十二ノ十七 「一度きりの、宝物」
あの日のことは、今でも覚えている。
五千人が席を埋め尽くす、普門館のホール。丘のそばには、香耶や美月がいた。
無名に等しかった花田高が、二年連続で全国大会へ出場したことは、その知名度を一気に全国区に押し上げるほどの快挙だった。
しかも、一度目は銀賞で、二度目のあの日は、前年以上の演奏を披露した。だから、花田高はもしかしたら金賞を取るのではないかと注目されていたし、部員も自信に満ちていた。
「東海代表、花田高等学校吹奏楽部」
表彰式だった。舞台に立つ男性の声が、マイクを通して流れていた。
「銀賞」
舞台上で、進藤と副部長がトロフィーと賞状を受け取っていた。
「今年こそ、金賞だと思ったのに」
肩を落とした香耶が、呟いていた。部員も、落胆していた。
丘からすれば、悔しい気持ちは同じだが、銀賞でも充分だった。王子と進藤のおかげで、二度も夢の舞台に立てた。二人がいなかったら、この銀賞ですら、貰えはしなかったはずだ。
表彰式の後、周りは泣いていて、進藤だけが笑っていて、丘だけが無表情だった。
「今年こそ、と思ったんだけどな」
進藤が、香耶と同じことを言っていた。
「次は、お前が金賞取れよ、丘」
笑ったまま、進藤が言った。それは、次の部長をやれという意味だった。
丘は、黙って頷くことしかできなかった。
心の中では、到底無理だ、と思ったのを今でも覚えている。王子と進藤でさえたどり着けなかった場所に、丘がどうたどり着けば良いのか、分からなかったのだ。
実際、翌年は東海大会で終わってしまい、進藤との約束は果たせなかった。
あの日から、十数年だ。高校を卒業して、教員の道を目指し、花田高に戻ってきた。顧問として吹奏楽部に関わるようになり、導かれる立場から、子ども達を導く立場になった。長いようで、あっという間だった。
再び、普門館に来た。今度は、指揮者として。
子どもの頃の自分から、少しは変われたのだろうか。王子と進藤を、超えられたのだろうか。
その答えは、もうすぐ出るのか。
舞台に足を踏み入れた瞬間、身体が震えた。
これが、普門館の舞台か。本当に、真っ黒の床だ。天井が、高い。
整然と並べられた椅子と譜面台。二列目の一番左端が、正孝の定位置である。椅子に座り、譜面台に楽譜を置く。
ちらりと客席を見ると、また、身体が震えた。五千人の聴衆が、花田高の演奏を待ち、期待している。それが、正孝を高揚させるのだ。恐怖や緊張からくるものでは、なかった。
今までにない規模のホールである。
吹奏楽の甲子園と言われた、全国大会の舞台だ。
この場に立てた。この場で演奏出来る。
人生で、一度は叶えたい夢の一つだった。
黒床と、夜空の星々のようにきらめく天井の照明。
最高の顧問と仲間と共に、ここに来ることが出来た。
これまでの悩みなど、今の正孝の頭からは、綺麗に消え去っていた。
あと一つ。
ゴールド金賞。
相棒のアルトサックスを、そっと撫でた。中学生の時から使っている、正孝の命だ。金属の冷たさが、武者震いを抑えてくれる。
一瞬だけ、視線を動かした。よしみと、目が合う。
行けるか。
行けるよ。
リハーサル室でも、舞台裏でも、よしみとは話さなかった。
互いに、目を見れば分かった。
「行きましょう」
丘の唇が動き、音を発さずに、そう伝えてきた。
会場内に響くアナウンスが、花田高の名と、丘の名を告げる。
正孝にとって最後で、そして最高の十二分間が、始まるのだ。
身体はどうにか動いてくれているけれど、智美の頭の中は、真っ白だった。
広すぎるホールのせいなのか。自分の音が、うまく聞こえない。
指は動くし、息は流れる。けれど、それが正しく機能しているのかは、分からない。
気を緩めれば、演奏を止めてしまいそうになる。何故か、隣の正孝や栞の音は聞こえてくるから、今はそれが頼りだ。
課題曲「マーチ『ブルースカイ』」のトリオ。心臓が張り裂けそうなほどの緊張感。
いつもの感覚を思いだせ、と舞台裏でコウキに言われた。いつもの感覚、いつもの演奏とは、どんなものだっただろう。上手く、思いだせない。
照明が、暑い。脇から、汗が流れたのが分かった。額にも汗が浮き、全身が火照っている。
丘の指揮に、目が追いつかない。昨日までは、はっきりと見えていたのに。今は、まるで頭に入ってこない。
僅か三分弱の演奏。短いようで長いなどと言うけれど、智美にとっては、ただ短すぎる。
満足のいく演奏などと。最高の演奏などと。
身体が、震えている。
自分が演奏を壊すかもしれないという想いが、頭をさらに真っ白にしていく。
県大会とも、東海大会とも比較にならない、恐怖。
これが、全国大会なのか。こんな場所に、自分がいるのか。
何とか耳に届く仲間達の演奏も、どこか遠い場所から聞こえているかのように、現実感のないものだ。
駄目だ。何も、分からない。
千奈は、スネアドラムの担当だった。マーチにおいては、バスドラムの純也と共に、バンドをけん引する役目である。
何度も、丘と目が合う。言いたいことは分かっているし、応えている。千奈も純也も、最高の演奏をしているけれど、駄目なのだ。大舞台での緊張にやられているのか、力を出し切れていない部員が多く、演奏がかみ合っていない。
私の音を聴け。崩れるな。ついて来い。
音で、仲間達に伝える。想いが通じている人は、何人もいる。通じていない人も、何人もいる。
本当の花田高は、こんなものではないのに。
唇を、強く噛みしめる。
課題曲は半ばを過ぎ、最終部へ向かっている。丘が、指揮を大振りにした。全身を使って、部員の意識を自身に向けようとしている。それでも、丘の意図が伝わらない部員がいる。
気づけ。
心の中で、叫ぶ。気づきさえすれば、大丈夫なのに。丘の指揮は、今までのどの時よりも、気迫がこもっている。目に入りさえすれば、絶対に平静を取り戻せるのに。
気づけ。目を使え。耳を使え。意識を引き戻せ。
スネアドラムの音に、想いを乗せ続ける。
一人、また一人と、立て直しを始めている。それでも、まだだ。五十五人全員の意識が丘に向かなければ、調和は生まれない。
早く。
言葉に出せたら、どんなに楽だろう。音で伝えることしかできない、もどかしさ。それでも、いつもの皆なら、互いの音に込められた想いを、すぐに理解し合うのに。
千奈の想いは、虚しく音と共に消えていく。
昔、誰かが言っていた。
普門館は、海の底のような場所だ。もがけばもがくほど、深く沈んでいく。どれだけ早く自分を取り戻し、上がっていけるか。それが全てを決める、と。
誰が言っていたのかは思いだせないし、今そんなことを思いだしても、遅い。もっと早く思いだしていれば、緊張した表情の子達には、伝えられたかもしれないのに。
噛みしめていた唇は、感覚が失われている。
丘はもう、腕を下ろしていた。千奈も、構えを解く。
課題曲が、終わった。とても、渾身の出来とは言えないものだった。
本番は、一度きり。そこで奏でたものが、自分達の実力を示す。
本当の花田高、などと。少し前に自分が思ったことを、千奈は心の中で嗤った。
準備不足。対策不足。これが、花田高だ。
千奈の想いは、丘の想いは、全員には届かなかった。
諦めの気持ちが心の中に広がり、顔が、下を向きそうになった。
その、瞬間だった。
強烈な何かを感じた。全身の毛が、逆立ったような感覚があった。
目線を上げ、前を向く。
視線の先には、正孝とよしみがいた。
まだ、終わっていない。
課題曲は、最高の演奏とはいかなかったけれど、自由曲が残っている。
諦めるな。皆、顔を上げろ。
よしみは、全身で訴えかけた。正孝も、同じように気配を放っている。
丘が、気がついた。こちらを見て頷き、その腕が、静かに上がった。千奈に視線が送られ、指揮棒が、大きく跳ねる。
目が覚めるような、千奈のスネアドラムによるリムショット。トランペットとホルンによる、ユニゾンの響き。よしみの席からは、トランペットもホルンも横目でしか見えない。けれど、その音が、彼女達がはっきりと落ち着いていることを示している。
ユーフォニアムを構え、息を吸い、よしみは音を出した。金管中低音による、アンサンブル。課題曲までは乱れていた隣の真澄も、立ち直っている。始まりを告げるハーモニーが見事に決まり、だいごのシンバルが、場面をがらりと変えた。
クラリネットの軽快な音の粒が跳ね、トロンボーンやティンパニが受け取る。バックに流れるそのリズムに乗って、木管群とホルンによるメロディ。二度進行を基調とした主題が、二回繰り返される。
曲のテンポ同様、旋律も流れるようにパートを移り変わっていき、その合間に打たれる打楽器の決め音が、見事な躍動感を作り出す。
打楽器パートも、気持ちが戻ってきている、とよしみは思った。ぴたりとはまったリズムは、わずかな休符で、一瞬の間を曲中に生み出す。その間が、音楽を更に前へと進めていくのだ。
課題曲の最中も、千奈と純也の想いは、届いていた。その想いに、よしみも応える。
タンバリンのキラキラと透き通る音が、会場に響いた。バンド全体の、完璧なダイナミクスの操作に合わせて、感情も否応なしに昂っていく。
しかし、丘の指揮からは、目を離さない。感情任せの演奏では、走る。走れば、音楽は壊れる。
丘は、いつも以上に大振りの指揮だ。その指揮が、部員の心を繋ぎとめている。
ようやく、ほとんどの部員が、落ち着きを取り戻してきた。
まだ大丈夫だ。この後のよしみと正孝のソロで、全員の心を引き戻す。正孝も、同じことを考えている。
正孝とは、始まる前に目を合わせた。それだけで、互いの気持ちは分かった。
音で会話する練習を、二人で積んだおかげだった。それは、県大会前から、コウキの提案で始めたことだ。
ただ音を聞くだけではない。相手の目線、表情、動き、その場の状況。様々なものから、読み取っていく。そうして、相手の意図を汲み、応える。
正孝とは、通じている。だから、行ける。行けると、心で会話した。
トランペットによる前半部の仕舞いが終わり、サックスによる美麗なアンサンブルが奏でられる。
そして。
来る。
一瞬、全ての音が消えた。
無音になった会場に、正孝の音が立ち上がる。
ぞくりと、背中に電気が走った。
最初の音を聞いただけで、肌がひりついた。
ここにきて、更にレベルを上げてくるのか。ただの一音なのに。そこまで感情を、想いを、含められるのか。
正孝の魂の込められたソロが、会場を包み込む。
なら、それに応えよう。
呼吸。発音。
正孝が、どう奏でたいのか。その細部まで分かる。だから、正孝に完璧に寄せていく。
織姫と彦星の、束の間の逢瀬。愛を語り合う、二人の時間。
暗く広大なこの会場は、まるで宇宙にいるような気がしてきて、『たなばた』にぴったりだった。アルトサックスとユーフォニアムの音の絡み合いが、かつてない甘い響きを生み出す。
ここまで、来ることができた。最高の空間で、最高のソロを吹けた。それは、よしみの力ではない。皆がよしみを信じて、全てを託してくれたからだった。
失敗する可能性があった。コンクールを駄目にする可能性があった。なのに、よしみを信頼してくれた。だから今、吹けた。
「ありがとう、皆」
言葉にはしなかった。けれど、音には乗せた。
メロディを受け継いで奏でている子達が、分かってるよ、と言っている気がする。
低音の皆が支える和音に、頼もしさを感じる。いつも低音の彼らが完璧な演奏をするから、花田高の音楽には、想いが宿るのだ。
感情の乗り過ぎた音楽など、ただの勢いだけなのかもしれない。今の花田高は、そういう状態かもしれない。
それでも、良かった。そのおかげで、部員の心が、戻った。
ホルンの朗々とした響き。トランペットがそれを受け取り、シンバルのロールが、演奏を最高潮へと引き上げる。最大の山場となる旋律が、会場を満たした。
これだ。これが、花田高のハーモニーだ。
調和。最高の、一体感。この瞬間があるから、音楽はやめられないのだ。
摩耶のグロッケンとひまりのオーボエが、織姫と彦星の別れを告げた。曲が、終わりに近づいている。
丘の表情が、変わった。
最後です。気持ちを、切り替えていきますよ。
丘の声が、聞こえるような気がする。
打楽器パートが、湧き上がるようなクレッシェンドに乗せて、躍動感のあるリズムを打ち鳴らした。がらりと色を変えて、金管セクションによるベルトーン調の楽句が轟く。シンコペーションを伴った、打楽器のアンサンブル。完璧だ。再び、ベルトーン。
木管のかけあい。トランペットから始まる、各セクションへの音の受け渡し。ウィップの音が効果的なアクセントを奏で、だいごのクラッシュシンバルが、最高の一音を放った。見なくても、だいごがにやりとしたのが分かる。
冒頭の主題が、再び戻ってきた。そのまま駆け抜けて終わる、と思わせて、一端落ち着いていく。ここが、『たなばた』の洒落たところだ。そこで終わるな、まだ盛り上がれ、と譜面が語りかけてくる。だから、最後の一音へ向けて、更に上げていく。
理絵と逸乃の渾身のソロが、行くぞ、と叫んでいる。
指揮棒が、踊る。丘が、口を開けた。
さあ、皆で。
丘の腕が、大きく揺れた。
トゥッティの響きが、普門館に満ちる。溢れるような想いが、音と共に、空間を駆け巡っていく。終わりが、見えてきた。
最後だ。
これで、本当に。
皆で奏でるハーモニーが、よしみの胸を、痛いほど締め付けてくる。嫌いになったはずのコンクールでのソロが、最高の時間になった。それは、花田高だったからこそ得られた体験だった。この学校にきて、この部に入ったから、この想いを感じられた。
終わってほしくない。けれど終わらせなければならない。
一体となった音の塊が、感情とともに疾走していく。
最後の一音が、放たれた。音は、残響を生み、静かに消えていく。
満場の拍手が、打ち鳴らされた。花田高に送られる、称賛の響き。
ユーフォニアムを下ろし、よしみは息を吐き出した。いつの間にか汗をかいていたことに、今、気がついた。
正孝が、振り返って、親指を立ててくる。よしみも、親指を立てて、笑いかけた。
課題曲で乱れかけたことも、自由曲でまた一つになれたことも、花田高らしい演奏だった。思い残すことはない。全てを、出し切れた。
まだ、耳の奥で、自分達の奏でた音が聞こえてくる気がする。これは、きっと、よしみの耳からは一生消えないだろう。
人生でたった一度きりの、宝物のような演奏だったのだ。




