三ノ八 「一番は、」
翌日の部活動でも、休憩時間に華と茜と話していた。今日の練習も個人練習が中心で、音楽室に人はまばらだ。
他の部員に聞かれないよう、打楽器パートの陰で輪になって座り込んでいる。顔を寄せて小声で話しているから、はたから見ると怪しい会議に見えるかもしれない。
「どうだった?」
茜が華に問いかけた。
きっちりメモしてきたようで、姉から聞いた話を、華が読み上げ始める。
「やっぱり、里保ちゃんをいじめたっていう話は本当みたいです。でも、六年の夏休みに里保ちゃんに直接謝ってきたそうですよ。それからは一切いじめをしたっていう話もなくて、むしろ二学期頃からどんどん人気者になったらしいです。で、最近お姉ちゃんが機嫌よかったのも、三木先輩と仲直りしたからっぽいです。小五から今までずっとお互い避けてたそうで」
「私がお姉ちゃんから聞いた話もおんなじだった」
今度は茜が語りだす。
「お姉ちゃん、確かに五年の頃に三木先輩にいじめられたことがあるんだって。それで嫌いだったけど、六年の夏休みに謝られて、中一で同じクラスになって仲良くなったって言ってた。凄く良い人だって言ってたよ」
二人ともが同じことを言うのなら、きっとこれは事実なのだろう。。
ただ、肝心の、なぜ六年生の二学期から人が変わったように良い人になったのか、については分からなかった。
洋子がコウキに助けられたのも、同じ時期だ。
「三木先輩がいじめっ子だったっていうのは本当みたいですね。でも、三木先輩自身も人からいじめられてることがあったって、お姉ちゃん言ってましたよ」
「ますます謎だわ」
三人で唸る様子を、フミ・フミコンビが不思議そうに見ている。
結局のところ、要の部分については誰にも分からないのだろう。コウキはあまり自分のことを人に話さないし、聞かれてもはぐらかすことが多い。たとえ一番の友達である拓也でも、知っている可能性は低い気がする。
「でもさ」
茜が、天井を見上げながら言った。
茜は所作が粗雑で、今も姿勢を変えてあぐらをかき、その拍子にスカートの中が見えてしまっているのも全く気にしていない。
「昔そういう人だったとしても、今は違うってことでしょ? なら、三木先輩はやっぱり三木先輩だよね」
華が頷いた。頷きながら、茜のスカートをいじって中を隠してあげている。
「まあ、そうですね。私のイメージが古かったみたいです。確かに今の三木先輩からそんな印象まったく受けませんでしたし」
洋子も、そう思う。
昔のコウキがどんな人であったのかは、確かに気になる。けれど、今のコウキがそれで否定されるわけではない。
コウキはコウキだ。
もし昔のことでコウキを決め付けてしまうのなら、洋子も四年生までは、まともに会話も出来ないいじめられっ子だった。それが自分、ということになってしまう。
「てか、いじめられてたお姉ちゃんが三木先輩のこと許してるなら、もうそれで終わりって感じだよね」
「ですね。わざわざ他の人に言う必要はないでしょう」
「そうだね。元から言うつもりはないけどさ」
広まったとして、誰にも良い結果にはならないのだから、あえて触れ回る必要もない事だ。
華と茜の中では、むしろこの話を知ったことで、コウキへの印象がより良くなったらしい。
「コウキ君の昔のことを知れて良かった。詳しいことは分からないままだけど、以前のコウキ君があるから、今のコウキ君がいるんだよね」
それは、洋子にとって、コウキを嫌いになる理由には全くならない。
「三木先輩って、不思議な人だね」
華が呟いた。それに茜が答える。
「その謎なところも好きなファンが多いよ。紳士で謎が多くて誰からも好かれる。モテない要素がないって感じじゃない?」
その言葉に、華が笑った。
「確かに」
自分のことではないのに、コウキが褒められるのが嬉しくて、つい誇らしげな顔をしてしまった。それを目ざとく見つけた茜が、脇腹をつついてくる。
「三木先輩のこと褒められて嬉しいんでしょ」
「ちっ、違います!」
図星だけどそう思われるのは恥ずかしくて、否定してみた。けれど茜はにやにやしたままでいる。
華もにやついていて、洋子は顔が熱くなってしまった。真っ赤になっているかもしれない。
「洋子ちゃんは三木先輩一筋だからね~」
「ですねぇ。ま、昨日今日の話で、三木先輩が良い人だってのも納得できたんで、分かりますけど」
うまく答えられず、慌てた。別に隠すつもりはなかったけれど、示すつもりもなかったので、二人にコウキへの気持ちがばれていることを知って、急に恥ずかしくなってしまった。
「洋子ちゃんって、他の男の子を好きになったことないの?」
「へえっ!? な、ないですよ!」
「え~、そうなんだ~。でも三木先輩ってライバル多いし大変じゃない?」
言われて、心臓が音を立てた。
咄嗟に、美奈が思い浮かぶ。
「三木先輩って告白されても全部断ってるんですよね?」
「らしいよ。本命がいるんじゃないかっていう噂もあるんだけど、それが誰なのか、誰にも分かんないんだよね」
茜によると、ファンクラブの情報網は結構広いらしい。それでも、誰もつかめないそうだ。
多分、本命は美奈のことで、美奈は違う中学校に通っているから、誰も思い浮かばないのだろう、と洋子は思った。
コウキは、小学生の頃から美奈が好きなはずだ。町の図書館で美奈と会った時のコウキの様子を考えれば、すぐに分かる。洋子にも見せたことのない顔だった。
思い出してしまって、胸が痛む。
「洋子ちゃんはモテるんだし、他の子も狙ってみようとか思わないの?」
思考に落ち始めていたせいで、華の言葉に反応が遅れた。
今かけられたばかりの言葉を頭の中で反芻して、驚いて、また変な声を上げてしまった。慌てて口を抑える。
「わ、私モテないよ!」
否定すると、二人とも口を開け広げて、まじまじと洋子を見てきた。
何を言っているのかこの子は、と心の中で言われている気がする。
二人はそれから目を伏せて、一際大きなため息をついた。
「鈍感だねぇ」
茜が肩をすくめている。
けれど、身に覚えがなかった。今まで、男の子に告白されたこともない。昔はいじめられていたし、人とまともに話すことも出来なかった。二人の勘違いだろう。
そう言ったら、華が肩に手を置いてきて、言った。
「昔は昔。そいつらに見る目が無かっただけでしょ。誰も告白してこないのは、洋子ちゃんのそばにはいつも三木先輩がいるからだよ、きっと」
茜も同意するように、何度も頷いている。
「私が男の子だったとしたら、可愛い可愛い洋子ちゃんのそばに、誰からも好かれる男の人がいたら自分なんて……ってなっちゃうよ。絶対告白とか無理! 遠くから見つめるだけで精一杯」
華に真面目な顔でそんなことを言われて、どう反応すればいいのか分からない。
他の男の子からどう思われているのかなど、考えたこともなかった。好きになるという発想も、浮かんだことがない。
「そう考えると、いつも洋子ちゃんのそばにいるんだし、案外三木先輩の一番って洋子ちゃんだったりして!」
きゃあっ、と茜がはしゃいだ。
それを聞いて、洋子の心は急に冷たくなった。
自分で、よく分かる。コウキの一番は、洋子ではない。
コウキは洋子を隣に居せてくれているけれど、本当は、隣に一番居てほしいのは、美奈だろう。
「違いますよ」
自分でも怖くなるくらい、冷めた声だったと思う。二人もびくりとして、洋子を凝視してくる。
取り繕う気も起きなくて、そのまま立ち上がって歩き出した。
「ど、どうしたんだろ」
「わかんないです……」
後ろから二人の小声が聞こえたけれど、無視をした。
コウキの、一番。考えると苦しくなるから、考えないようにしていたこと。
頭に浮かんできて、胸が痛くなった。気持ちが乱れ、不快感で全身が満たされる。
練習する気も起きず、とりあえず自分のスティックだけを握りしめて、音楽室を出た。
三日目も四日目も大きな出来事はなく、平常通り過ぎていった。
昼頃になって三年生がバスで帰ってきていた。バスから降りてくる三年生。教室のベランダから、その様子をぼんやりと眺める。
出発した時より多くの荷物を持っている人が、大勢いる。全部土産だろうか。
コウキのクラスはどのバスか探したけれど、分からなくて、その姿も見つけられない。
拓也と萌はすぐに分かった。萌が、こちらに気づいて手を振っている。すぐに、手を振り返した。
萌は、優しい先輩だ。
去年の夏のコンクール会場で、コウキと仲良く話している姿を見かけたのを覚えている。それで、萌もコウキのことを好きなのかと思っていた。話してみると全くその気はないようで、萌は誰とでも友達になってしまうような、気さくな人だった。
それで、洋子もすぐに仲良くなっていた。上級生の中で、一番一緒にいる時間が長いかもしれない。それくらい、萌のことを好きになっていた。
三年生は校庭で先生の話を聞いた後、そのまま解散していった。
部活動も、今日までは三年生が不在での活動になる。
「はかない自由の四日間だったねえ」
隣で茶を飲んでいた華が、しみじみと言った。
「先輩達が帰ってきて、嬉しくないの?」
聞くと、華は空を見上げた。
「嬉しいよ。ただ、一、二年しかいないっていうあのいつもと違う感じ? 不思議な空気感? も良かったんだよねぇ。特別な時間って感じで」
華は空を見上げるのが好きで、よく見上げてはぼんやりしている。雲の形や名前にも詳しかったし、空にまつわる話も、色々と聞かせてくれた。
「ちょっと分かるかも」
毎日続くと退屈かもしれないけれど、ほんの数日だけ、部内でいつもと違う風を感じられたのは良かった、と洋子も思う。
「そうは言っても、洋子ちゃんは三木先輩に早く会いたいよね~」
「え、う……」
言葉に詰まる。
華はすぐに洋子をからかう。真っ赤になるのが可愛くて、と言われるけれど、本当に恥ずかしいからやめてほしい。どんな顔をすればいいのか分からなくなってしまう。
今もまた顔が火照ってしまって、多分赤くなっていたと思う。
コウキに会いたいかと聞かれたら、当たり前だ。本当は今すぐ追いかけて一緒に帰りたいくらいだし、いつだってそばにいたいし、修学旅行の話も沢山聞きたい。
次にコウキと拓也と集まるのは明後日だから、まだ先は長い。
明日、一緒に帰れると良いけれど、と洋子は思った。
最近、コウキは人から相談をされることが増えたらしく、なかなか一緒に下校出来ていない。それでも一緒に帰りたいなどと、無理は言えないから、我慢するしかなかった。
その後も、華と雑談をして過ごした。
昼休みには、こうして華とベランダで話をするのが日課になっている。別にどちらから言い出したわけでもない。暖かい今の季節は、日向ぼっこをするのが楽しいのだ。時には洋子が先に待っていて、別の日には華が待っていて。お互いが揃ったら、何気ない会話をして過ごす。
こういう時間が、好きだ。
授業が終わった後はいつも通り部活動だった。
修学旅行から戻ってきたので、今日は顧問も顔を出してくれた。軽い合奏で基礎練習をする。洋子は、二年生の先輩から、珍しくスネアドラムを叩かせてもらえた。
練習した甲斐があったのか、顧問が洋子のスネアを褒めた。
人に褒められることはなかなかないから照れてしまって、その後は演奏がボロボロになって笑われてしまった。
緊張しないで叩けるようにならなくては。また、一つ課題が出来た。
久しぶりの合奏は、伸び伸びとした雰囲気で楽しかった。明日からは三年生も合流して、きっと猛練習が始まる。こんなに緩やかな雰囲気も、華がベランダで言った通り、今日までかもしれない。
洋子はピリッとした雰囲気も嫌いではないから、それはそれで楽しみではある。何より、コウキとまた一緒に演奏できることが嬉しい。
一時間ほど合奏をした後はパート練習に分かれ、その日の部活動は終了した。
フミ・フミコンビと途中まで一緒に下校して、打楽器の話を一杯聞いた。
今はスティックでのリズム練習は本当に基礎の基礎であって、木琴や鉄琴はまた違う技術がいるし、シンバルやティンパニはただ叩けるだけでは意味がない。どの楽器にも、それぞれ違った技術が要るから、全てを上達させていかなくてはいけないらしい。
打楽器の練習は、洋子を夢中にさせる。小学校の頃のバドミントンも嫌いではなかったけれど、こんなに熱中はしなかった。
打楽器は、合っているのかもしれない。毎日、部活動が楽しくて仕方がない。
フミ・フミコンビと別れて歩いていたら、知らない間にまた手でリズムを刻んでいた。最近は、いつも気がつくとリズムを打つ練習ばかりしている。
頭の中はコウキとリズムのことしかないのではないか、洋子は自分で笑ってしまった。




