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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校二年生・成長編
285/444

十二ノ十五 「前日」

 まだ日も昇っていない時間だ。早朝の冷たい空気に、息を吐き出す。

 コウキは、この寒さが嫌いではなかった。目覚めたばかりの頭が、澄んでいく気がするのだ。


 前の時間軸では、朝が苦手だった。会社への出勤も、何度したくないと思ったことか。だが、この時間軸で高校生になってからは、そうした思いを抱いたことはない。

 一緒に登校してくれる智美がいるおかげだろうか。一人だったら、休みたいと思ってしまうことも、あったかもしれない。


 智美との待ち合わせに使っている、小さな公園。幼児向けの遊具が二、三設置されているだけで、出入口の街灯以外は明かりのない、寂れた場所だ。

 いつもより少し早く着いたから、まだ、智美は来ていない。

 しばらく携帯を眺めながら待っていると、自転車の走る音が聞こえてきた。顔を上げ、出入口に目をやる。

 街灯の下に智美が現れ、こちらに向かって、手を振ってきた。


「おはよ、コウキ」


 返事をして、携帯を仕舞う。傍へ近づき、出入口付近に止めていた自転車の鍵を外した。


「待った?」

「いや、そんなに」

「ごめんね、準備してたら、この時間になっちゃった」

「気にしてないよ。行こうか」

「うん。あ、ねえ、まだ時間あるし、今日は線路の向こうから行かない?」

「向こうから?」


 普段は、線路のこちら側にあるバス通りから登校しているが、時々、線路の向こう側の道を使うこともあった。バス通りと違って、車も人もほとんど通らない線路沿いをずっと進めるから、のんびり並んで走るには、そちらの方が都合が良いのだ。

 時間には、余裕がある。


「良いよ、行こう」

「やった」


 自転車にまたがり、並んで走り出した。


「もう、明日かあ」


 智美が言った。


「全国大会って、どんな感じなのかな」

「さあな、俺も行ったことないし」

「お客さん、多いんだよね」

「五千人入るらしい」

「五千か……想像つかないや。どんだけ大きいホールなんだろう」

「響きも、違うだろうな」

「本番で、乱れないかな?」

「吹いてる感覚は、絶対違うと思う」

「やってきたことを出せば、大丈夫だよね」

「きっとな。たとえ感覚が違っても、身体は覚えてるさ」


 そう言うしか、なかった。ほとんどの部員が、普門館での演奏は未体験である。本番になってみなければ、何が起こるかは分からない。


「上手い学校ばっかりなんだよね」

「安川レベル、いや、それ以上の学校が、ごろごろいるだろうな」


 花田高が出る午前の部には、関東地区の超強豪校や、CDを発売したり全国で演奏会をしていることで有名な九州の女子高、部員二百人を抱える大阪の名門校なども名を連ねていて、その中に、ほとんど初出場に近い花田高が混ざっている。

 しかも、出演順は、良いとは言えない五番である。きっとその時間帯では、会場はまだ暖まりきっていないだろう。


「勝てるかな」

「やるだけやってみる。それしかないよ」

「うん」


 それきり、二人の会話は無かった。

 線路沿いを走ると、バス通りより、五分ほど余計に時間がかかる。それでも早くに出たから、学校に着いても、まだ正門は開いていなかった。

 一、二分待つと、見慣れた車が正門の前で停車し、丘が出てきた。


「相変わらず早いですね、三木、中村」

「おはようございます。一番早いのは、丘先生ですよ。いつも俺達が来る時には、学校を開けてくださっているじゃないですか」

「私は、佐原先生と交代ですから」


 丘が正門を開けるのを、二人で手伝った。

 急坂を上り、自転車を駐輪場へ置く。校舎に入る頃には、他の部員も一人、二人と登校しだしていた。


 今日は、六時に全員集合と決まっている。バスが到着次第、東京へ向かうのだ。昼過ぎにはホテルに着く予定で、チェックインを済ませたら、都内の小学校の体育館で最後の練習をすることになっている。

 楽器を積んだトラックは昨夜のうちに出発したから、もう現地で待機しているだろう。


 時間通り、全部員が六時に集合した。

 緊張した様子の子もいれば、平然としている子もいる。全体としては、どこか尖った雰囲気が漂っていた。悪い雰囲気だとは思わないが、このまま本番を迎えると、固い演奏になる可能性もある。

 必要な子には、後で声をかけた方が良いだろう、とコウキは思った。


 朝のミーティングを済ませて職員玄関前で待っていると、大型のバスが、エンジンを唸らせながら急坂を上がってきた。


「パート毎に乗ってください」


 摩耶の指示に部員が返事をして、木管パートから、順番にバスの中へと乗り込んでいく。

 逸乃が、後ろを振り返って口を開いた。


「月音と私、コウキ君と心菜ちゃん、万里ちゃんと莉子ちゃん、補助席はみかちゃんね」

「えー、コウキ君の隣が良いんだけど」

「わがまま言わないの、月音。コウキ君と心菜ちゃんは、学生指導者の仕事があるから」

「むー」


 バスの席の希望は、あらかじめ逸乃に伝えていた。


「行こう、心菜ちゃん」

「はい」


 口を尖らせる月音を無視して、バスへ乗り込む。トランペットパートの席は、ちょうどバスの中央辺りだった。心菜を通路側に座らせるため、窓際の席に腰を下ろす。

 通路を挟んだ反対の二席は、正孝と智美だ。


「正孝先輩、総譜持ってきましたか?」

「ああ、あるよ」

「じゃあ、早速やりますか」

「ん」


 コウキと心菜も、『たなばた』の総譜を鞄から取り出す。

 東京までの移動時間を使って、合奏指導をする時の総譜の読み方や目を付けるポイントなどについて、心菜に教えることになっていた。

 部の活動において特に重要な曲は、必ず総譜が配られるため、全部員がある程度の読み方を身に着けている。しかし、細かなところまでは人による。

 そうした知識は、これから先、学生指導者としてやっていく心菜には必須となる。


「よろしくお願いします」


 心菜が言った。


「初めは上手く見れなくても、慣れればできるようになるからな、心菜ちゃん」

「はい!」


 東京のホテルまでは、六時間程度はかかるだろう。時間は、充分にあった。


























 この時期に音楽ホールとして使える施設は、どこも空きがなかったため、代わりとなる場所を探す必要があった。しかし、丘と涼子で手分けして探しても、良い場所は見つからず、結局、体育館を借りることになったこの小学校は、花田高の校長が伝手で見つけてくれた場所だ。

 普段、部活動に口を出さない校長が動いてくれたのは、驚くべきことだった。それだけ、吹奏楽部に期待してくれているのかもしれない。彼だけでなく、学校中が、吹奏楽部を応援してくれている。

 その期待には、応えなくてはならない。


 丘は、指揮台に上がり、腕時計を譜面台に置いた。

 練習時間は、充分取ってある。しかし、全力で吹かせてしまうと、疲労が残って明日に障る。だから、通しは最初と最後にやるだけにして、残りの時間は、感覚を整えることに集中する。


「これまでの感覚を、よく思いだしてください。明日は初めて経験するホールですから、絶対に、今までとは演奏している時の感覚が異なります。自分の音すら、よく聞こえないかもしれません。それに惑わされたら、崩れます。自分達のやってきたことを、信じましょう」

「はい!」

「では、課題曲から」


 空気が、変わる。

 全員が準備を完了させたことを確認するまで、待つ。本番の演奏時間は十二分以内と決められており、計測が開始されるのは、一音目が放たれてからだ。つまり、演奏開始までは慌てなくても良い。

 生徒の気持ちが集中するのを、待つ。ストップウォッチを持った計測係の涼子が、頷く。


 静かに、構えた。

 使い込んだ指揮棒。いつからか、これでないと落ち着かなくなった。使えば使うほど、指揮棒は短くなっていく。今の長さが、ちょうど良かった。

 指揮棒の先端を、瞬間的に動かした。生徒のブレス音が鳴って、一音目が放たれた。


 良い音だ。これは、何度やってもそうだった。完璧。その一言に尽きる。何よりも大切な、始まりの音。完璧が、当たり前。

 今の自分達に出来る最高の演奏を、百回やって百回再現してみせる。それくらいできなければ、全国の強豪校とは、渡り合えない。

 その意識を生徒には求めてきたし、生徒は、応えてきた。


 何も、問題ない。これで良いのだ。花田高の演奏は、出来上がっている。これ以上、変えるところはない。

 明日は、これで臨む。そして、与えられる結果が、今の自分達の実力。

 それで良い。


 課題曲は、滑らかに体育館の中の空気を震わせていった。




 自由曲の『たなばた』も通し終えた後は、ハーモニーなどの響きの確認だけに留めておき、最後に通しをもう一度行って、練習を終えた。

 丘が指揮棒を置くと、生徒の放つ気配も、大人しくなった。切り替えの早さは、花田高の持ち味だ。演奏する時は集中し、それ以外は気を緩める。そうすることで、常に心身を緊張させている状態に比べて、全身の疲労度が変わってくる。

 丘は、息を吐き出して、『たなばた』の総譜に目を落とした。


「皆さんに楽譜を渡してから、演奏しなかった日は無いといっても良いくらい、この曲と向き合ってきました」


 生徒が、静かに耳を傾けてくる。 

 今年の三年生には、優れた奏者が多かった。特にオーボエのひまりは、ソロを吹くだけで場の空気を変えるほどの腕があった。これほどの奏者が、なぜ田舎の中堅校に、と言われてもおかしくないレベルだろう。

 だから、安定でいくならば、自由曲はひまりのソロがある曲にするべきだったかもしれない。

 しかし、それだけで決めるべきではなかった。


「皆さんの持つ力量、雰囲気、方向性。様々なことを考慮して曲を選ばなければ、どんな名曲であっても、噛み合わない。今の花田高にとって、本当に合う曲でなければ……そしてそれが、『たなばた』だと感じました。直感に近かったですが、間違ってはいませんでした」


 顔を上げて、丘は言った。


「明日は、我々の演奏を、五千人の観客に聴かせましょう。審査員のためではなく、全ての人のために。音楽を、楽しむ。楽しんで、結果も出す」

「はい!」

「全国大会は、私も十数年ぶりです。指揮者として出るのは、初めてです。皆さんも、ほとんど初めての人ばかりです。初めての人間が、上手くやろうとする必要はない。何度も出場している名門校に比べて、我々は経験値が無いのですから……開き直るくらいで良いのです」


 生徒達の首が、縦に動く。


「今日の最後の通しの感覚を、忘れずに。明日はチューニング時間があるとはいえ、合わせはぶっつけ本番です。とにかく、今までやってきた通りに。それ以上のことは、要りません」

「はい!」

「では、終わりましょう。ホテルに戻る時間です」

「起立!」


 一斉に、生徒が立ち上がる。


「ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」


 丘も、頭を下げ、指揮台を下りる。

 全ての練習が終わった。ホテルへ戻り、眠りに就いたら、もう本番だ。


 準備は完璧、とはいえない。弱点も、最後まで分からなかった。しかし、やれることはやってきた。

 時が、近づいている。

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