十二ノ十四 「迫る全国大会」
「違う。そうではありません。もう一度冒頭を」
丘が、指揮を止めて言った。部員が返事をして、再び楽器を構える。
指揮棒が振られ、『たなばた』の冒頭が奏でられた。しかし、また指揮は止まる。
「最初が全てです。ここのアンサンブルを、完璧にしてください。完璧が基本。それを叩きこんで」
「はい!」
指揮。スネアのリムショットに、トランペットとホルンによる、E♭のユニゾン。サスペンデッドシンバルの響き。
「課題曲から切り替わって、最初の一音。それがトランペット、ホルン、スネア、シンバルのたった四つの楽器で奏でられるのです。全ての始まりは、貴方達だけなのです。自分に与えられた役割が何なのか、何を表しているのか、よく意識しなさい」
「はい」
再び、指揮。冒頭は、何度も繰り返された。
「他の楽器がフォルテから始まってデクレッシェンドするのに、サスペンデッドシンバルだけ、ピアノで始まってクレッシェンドするのですよ。一人だけ違う動きなのです。そこには、明らかに意図が込められいる。それを、もっとよく考えなさい」
指摘された純也が、返事をする。
冒頭は、すでに三十分以上も繰り返されていた。何度となくやってきた箇所だが、今は、更にその質を上げるための合奏が続いている。
全国大会まで、二週間。残された時間は、あと僅かだった。
合奏は午前中に三時間かけて行われたが、進みは遅く、『たなばた』の前半部までで昼の鐘が鳴った。昼食のために、部員達が音楽室を出ていく。
摩耶は、傍の椅子に腰を下ろして、息を吐き出した。
花田高には、弱点がある。丘が、進藤に言われたことだった。まだ、それが何なのか、丘も部員も分かっていない。
摩耶も、ずっと考え続けていた。特定の奏者を指しているわけではないだろう。今のコンクールメンバーで、足を引っ張っている子は一人もいないのだ。アンサンブルの質も高いし、悲願の全国大会出場を前に、士気も高い。
何が、弱点だというのか。
「摩耶、飯に行こう」
正孝だった。
「ん」
立ち上がって、二人で音楽室を出る。
弁当を持って、校舎の東端の非常階段に出た。恋人としてではなく、部長と学生指導者としての話を、二人だけでしたかった。
腰を下ろして、弁当箱の包みを解きながら、摩耶は口を開いた。
「弱点って、何だろう」
何度となく、二人で交わした話題だった。
「何が問題なの?」
今のままで、何がいけないというのだろう。これ以上ない程に追い込んだ練習をしている。惰性で練習しているわけではなく、日々、進歩を続けているのだ。
それでも、何かが駄目だというのか。
「私達を迷わせたいだけなんじゃないの、進藤先輩は」
「それはないだろ。そんなことをする必要がない」
「でも、私達に弱点なんてある?」
「あるから、先輩は言ったんだ」
「丘先生でも気づけない何かが?」
「先生に気づけなくて、先輩に気づける弱点がな」
それは、何なのか。
答えは出ない日々で、結局、目の前のことに集中し続けるしかなかった。今は、部の全てが全国大会を優先する動きになっている。他のことに力を割いている余裕はないのだ。
出場するからには、金賞を目指す。当然のことであり、誰もそれを疑っていない。
おにぎりを頬張っていた正孝が、ため息をついた。
「疲れたな」
「まだ午前が終わったばかりだよ」
「そうじゃなくて、考えることにだよ。先輩も、答えを教えてくれれば良いのにな」
「そういうこと」
「丘先生も、なんで聞かないんだ。進藤先輩が教えてくれないなら、他の人に聞いても良いじゃないか」
それは、摩耶も思っていた。
「何なんだよ、弱点って」
考えは、堂々巡りだった。
「あと、二週間」
摩耶の呟きに、正孝が頷いた。
「たとえ弱点が何か分からないままだとしても、私達はしっかりしなきゃ」
「……ああ」
太陽の直射日光を浴びていても、暑くない季節になってきた。
空を飛んでいる鳥が、目に入る。自由に飛べる鳥には、悩みなどないのだろう。食べたいものを食べ、生きたいように生きている。
地面を這いつくばる人間だけが、悩み苦しんでいるのだ。
豆電球一つの暗い寝室。ベッドの上で、丘は目を閉じて座り込んでいた。
全国大会が、一日、また一日と近づいている。その間ずっと考え続けていたが、最早、何が正しくて正しくないのか、分からなくなっている。
このままでは、花田高は銅賞。進藤に言われた言葉が、頭を離れない。
生徒達を、ようやく全国大会に連れていくことが出来る。しかし、それは銅賞を得る為ではなく、金賞という輝かしい栄光を掴み取ってもらうためだ。
隣の妻の寝息が、規則正しく繰り返されている。息子も、今は大人しく眠っていた。
ずっと、家族に助けられている。妻と妻の両親が、家のことを全て担ってくれたおかげで、部活動に集中することができ、全国大会出場が実現したのだ。
家族に、その成果を見せてやりたい。
そのためには、花田高の弱点というものが、解けなければならない。
それは、何なのだ。
悩むうちに、夜は明けていた。
今日も、練習だった。全国大会まで、一週間。部員の空気も、尖り始めている。それを、悪いものだとは思わなかった。ほとんどの部員が初めての全国大会なのだから、気負いや苛立ちといったものは、あって当然なのだ。感情は、出し切ってしまったほうが良い。
「おはようございます、丘先生」
四階の廊下ですれ違ったフルートのメイとかおるが、頭を下げてくる。
「おはようございます」
「目の下に隈が出来ていますよ」
「昨夜、少し寝不足でしてね。そのせいでしょう、二岡」
「子守ですか?」
「いえ、そういうわけでは」
「丘先生、赤ちゃん連れてきてくださいよ、早く会ってみたいですぅ」
かおるが言った。他の部員からも、息子を連れてきてくれと何度も言われているが、そのためには妻にも来てもらわなければならない。
中々、それは難しかった。
「いずれ」
「ちぇー」
「それよりも、谷地。今日は卒部生が来てくれるのでしょう」
「あ、はいっ」
コンクールメンバーではない部員は、時間の空いた卒部生が学校まで来て、合奏中の個人練習を見てくれている。来るのは日中に動きやすい大学生の子が多めで、中には音楽大学に進学した子もいるのだ。今日、かおるを見てくれる卒部生もその一人である。
「しっかりやりなさい」
「はい!」
ピリピリとしているコンクールメンバーの部員達と違って、かおるは平常通りだった。舞台に上がらないからというのもあるだろうが、かおるの性格によるところも大きいだろう。
周りの空気に当てられずに、平静を保っていられるのは、良いことだ。
二人と別れ、部室へ入る。中では、正孝とコウキが話し込んでいた。
「あ、丘先生」
「おはようございます」
「おはようございます。どうされましたか?」
正孝が言った。
「たまには、基礎合奏も見ようかと思いまして」
「それは、是非お願いします」
「あなたの基礎合奏を疑っているわけではなく、部員の精神を落ち着けるために、ですよ」
「分かっています」
「9時からですね」
「はい」
「もう始まる時間ですよ」
腕時計を見て、丘は言った。
「部員を集めます」
一礼して、コウキが部室を出て行った。すぐに、始めるよ、というコウキの声が、隣の総合学習室から聞こえてきた。
「もう、あと一週間ですね」
「不安ですか、緒川?」
「不安は、ずっと前からありましたよ。無かった時がありません」
「それでも、私達は全国大会まで来ました」
「弱点は、解決していません」
「分からないものは、仕方がない。いつも通り、出来ることをするだけです」
生徒の前では、そう言うしかなかった。迷っている姿は、見せられない。
「こんなことを聞いたら失礼かもしれませんが」
「何ですか」
「何故、弱点を他の学校の先生に聞いたり、進藤先輩に直接聞いたりされないのですか? 聞けば、すぐに答えも分かるはずなのに」
「それは」
「あと、一週間しかないのに」
「答えを聞いてしまっては、本当の意味での解決にはならないからです。自分達で気がつくからこそ、血肉になる。これは私達の問題であり、私達が解かなくてはならないことです」
丘は、窓辺に寄って外の景色を眺めた。今日は、よく晴れている。
「過去の部員達が、ずっと成し遂げられなかった全国大会出場を、あなたがたは叶えてみせました。特に、緒川、あなたは優秀な奏者であるとともに、リーダーとして、この部に貢献してきました」
「そんな、俺なんて……」
「そうして自信の無さを抱えながらも、誰よりも努力を惜しまない。あなたのその姿勢が、部員がついていきたいと思う理由なのでしょう」
背後の正孝が、身じろぎをする音。
「弱点が分かっても分からなくても、私達は、私達の音楽をするだけです。緒川、あと一週間、頼みましたよ」
「……はい」
重く、しかし、責任感の強さを感じさせる返事だった。




