十二ノ十九 「恋の行方」
時計のアラームが鳴った瞬間、手でつかんで止めた。布団をはいで起き上がり、枕元のカーテンを開けて、朝日を浴びる。
雲一つない、快晴だ。
「うん、ばっちり」
ベットから立ち上がって、部屋を出る。廊下を抜けて居間に入ると、すでに両親は朝食を終えていた。
「今日は遅いじゃないか、月音」
「部活休みだから」
食卓でノートパソコンをいじっていた父親の後ろを抜けて、台所へ向かう。冷蔵庫を開け、冷やされた茶の入ったポットを取り出して、コップに注いだ。
「せっかく休みなら、勉強しなさい」
「今日はでかけるって言っておいたでしょ」
「そうだったか」
父は、こちらを見ない。月音も構わず、コップの中の茶を飲み干した。
「二人とも、今日は帰ってくるの」
「いや、泊まりだ」
「私も」
「あっそ」
それなら、何をしていても、怒る人はいない。
「夜ご飯、適当に何か買いなさい」
「分かった」
「もうお母さん行くから」
「俺ももう出よう」
「休みならちゃんと勉強しなさいよ、月音」
母は、数十秒前の月音と父の会話を聞いていなかったのか。苛立ちを感じて、無視をした。
玄関が閉まり、家の中がしんと静まる。
両親とは、去年から仲が悪かった。会話がないわけではないけれど、必要以上の関わりは、持たないようになっている。
月音が、喫煙騒動で部を辞めてからだった。誤解だと言っても信じてもらえず、恥ずかしい思いをさせるな、馬鹿なことは二度とするなと怒られた。
あれから、両親のことは、信じられなくなった。
高校を出るまでの、辛抱だ。卒業したら、一人暮らしをする。そうすれば、もう両親と顔を合わせることもない。
「さてと」
両親のことは、もうどうでもいい。それよりも、この後のことが、月音にとっては重要だ。
自室へ戻り、クローゼットを開ける。
「何着ようかなあ」
全国大会が終わって、久しぶりに学校も部活動も休みの日だった。月音にとって、全国大会と同じ、いや、それ以上に重要な日だ。
「コウキ君、どんなのが好きかなあ」
派手な恰好よりは、清楚な恰好が好みだとは言っていた。しかし、あまり受けを狙いすぎるのも、良くないだろう。聡いコウキなら、逆に冷めてしまいかねない。とはいえ、女の子としては強く意識してほしいから、その塩梅が難しいところである。
「やっぱり……ミニか」
短めのスカートをいくつか取り出して、ベッドに並べる。
「靴から先に決めた方が良いかな」
デートでは、名古屋で冬服を見て回る約束をしているから、かなり歩くだろう。ヒールよりは、歩きやすい靴の方が良い。しかし、スニーカーは嫌だ。
「ブーツかな」
玄関から黒のショートブーツを持ってきて、鏡の前に新聞紙を敷いて置いた。編み上げタイプで、丸みを帯びたつま先が特徴の、ぽってりとしたシルエットだ。足元にボリュームが出て、コーデ全体の可愛らしさが増す。店で一目惚れして買ったものだった。
ベッドのスカートを、見比べる。黒のスカートは重たくなるから、無しだろう。ピンクは、やりすぎだ。秋だから、茶色のチェックスカートが良いかもしれない。それなら、上は無地が良い。予報だと今日は、少し肌寒くなるらしいから、カーディガンかニットだ。カーディガンだと、スカートに合うものはない。ベージュのニットなら、ある。少しゆったりとしたサイズでも、下がしゅっとしている分、バランスが良いだろう。
早速、選んだ服を全て着てみた。最後にブーツを履いて、姿見の前に立つ。位置や向きを変えて、違和感がないか、確かめる。
「……うん、良いかも」
脇にあったバッグを、いくつか持ってみる。大きいものよりは、小さめのものが似合う。
甘すぎず、ラフすぎず、デート感を出せている。子どもっぽくも見えないし、これなら、コウキの隣に並んでいても、彼女らしく見えるはずだ。
「何か着けようかなあ」
クローゼットから小箱を取り出して、蓋を開けた。中にはアクセサリー類が入っている。古着屋などで見つけた格安のものばかりだが、どれもデザインが気に入って買ったものだった。
イヤリングをいくつか取り出して、鏡の前で着け比べてみる。あまり派手なのは嫌だし、落ちやすいものは、デートには向かない。
「これ良いかも」
小さめのシンプルな輪の形をした、銀のイヤリングを手に取った。髪の間から見えた時に、きらりと光って、印象的である。あまり主張しないからゴテゴテしないし、大人っぽさをより強調できる。
一度、全てを身に着けて、携帯で写真を撮った。何度か撮り直して、一番可愛く撮れたものを、保存する。
メールを開いて、撮ったばかりの写真を、逸乃に送り付けた。数分して、メールが返ってくる。
『良いじゃん』
『それだけ?』
『だって良いもんは良いもん』
『参考にならない』
『私に聞くからじゃん。感謝されても、文句言われる筋合いないんですけど』
逸乃は、あまりファッションセンスが良くない。外でも、平気でジャージで過ごすような子だ。
『コウキ君、喜ぶかな』
『分かんないけど、男の子は好きそうな恰好』
『褒めてる?』
『うん』
『まあ良いや。ありがと』
『頑張れー』
携帯を閉じ、着ていく服を慎重に脱いだ。
集合は十時に駅だから、まだ余裕がある。コウキに汗臭いと思われたくないし、今のうちに、シャワーを浴びておいたほうが良いだろう。
下着姿のまま、月音は、部屋の扉を開けた。
駅で会って早々に、全力で相手の右の頬をひっぱたいた。威力は出ないように、気を付けた。それでも、相手の動きを止めるには、十分だった。
固まって驚愕の表情を見せる正孝に、摩耶は詰め寄った。
「学生指導者、勝手に辞めるって決めて、勝手に発表して、皆の前で私を巻き込んで。私のこと、何だと思ってるの?」
ミーティングの後から、正孝とは顔を合わせていなかった。時間が経てば抱いた気持ちも、落ち着くと思ったからだ。しかし、全く変わらなかった。
「部長は、都合の良い駒だとでも思ってるわけ? 部活のことは全部自分が決めてるとか思ってる? 皆の前で大事な言葉を言わなきゃいけない時に、いきなり不意打ちで大きな決定を知らされて、その後に私に何か喋れって? どんだけ無茶ぶりするの? 私の気持ち、ちょっとは考えた?」
口を挟む暇も与えず、畳みかけた。
「辞めるなら、最高のタイミングだった? そうだろうね。もっと前に言ってたら、皆動揺したと思うよ。私もしたかもね。でも、終わった後なら、私にだけでも言えるタイミングあったでしょ。バスの中とか。事前に言ってくれてれば良かったじゃん」
「それは……ごめん」
「てか、もっと前から言いなよ。何なの? 私、そんな頼りない? 私、彼女だよね? 彼女にも隠してたわけ? 大事なことを?」
恋人であることと部活動は、関係がない。分かっていても、当たり散らさずにはいられなかった。
「何か言いなよ」
「摩耶には、心配かけたくなかったんだ」
「とっくに心配してたよ!」
叫んでいた。
「……どうせ、辞めたいと思ってたの、春の喧嘩した頃でしょ」
正孝が、ちょっと目を見開いて、それから頷いた。
「言わなくても態度に出されてたら、同じことだよ。そんなんで、心配かけたくなかったって? それで、直前まで隠して、いきなり発表? 馬鹿にしてる?」
「いや」
「いやじゃなくて!」
苛立ちは、更に増していた。言葉が、胸の奥底から溢れてくる。
「部の一番大事な部分を勝手に決められて、これからは私にコウキ君とリーダーやれって? 自分だけ逃げて?」
「逃げるわけじゃ」
「逃げたじゃん。肩の荷、下りたでしょ。表情すっきりしてるもんね。重圧が無くなって、楽になった? 私に押し付けて、コウキ君に押し付けて、気持ち良い?」
頭も、心も、黒く染まりだしていた。
「絶対許さないから。丘先生も、あんな状況で私に何か言えって、馬鹿にしてるよね? 辞めて欲しくないって本心を語ったら、どうなったと思う? あんた達の決定がブレて、部が混乱したと思うよ。言いたいこと言えって、言えるわけなかったじゃん」
正孝は、完全に俯いていた。
「我慢したよ。部長だからね。部のために必要なことが何かくらい、私には分かるし、判断できる。それが分かってて、あんたも丘先生も強行したんだよね。私に、甘えたんだよね」
「……ごめん」
「これからも、そうやって都合が悪くなったら謝れば良いと思ってる?」
正孝は、答えない。
「二人が正リーダーになる時、一緒に支え合おうって、約束したじゃん。別れずに、一緒に頑張ろうって、言ったじゃん。あの約束、嘘だったの? これから私、ずっと無理していけば良いの? 皆の前で、優秀な摩耶を演じれば良いの? 一人で? 智美ちゃんのために、皆のために、立派な部長であり続けなきゃいけないの?」
「サブになったけど、ちゃんと支え続ける」
鼻で、笑っていた。
「遅いよ」
その言葉は、もっと早く聞きたかった。正孝から、言って欲しかった。そうしたら、摩耶だって、受け止めた。
「……別れよう」
「っ!?」
「無理だと思う、もう」
「なんで!?」
「もう正孝のこと、信じられないもん。きっと今後も、そうやって大事なことを、私に話してくれないでしょ」
これ以上、この場にはいたくなかった。
踵を返し、改札へ向かう。
「待て、摩耶」
手を掴まれて、咄嗟に、振りほどいた。
もう、振り向かなかった。足早に、改札を抜ける。
ず、と鼻をすすった。
いつの間にか流れだした涙が、煩わしかった。制御が効かず、滝のようにあふれ出てくる。視界が滲んで、ホームへ向かう階段で、こけそうになった。
もう一度鼻をすすり、ホームへ下りる。電車は、まだ来ていない。
怒りのままにぶつけた。言いたくないことまで言った。言わずには、いられなかった。
正孝は、追って来ない。そういう人だ。摩耶のことを大事にしているふりをして、自分が傷つかないようにしている。だから、一番大事なことは、勝手に決めた。
先ほどよりも更に勢いを増した涙が、眼鏡も汚しはじめた。眼鏡を外して、袖で拭う。拭っても、拭っても、涙が溢れて、袖は、搾れそうなほどに濡れていた。
「電車参ります。黄色い線の内側にお下がりください」
駅員の声が、スピーカーから響く。遠くから、電車がやってきた。徐々に減速し、摩耶の前で、電車が止まった。扉が開いて、乗客が吐き出される。
完全に空になった車両に、足を踏み入れた。
早く、家に帰りたい。何もかも、忘れてしまいたい。もう、嫌だ。しかし、学校に行けば、いつもの優秀な摩耶を演じることになる。嫌だと叫んでも、それが摩耶の仕事なのだ。一度決めた仕事を、投げ出せはしない。それが、部長になると決めた、摩耶の責任だった。
駅員の鳴らしたホイッスルに続いて、電子音が車内に響き、扉が閉まりだした、その時だった。
派手な音と、うめき声が上がった。
驚いて振り返ると、正孝が、扉に挟まれていた。ゆっくりと、扉が開く。
「駆け込み乗車はおやめください!」
駅員の声が、ホームから聞こえてきた。
「摩耶」
正孝が言った。
扉は今度こそ閉まり、電車が動き出した。徐々に速度を上げ、走行音が甲高くなっていく。
正孝が一歩近づいてきて、摩耶は一歩下がった。同時に、自分が泣いていたことを思いだして、慌てて、背中を向けた。
涙を拭い、鼻をすする。息を吐き出し、呼吸を整えた。
「摩耶」
もう一度、正孝が言った。
摩耶は、答えなかった。
随分お待たせしてしまいました。
全国大会が非常に難しくて、進められませんでした。
ここからは、今までよりペースが上がると思います。頑張ります。
せんこう




