十二ノ八 「候補者」
一度、全ての息を吐き出す。次に、大きく吸い込む。胸が膨らみ、肩が上がる。それから、マウスピースの先に息を吹き込み、音を出す。
トランペットから、よく響く音が飛び出していく。
飛び出した音は、英語室の中で反響し、ちょっと耳にツンとくるような音をしている。
それで、良かった。ここはホールではない。ホールを想定して吹くと、教室ではちょっときつめの音に感じるものだ。
想定をして音を出さないと、この教室でちょうど良い音になってしまう。そうすると、ホールでは響かない音になる。
コウキの音は、クラシックやホール演奏に向いている、と周りからはよく言われた。レッスンを受けている泉も、そう評してくれている。
それが、コウキの目指す音だった。
ジャズやポップスの曲も吹奏楽では珍しくないし、好きな部類のジャンルではある。だが、メインはクラシック寄りの曲が多い以上、そちらに寄せた音を伸ばしていきたいのだ。
文化祭で吹く曲の楽譜を取り出し、譜面台に置いた。『スマイル「バンドとオーボエのための」』だ。チャールズ・チャップリンの映画で使用された曲のアレンジで、題名の通り、オーボエが主役となっている。
トランペットは合いの手が多いが、かなり目立つ構成で、コウキは、ファーストを担当することになっていた。
メトロノームを鳴らし、楽譜を演奏していく。あくまで主役はオーボエであり、そこを意識することを忘れない。
文化祭まで、時間は多くはない。全国大会の練習もあるし、リーダー決めもある。合奏で無駄な時間を費やさず、細かな詰めが出来るように、曲のさらいは個人練習やパート練習で済ませておく必要があった。
「先輩」
「っ」
急に後ろから声をかけられて、心臓がちょっと音を立てた。楽器の構えを解いて、振り返る。
トロンボーンを持った真二が、無表情で立っていた。
「急に後ろから声をかけるなよ、驚いたな」
「あ、すみません」
「用か?」
息を吐き出し、トランペットのウォーターキイから、管の中の水を抜く。足元の布に、いくらか染みが出来た。
「先輩の吹き方で、ちょっと気になったことがありまして」
「俺の?」
「先輩って、息を吸う時に、なんで胸も肩も上がるんですか。腹式呼吸じゃないですよね」
「ああ、それか」
あまり、他の子はやらない呼吸法だった。泉にも指摘されたことがあるが、コウキは曲げなかった。
「その方が自然に音が出せるからさ」
「でも、腹式呼吸の方が、もっと良い音が出るのでは?」
真二は、疑問に思ったことをすぐに質問してくる子だった。正孝も、たまに聞かれるらしい。好奇心が強いのか、音楽に対する貪欲さが、そうさせるのだろう。
「確かに、一般的には複式呼吸の方が良いとは言われるな。でも、そもそも身体の構造からして、腹を膨らませるってのはおかしいと、俺は思ってる」
「え?」
「だって、空気が入るのは胸にある肺だぞ。空気が入ると、肺は膨らむ。ということは、自然と呼吸をしたら胸も膨らむじゃないか。なんでわざわざ肺がある胸を膨らませないようにして、肺がない腹を膨らませるように意識する必要がある?」
「それは……確かに」
「肺が膨らめば、肋骨が押されて胸が膨らむし、肩もわずかに上がる。身体の動きとしてそれが自然だから、そうしてるんだ。それに、俺がやせ型だからなのか知らないけど、腹を膨らませようとしても、上手く膨らまないしな。腹式呼吸を意識する方が、逆に呼吸が上手くいかないことに気がついてから、やめたよ」
口元に手を当てて、真二が唸る。
「でも、音を支えられなくないですか?」
「実際に俺の音は、真二から聴いて、支えられてないように感じるか?」
「いえ……良い音だと思います」
「だろ? 俺は、自分のやってることが正しいかどうかは、音で判断してる。良い音が鳴ってるなら、世間で言われているやり方じゃなくても良いじゃないか」
「それはそうですね」
真二が頷いた。頑なではなく、物分かりが良い所も、真二の長所だ。納得できたことなら、違和感なく吸収する。
「疑問は、解決したか?」
「はい。俺も、やってみようかな」
「教えてやろうか」
「良いんですか?」
「勿論」
真二が笑顔を見せた。
それから、少しの間、真二に呼吸法について教えた。
コウキのやり方は、自己流だ。それが真二にも通用するとは限らないが、そこは自分で試して、真二自身が使えるか判断するだろう。
「ありがとうございました、先輩」
「良いよ。熱心な後輩は、貴重だからな」
「個人練習に戻ります」
「ああ。いや、ちょっと待て」
去りかけた真二を、呼び止めた。
「リーダー決めについては、考えてるか、真二?」
「いえ、特には」
「立候補しようとかは、思わないのか」
「俺は、トロンボーンに集中していたいですから。理絵先輩も美喜先輩も、超えたいので」
「そうか。でも、学生指導者の仕事は、自分の上達にも繋がるぜ?」
ぴくりと、真二の眉が動く。
「学生指導者は、奏者に理解しやすい言葉で説明しなきゃならないし、曲の指導をするためには、音楽理論の習得も必要だ。奏者にアドバイスをするためには、他の楽器についても知る必要がある。必然的に、音楽全般について理解が深まる。そうすると、ただ技術だけを持つ奏者より、音楽的な演奏が可能で、貴重な存在になれるぜ」
「俺に、学生指導者になれと言いたいんですか?」
「いや、ただ、真二は何のために上手くなりたいのかと思ってな」
「何のために?」
「ああ」
誰だって、上手くなりたいという想いは持っている。だが、上手くなってどうするのかというビジョンがないと、ある程度のところで行き詰まってしまうものだ。
コウキには、当然ある。真二は、どうなのか。
「決まってますよ、良い演奏がしたいからです。俺は、高校までにコンクールで良い結果を出したいという夢がありました。それは一応叶ったけど、でも、俺の力じゃなくて、ほとんど先輩達のおかげです。今は、俺達の代で、全国大会に行きたいんです」
「だから、上手くなりたいのか」
「はい」
「なら、真二だけが上手くなっても、意味はないぞ。部全体が成長していかないと」
「それは……分かってますけど」
「その仕事を、他の誰かに任せられるのか?」
真二は、答えなかった。
個人の力量と、部全体としての力量は、別の話だ。どれだけ上手い奏者がいても、合奏が下手なら、決して良い演奏にはならない。
話はそれで終わり、コウキは先に英語室を出た。
後は、真二が自分で考えるだろう。
楽器を片付けた後は、正孝と一緒に、丘の元へ向かった。学生指導者は、毎日練習の後に活動報告を丘へする。そこで今後の練習の方針を決めたり、部の運営について、丘と話すのだ。
職員室に入ると、丘と部長の二人が話しているところだった。
「ちょうど良い。今、リーダー決めの話をしていたところです」
丘が言った。
「丸井が、部長に立候補する意思を固めたそうです」
「お、ようやくですか。ずっと迷ってたのに」
「千奈ちゃんは、海ちゃんと争いたくなくてずっと迷ってたんだよ、正孝。でも、こないだの一件であの二人の問題は片付いたし、海ちゃんは部長への立候補をやめる宣言を出したし、それならと」
千奈と海の仲裁をしたことは、報告はしてあった。
「なるほどな。他に、部長に立候補する意思を見せてる子はいないのか、摩耶?」
「今のところはね」
「じゃあ、ほぼ決まりか」
立候補を海がやめるという話は、部内でちょっとした話題になっていた。その真意は語られていないが、随分と大人しくなったことから察するに、自分を見つめ直しているのかもしれない。
リーダー決めの発表がある前から、部長になるのは千奈か海だろうというのが、ほとんどの部員の予想だった。海が引いた今、あえて千奈と競おうと思う子は、一年生の中にはいないだろう。
「一歩前進です。学生指導者の方は、どうですか」
「真二に声をかけましたが、微妙なところですね、丘先生」
正孝に代わって、コウキが答えた。
「もう一押しという感じですが、真二はトロンボーンの上達を優先したいみたいで」
「練習だけしていれば、上手くなれるわけじゃないんだけどな」
「それは、俺も伝えておきましたよ、正孝先輩」
学生指導者に誰がなるべきかは、丘と正孝と、ずっと話し合っていた。部長は千奈というなるべき子がいたが、学生指導者には、当てはまる子がいないのだ。
声をかけた候補は、複数人いた。だが、どの子もリーダーになる気はあまり無く、成果は思わしくなかった。真二が、最後の一人だった。
「学生指導者は、誰でも良いわけではありません。明確にやりたいという想いを持つ子でなければ、重責には耐えられないでしょう」
丘が言っているのは、正孝のことだろうか、とコウキは思った。
正孝は、元々同期に推されて学生指導者になったのであって、自分から立候補したわけではなかった。それでも、学生指導者としての資質を開花させ、部を全国大会へ導いたのだ。周りは認めているのに、正孝の自己評価は、極端に低い。
直接本人に聞いたことはないが、何となく、学生指導者の任を重く感じて悩んでいることは、察していた。その原因の一端は、自分がいるせいかもしれない、という気もしている。
補佐に徹するように動いてきたつもりだが、周りからはコウキを評価する声も上がっている。正孝は、そうしたコウキへの評価と自分の評価とを、比べてしまっている節があった。
「まあ、働きかけは、続けてください」
丘の言葉に、全員が頷いた。
表向きには、一年生の自主性に任せることになっていて、部員同士で相談もしないように、とされている。しかし、部の命運を決めるリーダー決めを、ただ流れに任せるわけにはいかない。それで、現リーダーから接触が図られているのだ。
「リーダー決めは、最重要事項です。しかし、そこにばかりかまけている訳にもいきません」
「分かっています」
「文化祭の練習は、進んでいますか、緒川」
「ペア練習とパート練習を中心に組んで、さらいを進めています。すでにセクションリーダーがセクション分けも済ませてくれているので、セクション練習も可能です」
「合奏は、今週末から始めましょう」
「分かりました」
「後は、課題曲と自由曲ですが」
丘が、ため息をついた。ここ最近、丘の悩みは、それだった。
「進藤先輩の話ですか」
「そうです、星野。先輩の言った花田高の弱点というのが、見えてこない」
すでに部員の間でも、先日見学に来た卒部生が進藤であることは、明かされていた。その進藤が、丘に指摘をしたらしい。
花田高で全国大会に出場した経験があるのは、丘と美喜と莉子だけだ。丘は、その二人にも何か思うことはないか聞いているようだが、成果は出ていない。
コウキにも、それが何なのかは、分からなかった。やれることは、やっているはずだ。
「私には、何も問題がないように感じますが……」
摩耶の言葉に、智美や正孝が頷く。
「何かがあると、先輩は見抜いた。あの人が言うのですから、事実なのでしょう。あとひと月程度で、見つかるかどうか」
この件を口に出すと、丘は深い思考に入り込んでいく。それが、報告の終了の合図のようなものだった。
四人で挨拶をし、職員室を出る。
「弱点、か」
その話を聞いてから、コウキも考え続けていた。しかし、思い至らない。
ただ演奏について見つめているだけでは、駄目なのかもしれない。違う角度での見方をしなければ、今のままだろう。
「もう真っ暗だ」
智美が、立ち止まって窓の外を見ていた。
日が落ちて、中庭は校舎の灯りに照らされている。虫の音も、聞こえ始めていた。
「帰るか」
正孝が言って、四人は、再び歩き出した。




