十二ノ三十 「理絵とメイ」
恋愛をしてはならないというルールは、吹奏楽部にはない。
事実、交際している部員は複数人いる。
リーダーでも二年生の勇一と美喜は交際しているし、摩耶と正孝も多分まだ交際しているはずだ。
トロンボーンの咲とユーフォニアムの久也だって交際を始めたし、智美の見立てでは、恐らくホルンの武夫と園未も交際している。
そう、恋愛自体は、問題視されていないのだ。
部員達が恋愛のことで問題を起こさないように気を付けているから、というのもあるだろう。
ただ、それがコウキの話となると、別だ。
智美自身もコウキ本人に誤魔化し続けるなと言ってきたが、いざその時がくると、問題は深刻だった。
横に座っている幸を、ちらりと見た。
目は虚ろで、抜け殻のようになっている。正孝や栞がどれだけ注意しても、幸は反応を見せない。
しまいには、二人とも幸のことは諦めて、放置してしまっている。
「次、七十五小節目から合わせるよ」
メトロノームの規則正しい音をバックに、正孝が言った。
パート全員で返事をして、合わせていく。
幸は、マウスピースは加えても、音は出ていなかった。
パート練習が終わって、総合学習室へ戻ろうかという時、栞がいつになく冷たい目をしながら、幸の横を通り過ぎた。
「いつまでもその調子は許されないからね、幸ちゃん」
凍りつくような声色に、自分のことではないのに、智美は背筋が冷たくなった。
「幸」
智美は、呼びかけた。
「うん」
気の抜けた返事が返ってくる。
「あんまり、落ち込まないようにね」
今度は、返事がなかった。
コウキが、月音と交際を始めたのではないか。
その噂が、部内に広まっていた。
誰も、真相を聞けない。
ファンクラブのメンバーである美知留でも、その情報は、掴めていなかった。ただ、美知留曰く、ほぼ黒、ということだった。
親しい部員が月音本人に聞いても、月音ははぐらかすらしい。
ただ、はぐらかすということは、そういうことなのではないかと部員は勘ぐってしまう。
噂が広まり始めたのは、コウキと月音の様子が、以前と変わったからだった。
コウキが月音と居る時の表情が、以前と変わったのだ。
それは、智美が見ても分かるものだった。
それに、二人が一緒にいる時間も増えていた。
勿論、練習に支障が出るようなことは一切ない。コウキがそんなことをするわけがないから、そこは心配していない。
智美もコウキに尋ねようかと思ったが、聞くな、という雰囲気がコウキからはにじみ出ていた。
それを感じ取れないほど、智美も鈍感ではない。
幸も当然気づいていて、恋に破れたショックで、二日前からこの調子だった。
夕や元子が慰めても、今の幸には効果がなかった。
「帰ろうか、幸」
練習時間が終わって解散したあとも席から動かない幸に、智美は声をかけた。
黙って、幸が立つ。
背中を押しながら楽器ケースのとこまで連れて行き、一緒に楽器を片付けた。
「コウキ先輩、練習見てください!」
トランペットの一年生のみかの声。
「おう、いいよ」
コウキの声がして、智美は顔を向けた。
「先輩、私も」
「あ、私もお願いします」
心菜と莉子だ。
「じゃあ、皆でやろう」
部屋から出て行く四人。
智美はため息をついて視線を戻し、ぎょっとした。
幸が、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
コウキの声で、反応したのだろうか。
「幸……」
智美はハンカチを出し、幸の頬を拭った。
たまらなくなり、幸の頭をぎゅっと抱きしめる。
幸は、声も上げず、涙を流し続けていた。
「ぶっちゃけどう思う?」
帰り道、絵里がぽつりと呟いた。
「何の話?」
ひなたは首をかしげて答えた。
「コウキ先輩と月音先輩の話」
「何が?」
「え、ひなた、知らないの?」
絵里の向こう側からかおるが顔を見せて言った。
「何なに、知らない」
二人に何かあったのか。
「あの二人、付き合いだしたんじゃないかって噂だよ」
「ええー!?」
思わず大きな声を出してしまって、ひなたは慌てて口を塞いだ。
「そうなの?」
声のトーンを落として問いかけると、絵里が頷いた。
「私は、多分付き合ってると思う」
「全然知らなかった」
「なんか雰囲気が前と違うんだよね」
「分かるー。やっぱ絵里もそう思う?」
「うん。なんかエロくなった」
「エッ……」
顔が熱くなったのを感じて、ひなた視線を逸らした。
「分かるー」
かおるは、平気そうに笑っている。
「なんかさ、いや、あれ絶対事後だよね」
「うん、多分ねー」
「明らかにそういう感じだもん、あの二人」
「月音先輩、今までも可愛かったけど、急に一段と可愛くなったもんねぇ」
そうなのか。
「でもさあ、コウキ先輩って幸先輩とも良い感じだったじゃんねえ」
「うんうん」
「結局月音先輩なのかよって感じ」
「私、幸先輩応援してたからなぁ、残念」
「木管は大体幸先輩推しだったっしょ」
「今日の幸先輩見た、絵里?」
「見た見た。めっちゃくちゃ落ち込んでた」
「ってことはやっぱりそういうことだよねえ」
「だよねぇ」
絵里とかおるが、揃って息を吐き出した。
ひなたは、部内の恋愛事情には疎かった。コウキが複数人から狙われているという話は当然知っていたけど、それ以上深くは知ろうともしていなかったのだ。
特に変わった感じもなかったのに、他の子達は、気づいているのか。
「でも、コウキ先輩が彼氏とか羨ましいよね~」
かおるが言った。
「私もコウキ先輩みたいな彼氏欲しいな~」
「分かるわぁ。コウキ先輩が彼氏だったら学校中に自慢する」
「するよねー!」
二人が盛り上がっているのを聞き流しながら、ひなたは足元に目を落とした。
コウキと月音が、恋人。まあ、あの二人ならお似合いな気はする。部内でもトップのイケメンと美少女だし、誰にも文句のつけどころがないカップルだろう。
幸は、大丈夫なのだろうか。
ふと、ひなたは思った。
自分は恋愛経験がないから、失恋の本当の辛さは分からない。だけど、きっとかなり心にくるものなんだろうということは、これまで色んな友人達が失恋した姿を見てきたから、何となくは分かる。
誰かの恋が成就すると、誰かの恋が終わる。
「恋愛って、悲しいんだなぁ」
ひなたの呟きは、二人には聞こえていなかった。
結局、コウキも猿だったということだ。
総合学習室で、月音と談笑するコウキを遠目に見ながら、メイは鼻を鳴らした。
部内でコウキがモテているのは周知の事実だった。だが、コウキは特定の女子部員と付き合うことはせず、距離を保っていた。
それが、メイには好感だった。
部に私情を持ち込まない。それは、特にリーダーであるほど、当然守るべきことなのだ。
にもかかわらず、花田高ではリーダーの中に二組もカップルがいる。
それがメイには不満だった。しかも、正部長と正学生指導者がカップルなのだ。ふざけろ、という気持ちだった。
だから、コウキが正学生指導者になったことが、メイには喜ばしいことだった。
なのに。
「メイ、なんかご機嫌斜め~?」
頬をつついてきたかおるの指を、手の甲で払う。
「分かってるならふざけないで」
「怖いよ~。どうしたの?」
「別に」
かおるに話しても、意味は無い。
なおもちょっかいをかけようとしてくるかおるに背を向けて、メイはフルートを吹き出した。
恋愛なんて、大人になってからすればいいのだ。
部活動という狭いコミュニティでやることではない。
そもそも、花田高吹奏楽部は、コンクール全国大会を目指す部なのだ。なのに、恋愛なんて許していいわけがないのだ。
丘も、甘すぎるのではないか。
だからこの部は、あと少しのところで前に進めないのだ。
もっと、規律を引きしめるべきである。
怒りの感情が、音に乗ってしまう。
抑えようとしても、音は波立つ。
頭の中に、あの女のことが思い浮かんだ。メイの彼氏を寝取った、悪女。
腹立たしさがこみあげてきて、足を踏み鳴らした。
「うおっ」
背後で声がして、メイは振り返った。
「ビクッたぁ、何怒ってんの、二岡」
打楽器のだいごだった。
「怒ってない!」
「いやどう見ても怒ってんじゃん。ヒステリーかよ」
「んだってぇ!?」
「こーっわ。近寄らんとこ」
ニヤニヤしながら、だいごが走り去っていった。
「っ……もう!」
やめだ。
練習する気にもならない。
フルートを机の上に置いて、メイは部屋を出た。
ちょうど、部室から勇一と美喜が出てきたところだった。
この二人が、諸悪の根源だ。リーダーでありながら恋愛にうつつを抜かしている。こんな人達がリーダーであることが、許せない。
「メイちゃん、どしたの、顔が怖いよ?」
「何でもありません!」
目を合わせず、二人の脇を通り抜ける。そのまま廊下を曲がり、階段を下りた。
どいつもこいつも。まともな人間は、この部にはいないのか。
「じゃあ、音響さんに渡すスコアと照明さんに渡すスコアの準備は、完了したわけね」
「はい」
階下から、声が聞こえてくる。
「じゃあ、それすぐ涼子先生に渡しておいて。あと、それ終わったら……」
理絵と、七海だった。
「あ、メイ」
「お疲れ様です」
七海に頷き、理絵に、頭を下げる。
二人の脇を抜けようとしたところで、理絵が呼び止めてきた。
「七海ちゃん、また後で話そう。先にスコア渡してきちゃって」
「分かりました」
七海が一礼して、階段を上っていった。
理絵が、メイをじっと見てくる。その視線に気圧されて、メイは少し居心地の悪さを感じた。
「何でしょう、理絵先輩」
「メイちゃん、休憩?」
「あ、はい、そうです」
「ジュース買いに行くの?」
「そういうわけじゃないですけど」
「そっか、私水買いに行きたいから、一緒に行こうよ」
「え」
「何か奢ったげる」
ついてきて、と理絵が言った。
「いえ、良いですよ、私は」
「まあまあ。お小遣い入ったばっかだからさあ、ラッキーだと思って」
「……ありがとうございます」
並んで、階段を下りていく。
何故、メイに。素直な疑問だった。メイと理絵は、それほど親しくはない。セクションも違うし、三年生だから、あまり気安く話しかけて良い存在でもなかった。
「メイちゃんは、いつも真面目に練習してて偉いねぇ」
「当然のことですから」
「それを当然だと思えるのが、偉いんだよ。一年生なのに」
「上に行きたくて、ここに来ましたから」
「関西から引っ越してきたんだっけ、メイちゃん」
「はい」
「親御さんの仕事の関係で?」
「そうです」
「よくうちに来てくれたよねぇ。即戦力で、ホントに助かるよ。フルートの経験者、今年メイちゃんだけだったしね」
お世辞だ。メイは、全然上手くない。
「でも、あんまり関西弁って感じしないね?」
「好きじゃないんです。だから、出ないように気を付けてます」
「そうなんだ」
会話が止まる。
一階に下りて、渡り廊下の自販機の前に、並んだ。清涼飲料水やコーヒーなど、色んな飲み物が並んでいる。
ここに買いに来たのは、初めてだった。
「メイちゃん、どれにする?」
水のボタンを押しながら、理絵が言った。
音を立てて、取り出し口にペットボトルの水が出てくる。
「あ、じゃあ、私も同じので」
「ん」
もう一度理絵がボタンを押すと、もう一本、水が出てきた。
「はい、どうぞ」
理絵が、笑顔で渡してくる。
「いただき、ます」
蓋を空け、一口飲む。冷たい水が、喉を潤した。
「メイちゃんは、あんまり他の子とわいわい騒がないんだね」
理絵が言った。
「え、あ、まあ……」
「人付き合いは、苦手?」
「そういうわけじゃないです。ただ、あんまり馴れあいたくなくて」
「そうなの? なんで?」
理絵と目を合わせた。
切れ長で、すっとした目だ。力強さがあって、いかにもリーダーというタイプの目力がある。
三年のリーダーでまともだとメイが評価しているのは、理絵くらいだった。
「皆、口を開けば恋愛の話ばっかりだから」
「恋愛の話、嫌いなの?」
「嫌いです」
きっぱりと言った。
「部活動に不要なことですから」
「でも、練習の話とかもするでしょ?」
「そういう話は、勿論私もしますよ。でも、必要以上に仲良くすると、誰が好みとか、誰と誰が良い仲だとか、つまらない話をされるから、それが嫌なんです」
「そっかあ、そうなんだね」
そう言って、理絵はペットボトルに口をつけた。
真冬の渡り廊下は、寒い。風が吹くと、ガタガタと震えてくる。
行こうか、と理絵が言って、歩き出した。
「まあ、メイちゃんの言う事も分かるな。恋愛なんて、要らないもんね」
「でも、うちの部、恋愛は禁止されてないですよね」
「うん、そうだね」
「なんでなんですか? 恋愛なんて、もめ事の最大の要因じゃないですか。うちの部、カップル多いですよね。リーダーにまでカップルいるし」
「ん~」
階段をのぼりながら、理絵が考える仕草をした。
「丘先生がダメって言えば、皆しないはずですよ」
「そうだねえ」
「部長と学生指導者がカップルなんて、他の部員に示しがつかないじゃないですか」
「摩耶と正孝のこと?」
「……はい」
「あの二人、今も付き合ってるのかなあ」
「え、別れたんですか?」
「いや、分かんない。最近聞いてないけど、喧嘩した話は聞いたから」
「そうなんですか」
「まあ、なんで禁止にしてないかについては、多分、何々したらダメ、みたいな規則は音楽に良い効果がないから規則にしてないんじゃないかな」
「え、でも他の学校だとそういう部活ありますよね」
理絵が頷く。それから、少し遠回りをしようと言われて、二階の廊下を歩くことにした。
「考えてみてよ、メイちゃん。楽器吹くときに、大きな音で吹くなって言われるのと、静かな音を出せって言われるのだと、受け取るイメージ、大分違くない?」
「……まあ、そうですね」
「大きな音で吹くなって言われると、小さく小さく吹こうと、縮こまった演奏になるでしょ」
「はい」
「恋愛は駄目、も同じだと思う。否定的なイメージを抱くと、部活動に対して委縮しちゃうから」
メイは、答えなかった。
「それに、人間、気づいたら誰かを好きになっちゃうみたいだしねぇ。禁止しても、陰で付き合っちゃう子とかは出てくるし、そうすると、部員同士でそれを責めたり監視しあったり、関係がギスギスしちゃうって話も、聞くしね」
「そう、ですか……」
「確かにうちの部はリーダーにもカップルがいたりするけどさ」
一歩半ほど前を歩く理絵の横顔は、まっすぐ前を見ている。
夕練後で、廊下は電灯がついている。外は完全に真っ暗で、窓ガラスにはメイと理絵が反射していた。
「でも、恋愛で問題は起こさないように一人一人気を付けてるよ。だから、大丈夫なんじゃないかな。まあ、今は、ちょっと一人だけ問題があるけど」
「コウキ先輩、ですよね」
驚いたように、理絵が振り向いた。
「あ、うん」
「幸先輩、抜け殻みたいです」
「そう、なんだよねえ」
「コウキ先輩も、結局猿なんですよ」
理絵が、吹き出した。
「おかしいですか? でも、そうじゃないですか。コウキ先輩が誰かと付き合ったら、誰かがああなるって分かってたはずなのに、コウキ先輩、月音先輩と付き合いだして。部に迷惑かけて、最低ですよ」
「それで、猿」
「はい、猿です」
メイは、鼻を鳴らした。
「まあ、幸ちゃんのことは、どうにかしなきゃだよね」
「コウキ先輩には、失望しましたよ。リーダーのくせに」
不意に、理絵が足を止めた。すでに、西側の階段のところまで来ていた。
こちらを向いて、理絵が悲しそうな顔をした。
「メイちゃんの気持ちはよく分かるよ。コウキ君の行動は、軽率だったと思う」
「そうですよね」
「うん。そこは、私もそのうちコウキ君と話そうと思ってる。でもね」
メイは、首を傾げた。
「リーダーのくせに、なんて思わないであげて。リーダーは、確かに皆の前に立つ人だけど、それでも、メイちゃんと同じ一部員に過ぎないんだよ。リーダーだから特別他の人より立派でなければならないとか、そういう風に見ないであげて」
「どうしてですか。リーダーって、特別な人じゃないですか」
「ううん、違うよ。ただ、皆の代表として前に立ってるだけ。特別なんかじゃない。メンバーの一人なの」
メイには、分からない。
「今は、まだ分からないかも。でも、考えてみて。リーダーの中には、そういう風に見られることがプレッシャーになって、押し潰されちゃう人もいるかもしれない。リーダーは皆を支えるし、皆もリーダーを支える。そういう関係性であって初めて、この部の運営は成り立つんだよ」
メイは、理絵の言葉には答えなかった。




