十二ノ二十三 「新体制」
絶大な信頼を置いていた鬼頭が、部からいなくなり、どこの馬の骨とも分からない人間が、新たに音楽監督になったのだ。生徒から、品定めするような目を向けられるのは、予想していたことだった。
進藤は、この状況を楽しんでいた。生意気なこども達が、日に日に表情と態度を変えていく。その様子が、面白い。
校舎から外廊下で通じる講堂へ向かい、重い扉を開けた。思い思いに演奏していた生徒達が、ぴたりと音を止め、立ち上がった。
「あー、良い。立ち上がらなくて良いよ」
舞台に向かいながら、進藤は手を振った。指揮台に立ち、全体を見回す。
「おはよう、皆」
「おはようございます!」
百人の、一糸乱れぬ声の圧は、さすがに腹に響いてくる。
すでに、生徒の顔と名前は、一致している。それぞれが、どういう音を出し、どういう癖を持っているのかも、把握していた。
「良いか、くどいけど、わざわざ立ち上がって出迎えなくて良い。先生とも呼ばずに、進藤さんと呼べ。俺は、君達と一緒に音楽を作っていく、対等な人間だ。どちらが上とか下とかじゃない」
こればかりは、慣れるまで待つしかなかった。今までの安川高校は、軍隊式ではないにしろ、鬼頭というトップの下に全員がいる、という形だったのだ。正反対のやり方でやっていくのだから、時間はかかる。
わざわざやり方を変えることは、リスクもあった。指導陣からも、反対の声はあった。だが、必要なことだからと説得した。
安川高校は、鬼頭ありきの体制だったから、今のレベルへと上り詰められた。しかし、鬼頭がいなくなれば、簡単に崩壊する仕組みでもあった。トップが変わろうとも、レベルを維持できること。それは、音楽監督ありきの体制では、不可能なのだ。
「さて、出していた課題曲は、進めてきたかい」
ざっと、全員を見回した。表情で、それぞれの生徒の反応は、大体見えた。自信を持っているのは、四割ほどか。
「それじゃあ、聴かせてもらおうか。誰がソロを吹くのかも、楽しみにしてるぞ」
「はい!」
指でカウントする。演奏が、始まった。課題曲として渡したのは、『茶色の小瓶』だ。進藤が、アメリカのキッズバンドで、定番として使っていた曲である。
ピアノとストリングベースの、拙い動き。凝り固まったクラシック弾きだ、と進藤は思った。全体の演奏も、クラシックの色合いを残した音になっている。
実に、日本の吹奏楽バンドらしいお手本のようなジャズ演奏である。
全体の演奏が終わったあと、進藤は頷いた。
「まあ、最初はこんなものだな。いいか。君達が普段やってるのは、クラシックな曲がメインだが、コンサートなどでは、ポップスやジャズも吹くだろう。そういう曲を吹く時、クラシックな演奏をしていたら、どうだ? ちぐはぐな演奏になって、お客さんもノリにくい。そうだろ?」
何人かが、頷いた。
「どんな曲でも、その曲にあった演奏をできるようになれ。クラシックにはクラシック、ジャズにはジャズ、そして、ポップスにはポップス。柔軟な奏法は、コンクールやマーチングでも役に立つぞ」
副顧問の斎藤に指示を出し、アメリカで指導していたキッズバンドの録音を流した。生徒よりも幼いこども達の演奏だが、少なくとも、今の安川高校よりは、遥かにらしい演奏をしている。
「小学生から高校生くらいまでの子が混ざったバンドでも、これくらいはできる。君達も、考えて吹けばすぐさ。どうしたらこういう演奏になるのか、自分達で考えて、パートで作って来てくれ。他にも参考にしてほしい音源はいくつかあるから、部室へ置いておく。好きに聞くように。分からないことは、俺に聞け」
「はい!」
課題として出していた『茶色の小瓶』はここまでにして、コンサート用の曲の指導に移った。今月末に一件と、来月に三件の演奏会が控えている。その準備も、進めなくてはならないのだ。
基本的に、コンサートの企画や運営は、副顧問の斎藤に担当してもらい、細かな部分は生徒達に全て考えさせる。
安川高校の演奏会やコンサートは、百人全員で出るものもあれば、コンクールチームだけで出るものとマーチングチームだけで出るものがある。それぞれに別れての指導も、進めていった。
進藤は、マーチングについては完全に素人だから、連日鬼頭の自宅へ行き、指導法について教えてもらっていた。部の専属トレーナーからも、指導のポイントなどは、聞いている。
今後、夏のマーチングコンテストが近づくにつれ、進藤が口を出す機会は増えるだろうが、基本は専属トレーナーを中心に進めていく方針であることは、指導陣に伝えている。
進藤は、大まかな部分での舵取りだ。その程度でも、生徒達の自ら決めるという意識が育ってくれば、問題ない。
そもそも、常に動いて演奏するマーチングでは、指揮者の進藤の出番はない。代わりにドラムメジャーという役割の者が、指揮と統率を担っており、それは代表の生徒が担当する。
つまり、生徒達だけで演奏を作っていくということなのだ。
「進藤さん」
一日の指導を終えて部室に戻ると、副顧問の斎藤が現れた。
「お疲れ様です、お茶どうぞ」
「ああ、わざわざ、すみません」
差し出された茶を、すする。
「今日もハードな練習でしたね」
「ええ。まあ、全国大会を逃して意気消沈している子達ですから。落ち込む暇を与えないのが、今は良い。それに、新チームになって、日も浅いですから」
コンクールを終えた三年生は、すでに引退している。残った一、二年生の中から、コンサートマスターとドラムメジャーといった役職も選ばれ、新体制でのスタートを切っていた。
やることは、山積みである。一つひとつこなせばいい、と言えるほど、音楽監督の仕事は暇ではない。
アメリカにいた頃は、のんびりとした暮らしだった。あの頃と比べれば、頭の中はパンクしそうだが、こういう日々も、悪くはなかった。
不意にポケットの中の携帯が震えて、進藤は、画面を見た。何度見たか分からない名前だ。最初にかかってきた日から今日まで、かかってこなかった日はない。
「すみません、ちょっと」
斎藤に頭を下げ、進藤は部室を出た。
「……もしもし」
「もしもし、進藤先輩ですか」
「香耶か」
電話の相手は後輩の、小野田香耶だった。
「やっと……出てくれましたね」
彼女の声は、震えていた。
大野なつみは、常に完璧な人間であれ、と自分に言い聞かせてきた。同時に、周りからも、そうあることを期待されていた。
なつみにとって、完璧は当たり前のことであり、他の人とは違う特別な人間であるという自覚があった。
「おはようございます!」
廊下を歩いていると、後輩達が脇に避けて頭を下げてくる。それに笑顔で応え、部室へ入った。並んでいたリーダー陣を見据え、なつみは頷いた。
「全員いますね」
扉を閉め、見回す。
「おはようございます。では、会議を始めます」
すぐに、副部長の志野が議題を発表し、各リーダーが議題毎に話しはじめた。
なつみからは、何も言わない。聞かれたことについて決断を下すのが、部長であるなつみの仕事だ。
「部長。安川高校から合同練習の誘いがあったので、受けるか判断しろと王子先生から言われました」
「安川から?」
「はい。音楽監督が変わったらしくて、その人が、王子先生の元教え子なんだそうです」
安川高校の鬼頭が引退したというのは、王子から聞いていた。その後任についても、ちらりとは聞いていた。
「受けますか?」
安川高校は、県内の吹奏楽部でもトップクラスの存在だ。光陽、安川、鳴聖女子。この三校で、毎年県大会と県代表選考会の上位を、争っている。
その安川高校からの誘いとあれば、受けた方が良いだろう。あちらも、光陽高校と同じく、すでに新体制になっているはずだ。
互いの力比べにもなるだろう。
「受けます」
「では、王子先生に報告しておきます」
「お願いします」
「部長。商店街コンサートの件で、今日の十七時から商店街の人との打ち合わせがあって、副部長と私が抜けます」
イベント係の子が言った。
「分かりました。十八時までには終わらせてください。失礼のないように」
「はい」
「部長。昨日、木管セクションの一年生同士でもめ事がありました」
「誰ですか?」
「河合君と鈴木さんと御園さんです」
三人とも、コンクールメンバーを担当するAチームだ。河合と鈴木は、交際している。
「理由は?」
「河合君の浮気、のようなことが原因らしいです」
「鈴木さんと御園さんの関係は、どうなっていますか」
「その……かなり険悪です」
「……では、私が直接話を聞きます。今日の練習後、三人を個別に呼び出して下さい。それまで、事が大きくならないようにフォローをお願いします。それから、練習を欠席したりしたら、Aチームから外すと伝えておいてください」
「はい」
他にもいくつか処理し、会議を終わらせた。
「では、朝練をはじめましょう」
「はい!」
音楽室からは、部員達の音出しの音が聞こえている。
なつみは部室の扉を開け、リーダー達の退室を促した。最後になつみが出て、音楽室へ向かった。
光陽高校では、必ず朝に十五分の会議をする。これは絶対で、時間も、十五分を厳守している。会議を長引かせても、得るものはないからだ。それよりも、一秒でも練習させることが、部員には必要である。
音楽室の前に立って、なつみは頭を下げた。
「おはようございます。今日も一日、良い音を出していきましょう」
「はい!」
中学の頃と違って、光陽高校では点呼をしない。常に全員いるのが、当たり前なのである。それは強制ではない。ただ、欠席を重ねれば、自然と部に居場所はなくなるため、誰も欠席しないのだ。
それに、休む程に練習に置いていかれるから、熾烈な競争がある光陽高校では、致命的だ。
「では、全調スケールから」
部員が、一斉に返事をする。
「良い音で」
自前の指揮棒を構え、なつみは腕を振った。




