三十日。
そこまでで、コウキ以上のものを作り上げなくてはならない。
「大丈夫」
合奏の中で奏でるソロには、想いが求められる。技術だけでは決して奏でられないもの、それが合奏の中で奏でるソロだ。
音葉には、想いがある。音楽だけは誰にも負けないという、人一倍強い想いが。
一年だからとか、三年は最後のコンクールだからとか、そんなことはどうだって良い。
素晴らしい音楽は、自ら奏でたい。
誰かの奏でた音楽に酔いしれるのではなく、自分の音楽で酔いしれたい。
コウキが上手いとか、経験の差があるとか、そんなのも、関係無い。
音葉が勝つ。
華も、心菜も、蹴散らす。
「私が、ソロを吹く」
もう一度呟き、コウキの音を耳から追い出して、トランペットを構えた。
一つひとつの音を、チェックしていく。音程、響き、艶。
ここは英語室だ。英語室とコンサートホールでは、空間の持つ響きや残響が異なる。
ここで美しい音が、ホールでも美しいとは限らない。
それを意識する。
今、自分が立っているこの場所は、黒塗りの舞台、普門館だ。
中学生の時に立った、あの栄光の舞台。
今、音葉はそこに立っている。五千人の観客を前に。
本番の空気感、熱量、心理状態。それらを、強く、強く思い描く。
身体が、イメージに反応して、力を帯びだした。それは緊張とも呼ぶ。だが音葉にとっては、力だ。
本番にしか生まれない力。
それを、練習の時から自分に覚えさせる。
常に、あの力を抱えて吹く。
それで、音葉の音に魂がこもる。
私の音。他の誰でもない私だけの音。
それが、音葉自身の、そして周りの全ての人の心を、揺さぶる源となるのだ。
楽譜を前に目を閉じ、腕を組む。そうして、三十分は立ち尽くしていた。
このソロに対して、どう向かうのか。どう、奏でるのか。
華の中では、まだ、その明確な答えが出ていない。
その状態で吹くソロに、意味はない。
特別難しいフレーズではないのだ。練習よりも、このフレーズに込めたい想いの方が重要だった。
「私は、どう吹きたい?」
美しい旋律だ。
昔、父と智美と一緒に登った山。そこで父が教えてくれた、夕陽が町を朱く染め上げる様子が見える、秘密の場所。
あそこで見る夕陽が、好きだった。
この旋律を聞いて思いだすのは、あの夕陽と町並だ。
華が生まれ育った町。ずっと生きてきた町。太陽は、いつも華と町を照らし続けてくれていた。
あたたかさ。
そう、あたたかさという言葉が、ピタリとはまる。このソロは、そういうものだ。
では、華にとってのあたたかさとは、何なのか。
人の想いか。優しさか。それとも、別の何かか。
頭の中にぼんやりと浮かび上がるそれは、明確な形をなさない。
何かが、すぐそこまで出かかっている。なのに、出てこない。
「どう吹くのか……」
また、呟く。
華が表現するのは、あの夕陽か。それとも、町並みか。
それとも、あのあたたかさなのか。
何を表現すればいい。どう、奏でれば良い。
「あ~、やめやめ」
考えても、すぐには答えは出ない。
目を開けて、軽く伸びをした。身体が小さく震え、ふ、と力を抜いた。息を吐き出し、肩を回す。
焦ることはない。
いつだって、ソロには時間をかけてきた。今回も、同じ事だ。
華は、天才ではない。
何にだって、時間がかかる。でも、いつも最後には間に合わせてきた。
今回も、そうだ。まだ、三十日もある。
焦っても、良い演奏にはならない。
本当に心に響く音にしたいなら、焦りとか、不安とか、そういう想いは忘れる事だ。
ただ、ひたすらにこの旋律に向き合う。
そうして、見えてくるものを探す。
四階の開け放たれている窓から、音が降ってくる。
中庭にいても、はっきりと聴こえてくる。
あれは、コウキの音だ。
Gから始まる旋律。華が今まさに向き合っている、自由曲のソロ。
「上手いなぁ」
呟いて、笑っていた。
華とは違う音、表現。包み込むような、いや、天の調べとでもいうのか。上から音が降ってくるからそう感じるだけかもしれないが、まるで、空高く鳴り響く、荘厳な天使のラッパ音のような印象。
上品で、しかし芯もあり、澄んだ音。
コウキの中では、もうこのソロに対するイメージは、固まっているのかもしれない。
そういえば、音葉もまた、華と違う表現を目指しているようだった。
どちらかというと、音葉の方が、この曲に爽やかなものを感じている気配がある。
「奏者が違えば、曲も変わるんだよね」
正解はない、ということだ。
作曲者が求めているイメージはあるのかもしれないが、華にとって大切なのは、それよりも自分の内から沸き起こる熱い想いだった。
それが無くては、結局のところ、作曲者の求める音だって、作れはしない。
自分の中の正解を、生み出す。いや、見つけ出す。
時間は、たっぷりとあるのだ。
丁寧に、手を抜かずに。最高の音楽を、更なる高みを、目指す。
コウキが三年生だろうと、譲るつもりはない。心菜にも、音葉にもだ。
華にとって、コウキは師匠のような存在だし、心菜は優しくて、でも大人びていて、美しくて、智美には悪いが、心菜こそ理想の姉といった存在である。
そして、音葉は、華にとって尊敬する友だ。
皆、素晴らしい。
だからこそ、その三人に、勝ちたい。
いや、勝つ、とは違う。
三人を超えたい。
華の音で、三人に認められたい。
そうしたら、華はもっともっと上に行ける。




