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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校二年生・成長編
301/444

十二ノ三十一 「竹本浩子」

 全国大会の後からプロのレッスンを受けていることは、誰にも話していなかった。

 一番親しい海にも、伝えていない。

 レッスンの時間も必ず夜か夕練が休みの水曜日に入れるようにして、部活動と被らないようにしている。

 

 誰にも気づかれないまま、いつのまにか上手くなって、部員や丘の鼻を明かしてやりたい。浩子は、それだけをアルトサックスを吹く原動力にしていた。


 夏のコンクールで、経験者としては浩子だけがメンバーから外れた。

 他は全員初心者で、唯一、浩子だけ。

 浩子が部内で一番下手だと言われたようなものだった。


 中学一年生から吹き出したからもうすぐ四年になり、経験者としては充分な時間を費やしてきている。

 それなのに、自分は選ばれなかった。

 下手なのだ。去年から吹き始めた、智美よりも。


 悔しかった。

 コンクールのオーディション結果が発表された日から全国大会まで、泣かなかった日はなかった。


 メンバーが高度な練習を繰り広げる中、自分だけが取り残されていく焦燥感。

 何でも分かり合っていたはずの海ですら、自分とは違う世界の住人になってしまった孤独感。

 全国大会のステージに立った者と、立てなかった者。

 明確に断絶された壁が、浩子と他のメンバーの間には生まれた。

 

 周りの態度も、変わった。

 元から部員と慣れ親しんでいたわけではない。それでも、メンバーになれなかった浩子を憐れむような視線を感じることもあった。

 嘲笑に似た視線もあった。

 その視線のどれもが浩子にとっては不快で、吐き気がするほど憎らしく、そして羨ましかった。


 メンバーになれなかったショックで食事ものどを通らなくなった。

 食べても吐いて、飲んでも吐いて。

 気づいたら、十キロ以上も痩せていた。

 今でもあまり食事はとれておらず、最低限の栄養の摂取が限界だ。


 だが、そんなことはどうでも良かった。

 今の浩子にとっては、アルトサックスの技術力をもっと身に着けることが最優先だった。


 小遣いも貯金も親に全て返し、持ち物で売れそうなものも全部売って、その金も渡した。中学卒業と同時に買ってもらった携帯も解約した。代わりに、プロのレッスンに通わせてもらうようにした。

 月に、二回。

 有名な吹奏楽団で演奏している人で、ソロのCDも何枚か出している。

 浩子が、いつかレッスンを受けてみたいと思っていた人だった。合同バンドで会う安川高校の部員に紹介してもらったのだ。

 

 成果は、出始めていた。

 前はできなかったことが、できるようになってきている。

 漠然と認知していただけだった自分の音の質について、もっとはっきりと良し悪しを判断できるようになってきている。


 浩子の体格や骨格、クセに合った吹き方や、リードやストラップなどの備品の選び方。

 今の浩子の技術を伸ばすのに最適な基礎練習のメニュー。

 レッスンで学んだことは、全て採り入れた。


 先生から絶対に守るように言われたことは、言われた通りにしろ、だった。

 大抵の人間は何かを学んでも、言われた通りや学んだ通りにやらず、どこかで自己流を混ぜ始めるのだという。

 そういう人間は、結局言われた通りにやれていないから伸び悩んでいく。


 言われたことを、言われた通りにやる。自分で曲解してアレンジしない。

 キツく戒め、とにかく言われたことを言われたようにやり続けている。

 

「一万回やれ」


 先生は、レッスンの度にそう言った。

 ちょっとやって辞めて、また次のことをして、ちょっとしたらまた辞めて。その繰り返しでは、何も身につかない。

 単純で、初心者がやるような簡単で基礎的なこと、そのたった一つをただひたすら繰り返す。

 百回や千回ではなく、一万回、言われたようにやり続けろと。

 そうすれば、必ず上手くなるからと。

 浩子がすがれるのは、もう先生の言葉だけだった。

 信じて、やり続けるだけだった。

 

 どんなに他の人との技量の差を感じても、焦らない。

 焦らず、やり続ける。

 吐こうが、倒れようが、誰よりも吹き続ける。

 そうすれば、一年もあれば、大抵の人には負けなくなるからと。


 今は、それだけだ。

 他の何もかも、どうでも良い。

 ただ上手くなること。

 寝ても覚めても、サックスのことだけを考える。

 今は、ただ。




 翌日、目が覚めてすぐ学校へ向かった。

 すでに、トランペットとアルトサックスの音は聞こえていた。

 一番乗りしようと思っても、絶対にコウキと智美は先に部室に来ている。

 花田町に住む浩子が六時に家を出ているのだから、隣町に住むあの二人は、それよりもっと早く家を出ていることになる。

 それを、毎日。


 あの二人と登校時間で競うのは、すぐにやめた。

 先生にも言われている。

 他の人と比べて焦るなと。

 

 部室についたらすぐにサックスを出して準備をし、英語室に向かう。

 あとは朝合奏の時間まで、先生に言われた基礎練習をひたすらやり続けた。

 

 同じ事の繰り返しは当然、飽きる。飽きるが、辞めない。無心で吹き続ける。

 そのうち、何かが掴める。

 掴めると、もっと楽に吹けるようになってくる。


 まだ一万回どころか、五千回にも達していないだろう。

 でも、確実に変わってきている。

 自分の中で変化を実感できるからこそ、やり続けられた。


「浩子、おはよう」

 

 二十分ほど吹いていると、ホルンを抱えた海が英語室に入ってきた。


「おはよう」

「今日も早いね」

「うん」


 会話はそれだけで、お互い個人練習に打ち込む。

 コンクールのオーディション以来、海とも会話は減っていた。関係が薄くなったわけではない。

 ただ、話すことがなくなったのだ。

 

 海の気持ちは、分かっている。

 オーディションに落ちた浩子を慰めるようなことはしないし、自業自得だと思っているのだろう。

 自業自得なのは、事実だった。だから、海に対して怒りはないし、むしろ、今でも対等であろうとしてくれるから、ありがたい。

 

 浩子と海は、全国大会に出たか出てないかという溝はあるが、他の部分では今も唯一無二の親友だった。

 ただ、二人とも、こどもだった夏までとは世界が変わってしまったのだ。

 他人に構っている暇など、浩子にも海にもない。

 花田高という強豪校で生き延び、誰よりも前に進むには、自分と向き合い続けるしかないのだ。


 

  

 



 



 定期演奏会までふた月しかない、大事な時期だ。

 曲目も出そろって、それぞれの曲の組み立てが始まっているというのに。

 幸は、まだ放心状態だった。


 多少は、音を出すようになってきた。

 でも、練習時間のほとんどは、ぼんやりとしている。

 丘もとうに気づいていて一度注意したらしいが、効果は無い。


 三年生の一部には、そんな幸にも、原因を作ったコウキや月音にも、イラ立ちを募らせている人もいる。

 メイも、同感だった。


 早く何とかしてほしい。

 テナーサックスは現状、幸と美知留しかおらず 要は幸である。

 その幸が使い物にならなくては、演奏のバランスも何もあったものではない。

 今日の練習も、結局、幸は下を向いて覇気のない姿だった。


「いい加減うざいわ」


 部室から、栞の声が聞こえてきた。


「いつまで引きずってんのかね。迷惑なんだけど」


 中に入ると、牧絵とひまりと話していたようだった。


「辛いのは分かるけど、そろそろ、ねぇ」

 

 牧絵が頬に手を当てながら言った。


「あ、メイちゃん、お疲れ様」

「お疲れ様です」

「メイちゃんもそう思うでしょ」

「何の話ですか、栞先輩?」

「幸ちゃんのこと」

「ああ」

「練習にならんじゃんね」

「そうですね」

「コウキ君もさ、はっきりさせてほしいよね」

「分かります」


 栞が、一際大きな息を吐いた。


「コウキ君はこういう面倒事を起こさないと思ってたんだけどなあ」

「まあねえ。でも、よく今まで何も起こさなかったな、とも思うけどね」


 ひまりが言った。


「普通あんだけモテてたら、もっと早くにいざこざ起こしてると思うし」

「まあ、それは」


 ねえ、と牧絵とひまりが、頷き合った。


「去年の先輩達も、結構心配してたよね」


 晴子や都の代のことか。

 たまに部に顔を出しに来てくれる人達だ。メイは、あまり話したことは無い。


「どーでもいいけど、うちのパートから迷惑かけてる子が出てるのが腹立つわ」

「栞は厳しいねぇ」

「いや当たり前のことだし。部活に私情持ち込むなっての」


 栞の言葉に、メイは大きく頷いた。


「分かります! 私もそう思います。私情持ち込まれると、迷惑ですよね」

「そうそう。ここ、クラスじゃないからね。部活は部活よ」


 なんだ、ここにも素晴らしい先輩がいるではないか、とメイは思った。

 そうなのだ。私情を挟む部員は、部員失格だ。

 そう言う事がしたいなら、クラスでやればいい。


「はーあ、仕事してこよ。メイちゃんも足止めさせてごめんね」

「いえ」


 ちょっと手を振って、栞は部室を出て行った。


「私達も、練習しよっか」

「そうだね」


 牧絵とひまりも、部室を出て行った。

 一人残ったメイは、部室の奥の洗い場に行き、蛇口から水を出した。

 勢いよく流れ出る水で、手を洗う。冷たい水が、手の温度を奪っていく。


 部室の外からは、夕練後の個人練習をする部員たちの音が聞こえてくる。

 隣の総合学習室でひなたが吹いているらしく、ぎこちないロングトーンが鳴り続けている。

 ぎこちないといっても、入部初期から比べると、ひなたの音は大分良くなっていた。プロのレッスンを受けだした成果もあるだろうし、本人の努力もあるのだろう。

 世界一難しい楽器とも言われるオーボエを、めげずに頑張り続けるひなたには、好感がもてる。

 それに、ひなたは恋愛話をしない。


 水を止め、ハンカチで手を拭きながら、窓に反射する自分を見る。

 中学時代の事件があってから、メイは恋愛を嫌うようになった。

 部活動に恋愛は、不要だ。そんなもの、人間関係を壊す原因にしかならない。

 ドキドキや幸せ以上に、苦しさや憎しみといった負の感情を生む元になり、それが部に淀みを生み出していく。


 栞や、ひなたや、理絵。

 花田高にも、メイと同じような人はいる。

 そういう人ばかりなら良いのに。


 部室の扉が開いて、誰かが入ってきた。

 窓の反射で見えるようにちょっと位置を動く。

 幸だった。

 メイは、思わず顔をしかめた。


 振り向くと、焦点の定まらないような表情の幸が、サックスの棚の前に立った。

 自分のケースを取り出し、少し停止したあと、出て行こうと扉の方に歩き出した。

 その緩慢な動きを見ていたら、唐突に、苛立ちが沸き上がった。

 幸に対する、不快な感情。胸の中で何かが燻り、燃え上がる。


「そんなんなら来なきゃいいのに」


 思わず、呟いていた。

 幸の足が止まった。

 はっとして、口を抑える。

 

 しばらくして、幸は部屋を出て行った。

 閉まった扉を見て、メイは、舌打ちをした。

 

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