十二ノ十二 「ひとつの恋の」
三階の渡り廊下に展示されている美術部の作品群を、智美は眺めていた。
一枚の油絵が、目に留まる。誠の作品だ。抜けるような青空に一羽の白い鳥が飛んでいて、それを大地から見つめる少年が描かれている。
少年は、空を飛ぶ鳥に何を想っているのだろう。もしかしたら、この少年は、誠だろうか。だとしたら、鳥は何だろう。
廊下の端に座っていた誠を呼ぶ。緊張した面持ちで近づいてきた誠に、絵を指し示した。
「ねえ、山田。この絵、どんな意味があるの?」
「あ、え、そ、れは」
「うん」
誠の目が、泳ぐ。
「そ、空が描きたくて。でも、空だけじゃつまらないから、色々足したんだ」
「なんだ、そうなの?」
「うん」
「少年と鳥が主役だと思ってた。少年が山田で」
誠が、固まった。それから、また、目線を泳がせる。その態度の意味するところが、智美には分からなかった。
「皆、絵が多いんだね」
美術部の作品群を眺めまわして、智美は言った。
「彫刻みたいな、立体的なものはやらないの?」
「立体は、ハードル高すぎるよ」
「そうなんだ」
「お金もかかるし」
「部費は?」
「うちは、小さい部だから。賞にもひっかからないし、あって無いようなものだよ」
「そういうもんかぁ」
「他の人は知らないけど、僕は絵が好きだし」
「そっか」
笑いかけると、目を逸らされてしまった。
渡り廊下は、時折人が通るけれど、美術部の作品に目を通す生徒は、ほとんどいない。
窓に近づき、中庭を見下ろす。白いテントの下から、楽しそうな様子の生徒達が、出入りしている。
「あ、咲」
クレープを持った咲が、テントの一つから出てきた。
「嘘」
隣に、久也がいる。
「どうしたの、中村さん」
「ん、ほら、あそこ」
指を向けた方を、誠が見る。
「部活の仲間だよ。クレープ持ってるあの二人。付き合ってるのかな」
「へえ」
二人でいるということは、久也の好きな子は、咲だったのか。もう、告白はしたのだろうか。もしあの二人が付き合っているのなら、部内にまた一つ、カップルが出来たということだ。
公にはされていないけれど、智美の予想では、武夫と園未も付き合っている。意外と、部内恋愛の多い部である。その割に争いが無いのは、平和なことだ。女の子をとっかえひっかえする男の子がいない、というのも理由かもしれない。
咲と久也は、肩が触れそうな距離で歩いていて、そのまま、校舎の中へ消えていった。
「山田は、好きな子いるの?」
誠の顔が、瞬間的に赤くなった。
「お、何、その反応。いそうじゃん」
「い、い、いないよ」
「嘘だぁ」
「嘘じゃないよ」
「隠すなよー、教えなって」
「い、いやだ」
教えたくないということは、いる、ということだ。クラスの誰かだろうか。
誠は、すでに顔を逸らしてしまっていた。
「上手くいくと良いね」
「……何が」
「色々っ。じゃあ、私はそろそろ仕事の時間だから、行くね。展示、面白かったよ」
誠は、こちらを見ないまま、頷いた。
最初の頃はクラスで孤立していた誠にも、好きな子が出来たというのは、気にかけてきた智美としては嬉しいことだった。
渡り廊下を抜けて二年四組の教室に戻ると、中では、ちょうど客の波がひと段落したようで、クラスメイト達が談笑していた。
「あ、智美ちゃん」
「ただいま。仕事交代するよ」
「よろしく」
エプロンを受け取り、身に着ける。看板娘だった星子は、休憩に出ているようだ。だから、客が減っているのかもしれない。
「智美ちゃんが来てくれたから、またお客さん増えるかも」
「まさか。星子ちゃんじゃあるまいし」
「えー。智美ちゃん、意外と男子に人気なの、知らないの? あと、後輩女子にも人気って噂だよ」
「私が?」
初耳だった。
「クールでカッコいい先輩って」
「本当?」
男の子からの人気はどうでも良いけれど、女の子にそう見られているというのは、悪くない気分だ。しかし、目立つことをした覚えはないのに、何故、一年生に知られているのだろう。
「とにかく、期待してるよ、智美ちゃん。何なら、客寄せのために教室の前に立ってくれても良いよ」
「それは嫌」
わざわざ、目立ちたくはない。
「あ、早速お客さん」
クラスメイトが、教室の外を指した。目を輝かせた一年生の女の子グループが、智美を見ている。
なるほど、どうやら噂は本当のことらしい、と智美は思った。
「接客、お願いね、智美ちゃん」
「はーい」
近づいていくと、女の子達が悩ましげに息を吐き出しはじめて、智美は苦笑した。
万里は、近頃、自分の気持ちが分からなくなっていた。
コウキのことを、今も好きなのか。そうだとして、本物の気持ちなのか。
自身の揺らぐ心に、惑わされている。
以前は、確かに好きだったはずだ。コウキの言葉や身振りに、いちいちドキドキして、笑いかけられると幸せな気持ちになっていた。
クラスでやっているお好み焼き屋に、コウキが幸と来た。二人は、仲が良さそうだった。その姿を見ても、万里は冷えた心で、またか、と思うだけだった。
コウキの隣にいる女の子が、月音か幸かの違いだけで、何度となく見せられた光景だった。
万里には、月音や幸のように、周りの目を気にせずにコウキのそばに行く度胸は、なかった。コウキの隣には大体、月音か幸がいて、そこに万里も行くということが、どうしても出来なかった。
コウキが他の女の子と仲良くしている姿を見るだけで、胸が苦しくなっていた。辛くて、痛くて、見ていたくなかった。なのに、同じ部にいるせいで、嫌でも目に入ってきた。
それが、いつしか、またか、と思うだけになった。
「ちょっと休むね」
クラスメイトに声をかけ、テントの奥のパイプ椅子に腰かける。
鉄板の熱気から解放されて、万里は、息を吐き出した。
楽しそうな周りの声。
そうだ、今日は、良い日なのだ。吹奏楽部のステージでも、ミスをしなかった。完璧とは言わないまでも、納得のいく演奏をすることができた。クラスのお好み焼き屋は繁盛していて、クラスメイトは、盛り上がっている。
なのに、万里には、高揚感も達成感も、無い。
「体調悪いの、万里」
「ん、何でもない。疲れただけ」
声をかけてきたクラスメイトに、目を合わせずに答える。クラスメイトは、気を遣ってくれたのか、そのまま離れていった。
背もたれに身体を預け、目を閉じる。
中学生までの万里には、やりたいことも、好きなことも、何もなかった。全てが中途半端で、花田高に来たのも、望んだわけではなかった。
ところが、吹奏楽部に出会って、変わった。音楽を好きになり、トランペットを好きになり、コウキを好きになった。いや、コウキのおかげで、両方を好きになったのか。
最初は、コウキが万里の中心だった。コウキと共に吹きたい、横に座りたい、同じ音楽を共有していたい。それらが、原動力だった。
変わったのは、二年生になってからだ、と万里は思った。
コウキとトランペットを吹きたいというよりも、純粋に上手くなりたいという気持ちが強くなった。そして、コウキだけではなく、皆と一緒に吹きたい、と思うようになった。足を引っ張らずに、対等に吹ける関係になりたい、と。
周りが、コウキとの恋を応援してくれていた。それは嬉しかったけれど、万里自身は、コウキとのことよりも、トランペットに夢中だった。
万里の心は、確かに、変化を始めている。
「ごめん、ちょっと抜けていい?」
立ち上がって、クラスメイトに声をかける。
「ん、良いよー。万里、ずっと頑張ってくれてたし、ゆっくりしてきて」
「そうだな。てか、もう橋本は残り時間はフリーでも良いんじゃね?」
「だね。そうしてもらお」
「ごめん、ありがとう」
「気にすんな。いってらー」
クラスメイト達に手を振り、テントを出る。途端に日差しが降り注いできて、目を細めた。ずっと日陰のテントにいたせいで、目が慣れなかった。
手で庇を作ったまま、人垣を抜け、職員棟に入る。
急に、自分の気持ちをはっきりさせたくなった。今のままでは、きっと、良くないのだ。コウキを好きかもしれないし、好きではないかもしれない。そういう心の状態をずるずると続けていけば、コウキが他の女の子といるのを見るたびに、またか、と思ってしまうだろう。そして、その想いに、疑問を抱く。きっと、音にも出てしまう。
それは、嫌だった。
職員棟を全て見て回り、生徒棟の方も、見て回った。途中、部員に出会う度に、コウキの居場所を聞いたけれど、誰も知らなかった。残っているのは、体育館か武道場だけだった。
開放されている体育館に向かう。入り口の一つに近づいて中を見ると、コウキは、いた。幸も、隣にいる。二人は、楽しそうに話していた。内容は、はっきりとは聞こえない。
幸が、こちらに気がついた。コウキもこちらを見て、手を振ってくる。
「どうしたの、橋本さん」
立ち止まっていると、二人が近づいてきた。
「コウキ君、ごめん、少しだけ話したいことがあるんだけど、良いかな」
万里は言った。
「え、ああ、良いよ」
コウキが、幸のほうを振り向く。幸は、表情を曇らせていた。
「ごめん、ちょっと行ってきていい、幸さん?」
はっとした。コウキが、幸のことを、名前で呼んでいる。そこまで、関係が進んでいたのか。
万里は、名前で呼ばれたことは一度もない。いつも、苗字だった。それは、万里とコウキの心の距離を表しているのかもしれない。
「……嫌って言っても、行くでしょ、コウキ君」
幸が言った。
「ん、まあ……」
「いってらっしゃい」
幸がくるりと背を向け、壇に戻っていった。
コウキが、困ったように頬をかく。それから、こちらに向きなおった。
「行こうか」
「うん」
先を歩き、職員棟には入らずに非常階段を上った。人に見られないよう、三階まで上がり、そこで止まる。コウキが、階段の真ん中辺りに腰を下ろした。踊り場に立っていた万里と、目線が同じになる。
「橋本さんも、座る?」
「ううん、いい」
コウキの目を、じっと見つめた。綺麗な目をしている、と思った。前は、見つめることなど出来なかったのに、今は、平気だ。
「話って、ギャップのこと?」
少し声を潜めて、コウキが首を傾げた。
「違う」
「じゃあ」
「ねえ、コウキ君」
「あ、はい」
「コウキ君、好きな子って、いる?」
思わず、口に出していた。
「はっ?」
困惑した、コウキの表情。沈黙。
何を聞いているのだ、と万里は思った。幸と二人でいるコウキを見たからか。それとも、コウキが幸を名前で呼んでいるのを、聞いてしまったからか。こんなことを聞くつもりではなかったのに。
取り繕おうとして口を開きかけた瞬間、コウキが、頷いた。
「いるよ」
言葉が耳に届き、遅れて、脳に染みこんできた。
それに対して、万里はただ、そうか、と思っただけだった。
「その人って、市川さん?」
「……言わなきゃ、駄目?」
「ううん、やっぱ良い」
「話って、これのこと?」
「違う」
自分の気持ちが、はっきりとした瞬間だった。
聞きたいことではなかったけれど、結果的に良かったのだ、と万里は思った。
横を向いて、景色に目をやる。田舎町の、高台から見える風景。建物と木々と田畑。あるのは、それだけ。昔から変わらない、この町の風景だ。
勢いでコウキに会いに来て、勢いで質問をした。貰った答えは、本当にコウキを好きなら、動揺するであろうものだった。
そんなことでも、自分の気持ちは見えるのだ、と万里は思った。
「……私ね、コウキ君のことが、ずっと好きだった」
コウキが、息を呑んだのが伝わってくる。
「コウキ君に追いつきたくて、隣で吹いてたくて、トランペットが上手くなりたかった」
一年生までは、真実だった。
「でも、今は違うの。純粋に、上手くなりたくなった。コウキ君がとかじゃなくて、私が、上手くなりたくなった」
だから、逸乃がついているプロの先生にも、教わるようになった。
「今までね、コウキ君が月音先輩や市川さんと一緒にいるところを見ると、胸が苦しくなってた。死にたいくらい痛くて、辛くて、その様子を見てたくなかった。でも最近は、そういう気持ちがなくなった。見ても、ああ、またか、って思うだけになって、それよりもトランペットを練習していたかった。今日も、市川さんと出店に来てくれたでしょ。それを見ても、私、苦しくならなかった」
コウキは、黙っている。
「私、最近は、本当にコウキ君を好きなのかな、って悩んでた。その悩みが音に出るのも、嫌だった。それで、急にはっきりさせたくなったの」
一度言葉を切り、息を吐いた。もう一度吸い、コウキに向きなおった。
「今、コウキ君の好きな人の話を聞いて、思った。私、もうコウキ君のこと、好きじゃないみたい」
自分の気持ちに、気がついてしまった。万里にとって一番の好きは、コウキではなく、トランペットになっていたのだ。
「誤解しないでね。恋愛的な意味で好きじゃなくなったって意味で、人としては、コウキ君を一番尊敬してる。ギャップのことで私を気にかけてくれてて、トランペットのことも一杯教えてくれて、私なんかに、パートリーダーになってほしいって言ってくれた。コウキ君は、こんな私を、対等に扱ってくれる」
夏祭りの夜の、夜空に浮かぶ天灯と、オクジラ様。あの光景は、今も目に焼き付いている。二人だけの、秘密の時間。
「コウキ君は、何も変わってない。ただ、私が変わっただけ。私は、尊敬してるコウキ君みたいになりたいって、本気でそう思ってる。だからこそ悩んでるままじゃ駄目で……気持ちをはっきりさせたかったし、はっきりしたから、伝えたくなった。ごめんね、一方的で」
コウキは、応えない。
「好きだったこと、伝えないままでも良かったのかも。でも、それはなんか、違う気がした。私がコウキ君を好きだったことは、事実だったから。無かったことには、したくなかった。自分勝手で、ごめん」
コウキは、困惑しているだろう。
「私、パートの皆に迷惑かけたくない。部活の皆の足も、引っ張りたくない。もっと、上手くなって、一人前の奏者になる。だから、コウキ君、これからも仲間として、普通に接してほしい。一方的に伝えるだけ伝えて、失礼なのは分かってるけど……」
「……いや」
コウキが、言った。
「分かった。気持ち、伝えてくれてありがとう、橋本さん」
その表情は、万里には、良く分からなかった。
「部活、頑張ろうな」
「……うん」
全国大会は、目前だった。万里もコウキも、舞台に上がるメンバーだ。
「こちらこそ、ありがとう、コウキ君。私、頑張るから」
「ああ」
これで、良かったのだ。
ぬるく立ち上がったコウキへの気持ちは、ぬるいまま、冷めていった。
自分らしいではないか、と万里は思った。




