十二ノ七 「木下睦美 二」
睦美は、他の部員に話を聞かれたくなくて、元子と一緒に非常階段に来ていた。ここなら、そっと開けられでもしない限り、扉の開閉音で気づける。
特に、七海には絶対に聞かれたくない話だ。
「睦美ちゃんが、木管セクションリーダーにね。意外だな」
元子が、言った。
「向いてない、と思いますか?」
「向き不向きなんて、今の段階では分からないよ。やってみて適性が伸びる人もいれば、適性があると思っていたけど向いてなかった人だっているもの」
結論を伝えない、上手いかわし方だ。けれど、その通りだという気もする。
「大切なのはやりたいという気持ち。それがなきゃ、どんな人だってリーダーにはなれない」
「やる気なら……あります」
「なら、立候補するだけだね。後は周りが判断してくれるから」
「判断って、どうやってされるんですか?」
「候補者が演説して、候補者以外の過半数が就任に賛成したら。だから、そんなに難しいものでもないよ」
「候補が二人になったら、どうなるんでしょう」
「賛成の数が多い方が選ばれるね」
「嫌でも、相手と比べられるんですね」
入部からこれまでの生活態度は当然見られるだろうし、木管セクションリーダーは音楽面のリーダーだから、演奏技術も判断材料にされるだろう。
睦美は、一年生の中で目立つ人間ではないし、演奏技術もクラリネットの同期の中では七海に次いで、二番手だ。
「実は……七海も、立候補するかもしれないんです」
「七海ちゃんも?」
「絵里ちゃんを、リーダーにするために」
元子が、怪訝な顔をする。
「どういうこと?」
「七海は、北川さんと竹本さんにはリーダーになってほしくないと思ってるんです。それを阻止するために、絵里ちゃんには副部長をやらせようと」
「それで、なんで七海ちゃんも?」
「絵里ちゃんは、一人では立候補する気がなくて……だから仲の良い七海もリーダーになるから、絵里ちゃんもならないか、って提案をしてました」
「なるほど。七海ちゃんが、部長にね」
「いえ、七海は木管セクションリーダーになるつもりです」
「え、それじゃあ、北川さんは止められないじゃん」
「そこは、千奈ちゃんが立候補するから心配してないんだと思います」
千奈と海が並んだら、間違いなく、皆は千奈を選ぶだろう。
「そういうこと」
「私と七海は、昔から同じものを好きになったり、選んでたんです。それが二つあれば良いけど、一つしかない場合はいつも七海のものになってました。私は……七海に勝てたことがありません」
「睦美ちゃん」
「本当に七海も木管セクションリーダーに立候補したら……」
明るくて誰からも好かれる七海と、暗くて地味な睦美。皆がどちらを選ぶか。考えるまでもない。
睦美は、七海に勝てる要素が無いのだ。
うつむくと、自分の白い手が目に映った。右手の親指に、クラリネット奏者特有のタコが出来ている。そこで楽器を支えるから、練習する人間ほど、タコが出来てしまう。
タコがあることが努力の証にはならないけれど、自分では、頑張ってきたつもりだ。
それでも、いつも七海が前を行く。
「……さっきは、リーダーにはやりたいという気持ちが大切って言ったけど、大切なことはもう一つある。何か分かる、睦美ちゃん?」
問われて、頭を捻ってみる。やる気以外に、何が必要だというのだろう。人望や、カリスマ性だろうか。
どちらも、違う気がする。
「それは、自分がリーダーになって、部のために何ができるかを考えられるかってこと」
「あ」
「リーダーをやりたいという気持ちは必須だけど、ただそれだけでは良いリーダーにはなれない。自分に求められている役割や、何が出来るかを考えて、部のために動ける人間であることも大切なの。それがないと、独りよがりのリーダーになる」
「……思いつきませんでした」
自分を変えたいという想いから、睦美はリーダーに立候補しようとしていた。部のために何をするかなど考えたことはなくて、全部、自分のことだけだった。
「誰に勝つとか負けたくないとか、そういうことじゃないよ、リーダーは。そこをもう一度よく考えてみなよ、睦美ちゃん」
言い終えて、元子がくるりと背を向けた。おさげがちょっと揺れて、背中に収まる。
「睦美ちゃんがリーダーに向いてないとは思わない。でも、今のままではリーダーになれても、苦労するよ」
校舎へ続く扉が開けられ、元子は中へ入っていった。
音を立てて閉まった扉を、ぼんやりと眺める。
リーダーになることは、自分ひとりの問題ではない。今、摩耶や正孝がリーダーとして立派に部を導いているように、リーダーが誰であるかは、重要なことなのだ。
私欲のために立候補しようとする人間がリーダーになって、部のためになるわけがない。
それなら、まだ絵里を副部長にさせようとしている七海の方が、よっぽど部のことを考えていると言えるだろう。
「そっか」
睦美は、いつも自分のことばかり考えていた。七海に劣る自分、七海のようになりたい自分、七海に勝ちたい自分。
自分、自分、自分。
「だから、七海みたいになれないんだ」
両手で、顔を覆った。
自分の人間としての小ささが、嫌というほど分かった。
所詮は、その程度の人間なのだ。
小さい頃の睦美は、今以上に引っ込み思案で内にこもる性格だった。
スーパーに買い物に行って、欲しいお菓子があっても、両親に欲しいとは言わなかったし、誕生日プレゼントで欲しいものがあっても、それを上手く伝えられなくて、結局両親がくれるものを貰おうとしていた。
好きな物は沢山あるのに、自分の気持ちを言えない睦美を、七海はずっと隣で見ていた。
睦美の気持ちを知っていたのは、体質の影響で、考えていることがよく流れ込んできたからだ。
当時は、体質を自覚していたわけではなく、双子なら当たり前のことだと思っていた。
七海は、自分が持っていない沢山の好きを抱えている睦美が羨ましくて、眩しくて、好きだった。
だから、睦美の願いを叶えてあげたかった。睦美の心が流れ込んできて、好きなものが判明する度に、それを自分も好きだと言った。そして両親に欲して、二人で一つずつ与えてもらった。
そうすると、睦美も喜んでくれた。
しかし、ただの物であれば一つずつ貰うことができたけれど、好きな男の子は、そうはいかなかった。
小学生の頃、睦美には好きな男の子がいて、その子に対する好きという気持ちが、何度も七海の中に流れ込んできた。それを感じる毎に、七海も男の子を意識するようになり、好きになっていった。
そうなったら、もう、どうしようもなかった。睦美には申し訳なかったけれど、ようやく自分で持てた睦美以外に対する好きという気持ちを、大切にしたかったのだ。
男の子を二人で分けることはできない。だから、二人の間で、恋愛だけはどちらが選ばれても恨まない、という約束をした。
そして、七海が選ばれた。
いざ付き合ってみると、今度は睦美の悲しみが心に流れ込んできた。好きな男の子といられて自分は幸せなのに、一番大好きな姉は、陰で泣いている。
それが、辛かった。
結局、睦美を泣かせ続けることが嫌で、男の子とはすぐに別れてしまった。
中学生に上がってからも同じことが二度あり、どの子も、長くは続かなかった。
心に流れてくる内容に、法則があるのかは分からなかった。睦美がどれくらい七海の心を読んでいるのかも、実際のところは分からない。
互いに心が読めたら伝え合うようには決めているけれど、七海は、読めた内容のうちの、七割程度しか伝えていない。周りには数ヶ月に一回の頻度で発生すると言っているけれど、実際はもう少し多い。
自分がそうなのだから、睦美もきっとそうだろう。
「最近、なかったのに」
七海は、小さく呟いた。職員棟の東階段を上っているところだった。
睦美の心が、流れ込んできたのだ。発生は、いつも突然である。
「そんな風に思ってたんだ」
睦美は、七海に対して強い劣等感を抱いているようだった。負けたくないのに負け続けている自身を、嫌っている。
七海は、ただ睦美の願いを叶える手伝いをしようとしていただけなのに。
いつから、そう思っていたのだろう。
歩みを再開し、四階へ上がろうとしたところで、非常階段に続く扉から元子が姿を現した。
「元子先輩」
呼びかけると、こちらに気がついて、一瞬戸惑ったような様子を見せた気がした。
「どうしたんですか?」
「休憩してた。七海ちゃんこそ」
「あ、私は……私も休憩です」
「そう。じゃあ、一緒に音楽室行こう」
「はい」
階段を上がりきり、元子の隣へ並ぶ。
ふと、彼女が現れた非常階段の方が気になって、扉の小窓を覗こうとしたら、元子に手を引っ張られた。
「さ、行くよ。練習練習」
「は、はい」
そのまま、二人で歩き出す。
扉の向こうは、見えなかった。けれど、すぐにどうでも良くなった。
睦美は、どこにいるのだろう、と七海は思った。
心が読めたことを、伝えるべきか。しかし、今までも何度か、睦美が知られたくないと思っていることを知ってしまった時は、知らない振りをしてきた。
そうしないと、睦美が酷く傷つくと思ったからだ。
今回も、そうした方が良いだろうか。
睦美は繊細だ。体質で七海に心を読まれることも、嫌っている。
大好きな姉を傷つけたくはないし、自分が知らない振りを貫けば、それで済む話でもある。
「元子先輩」
「ん?」
「例えばの話ですけど、もし自分が、大切な人の秘密を偶然知っちゃって、その人が周りに知られたくないと思ってるとしたら、そのことを、本人に伝えますか?」
丸眼鏡の奥の目が、す、と細められた。
「……伝えない」
「どうしてですか?」
「本人から聞いたわけじゃないのなら、わざわざ秘密を知ったよなんて、言う必要ないでしょ。向こうが知られたくないと思ってるのなら、余計にね。そっとしておいてあげる方が良いと思う」
やはり、そうか。
その方が良いのだろう。
睦美も、きっとそれを望むに違いない。




