十二ノ六 「元子のおしごと 二」
「睦美ちゃん、何か元気ない?」
「そ、そんなことないですよ、元子先輩」
「顔に書いてあるよ、悩んでますって」
「う」
昼の掃除の時間だった。生徒棟の東階段の二階で、睦美と向き合っている。
元子は教室のゴミを捨てる係で、いつも生徒棟の東階段を下りて、ゴミ捨て場まで行く。その途中で、廊下の掃除係の睦美とは、顔を合わせるのだ。
見かけた時、睦美の表情が優れないことに気がついて、声をかけていた。
元子は、さりげなく睦美に近づき、耳元に顔を寄せた。
「体質のこと?」
慌てて、睦美が首を振った。
「そ、そうじゃないです」
「なら、何の悩み?」
「えっと」
「相談できる相手は、いるの?」
問いかけると、睦美はしょぼくれた顔をして、いいえ、と呟いた。
「私でよければ、聞くよ?」
「そんな、元子先輩のお時間をとるわけには」
「何固いこと言ってるの。私の仕事は、二人の学校生活をサポートすることだもの。遠慮しちゃ駄目」
春前に、睦美と七海の父親からの相談が元子の父にあった。特別な体質を持つ二人は、学校生活でも気を遣うことが多い。ギャップに詳しい元子がたまたま同じ高校にいるということで、見守る役目を与えられたのだ。
「……じゃあ、お願いします」
「ん、素直でよろしい。といっても、今は時間があんまりないから、部活終わってからで良い?」
「は、はい」
「それじゃあ、今日の夕方ね」
「分かりました」
頷いて、傍に置いていたゴミ箱を持ちあげる。
「ありがとうございます、元子先輩」
背後からかかった睦美の声に、元子はちょっとゴミ箱を上げる仕草をして応えた。
ゴミ捨て場でゴミを捨て、教室に戻った頃には、掃除の時間は終わっていた。午後の授業も適当に済ませ、ホームルームが終わり、文化祭の準備に移る。
吹奏楽部は、授業後から四十五分間は、クラスの準備の手伝いをして良いことになっている。
元子の二年七組の出し物は、和装喫茶だ。着物を着て、茶や菓子を出す。本格的な茶席のようなものは無理だから、あくまで和装をしている喫茶店である。
それでも店内はなるべく和に寄せるために、小物の制作やインテリアの工夫などが、クラスメイト総出で行われていた。
「ねー、元子ちゃん。メニューの相談なんだけど、見てくれる?」
「ん」
クラスメイトが、ノートを見せてくる。茶の価格、菓子の価格、セット料金など、細かな部分を詰めているところだった。
「うーん……和紅茶は原価が他より高いから、もう少し値段上げたほうが良いよ」
「どれくらい?」
「所詮は学校の文化祭だからね……高すぎると誰も頼んでくれないし。自分なら一杯に何円だせるかって考えてみなよ」
「えー……出せて百円、かなぁ」
「じゃあ、使う茶葉の一杯あたりの金額と、コップとかの消耗品の金額も弾き出して、一杯あたりの原価が何円になるかと、それが百円で出した場合に利益としてきちんと成り立つかを考えてみると良いと思う。当然、用意した商品が完売するとは限らないわけだから、売れ残りとか、配膳ミスでの廃棄とか、そういうロスも計算に入れて」
クラスメイトが蛙の鳴き声のような悲鳴を上げた。
「無理~、計算苦手だよぉ」
「そういうのを経験するための行事だよ、文化祭は」
「……元子ちゃんやってよ。得意そうじゃん」
「駄目。係がそれぞれ仕事を全うしてくれなきゃ」
「うう~……けち」
ぼやきながら、クラスメイトが去っていく。
「おーい、山口~」
今度は、小物係の子が近づいてくる。
元子は、文化祭の実行委員と、学級委員長も任されていた。そのため、クラス全体をまとめる役目になっていて、こうして皆の相談に答えている。
立候補したわけではない。去年の文化祭で色々動いたのが、クラスメイトだった子達に評価されていたらしく、今年も同じクラスになった子が中心になって担ぎ上げてきたから、引き受けただけだ。
それはそれで、別に良かった。クラスのトップということは、こういう時、ある程度自分の思惑を差し込めるということでもある。
小物係の相談を終えると、今度は幸が寄ってきた。七組にいる他の吹奏楽部員は、幸だけだった。
「ねえ、元子ちゃん。宣伝の看板、こんな感じでどう?」
段ボールで作る看板のラフ画を、幸が見せてくる。
カラフルな看板だ。中央の店名は、筆で書くらしい。和を取り入れようというアイデアは、悪くない。
「良いじゃん」
「へへ、でしょ。我ながら良いデザインだと思うんだよね」
「カラフルなのも良いけど、使うのはもう少し和風な色の方が、よりコンセプトに合う気はするかな」
「和風な色って?」
「ピンクじゃなくて桜色、青じゃなくて藍色、みたいな。図書室に行けば、色彩図鑑があるんじゃない。なければ美術部の子が持ってないかな」
「分かった、探してみるー」
「あと、大きさは手に持って歩けるくらいのものにしてね」
「はーい」
「首からぶら下げられるようにしても良いかもね」
元子の言ったことを、幸がノートにメモしていく。
「ところでさあ、私、ホントに一日宣伝係してて良いの?」
「勿論。それが仕事だもの」
「でも、少しくらいホールの手伝いしたほうが、良い気がするんだけど」
文化祭当日の仕事も、すでに各自に割り振ってあった。それも元子ともう一人の実行委員の仕事だったから、元子の裁量で、幸を宣伝係にしたのだ。
幸の耳元で、囁く。
「宣伝係なら、看板持って各クラス回ってるだけで役目を果たせるから、コウキ君と遊んでても、合法だよ」
途端に、幸の顔が真っ赤になった。
「それに、幸ちゃんにも和装してもらうから。幸ちゃんは歩く看板娘ってこと」
これは、美知留の発案でもあった。
部内には、幸とコウキをくっつけようとする派閥が存在していて、その筆頭が美知留だ。まだ文化祭は先なのに、美知留はすでに極秘の作戦を実行中らしい。全体像を把握しているのは、美知留だけだ。
その一環で、幸を終日自由にしてほしいという依頼が元子に来ていたから、乗った。これでも、一応は幸派に属しているのだ。
「上手く、コウキ君を誘えると良いね」
「……うん」
その後もクラスメイトの相談に乗ったりしているうちに、四十五分が過ぎていた。
幸を文化祭デートに誘いたい。
大それた願いだとは分かっているが、太郎の中で、その欲望は日に日に大きくなっていた。
自分のような人間が、幸に振り向いてもらえるとは思わない。そんなことは分かり切っているが、夢は見てしまうのだ。
「おい、太郎。音が乱れてるぞ」
勇一に指摘されて、太郎は姿勢を正した。
西階段の二階の踊り場で、ペア練習をしていた。
「すみません」
「お前、最近集中出来てないぞ」
「……気をつけます」
「コントラバスは二人しかいないんだ。音を合わせて鳴らしていかないと、存在価値が無くなるんだぞ。分かってるのか?」
「勿論です」
「なら、集中しろ」
「はい」
「もう一度同じところからな」
勇一の合図で、弓を動かす。今度は、二人の音が少しのズレもなく、混ざり合った。アンサンブルを崩さないように、譜面の音符を奏でていく。
勇一が頷いているのを見て、合格を貰えたのだ、と太郎は思った。
コントラバスは、吹奏楽で使われる楽器の中で、唯一の弦楽器だ。弓と弦がこすれることで振動が生まれ、音が鳴る。その原理や低音域を担う楽器の性質などからして、他の吹奏楽器や打楽器よりも、圧倒的に音量がない。
「俺達は、音が小さいから、いてもいなくても良いと思われてる」
弓を止めて、勇一が言った。
「そんなこと言う奴は、分かってない奴だ」
「僕らが居ると居ないとでは、サウンドが違いますもんね」
「そうだ、太郎。ベースの音はチューバだけで充分だと思っているバンドなんて、カスだ」
「はい」
勇一は、コントラバスを馬鹿にする人間を毛嫌いしている。それは、太郎も同じだった。
例え音量がなくとも、コントラバスの音は、バンドの中で重要な役割を担っている。
「俺達がいないと、花田高サウンドは完成しない。そう思わせるんだ」
「はい、勇一先輩」
「もう一度やるぞ」
勇一とのペア練習は、好きだった。
音楽に真摯に向き合い、常に向上心を持っている。演奏に関しては他人に厳しいが、自分自身にはもっと厳しい。そういう勇一と弾いていると、神経が研ぎ澄まされていく。
少しのミスも許されない緊張感は、太郎にはちょうど良いのだ。
コントラバスの腕には、自信がある。だが、勇一はその上を行っている。太郎にとっては、尊敬するに値する人である。
「呼吸だ、太郎」
「合わせます」
コントラバスは、音を鳴らすのに息を必要としないから、他の楽器のように呼吸を意識することもないと思われている。だが、そうではない。
音の出だしを揃え、音楽観を合わせるためには、呼吸を合わせる必要があるのだ。実際に目に見える呼吸をするわけでもないが、二人の間ではその合わせる感覚を、呼吸と呼んでいた。
太郎と勇一のシンクロ状態ともいえるアンサンブルは、丘も手放しで褒める。
長めのペア練習を終えて、勇一がコントラバスを寝かせた。
「で、太郎?」
「え?」
「何を悩んでるんだ」
「あ、いや」
「言えよ。演奏に支障が出る程の悩みなんだろ」
「それは……」
「なんだよ、恋愛関係か?」
ぎくりとした。
「お前、好きな子いたのか」
「はあ……まあ」
鋭い人だ。
勇一が、椅子に腰を下ろした。
「部内か?」
観念して、太郎もコントラバスを寝かせ、椅子に座る。
「はい」
「当ててやるよ」
「分からないと思います」
「言ったな」
周りにばれるような態度は、取ってこなかったはずだ。部内で自ら明かしたのは、コウキに対してだけである。コウキなら信頼できると思って、相談したのだ。だが、返ってきたのは、幸は自分を好きらしい、という話だった。
そんな二人の関係にも気がつかず、間抜けなことをしてしまった。
コウキに対して恋敵とか、そんな感想は抱かなかった。あの人を好きになってしまうのなら、仕方がない。太郎とは、次元の違う人なのだ。
「二人、名前を挙げる。その二人にいたら、はいと言えよ」
「……面白がってますよね」
「いや、真剣だ。市川さんか、由紀だろ」
「っ」
当たっていた。
「……はい」
「やっぱりな。で、どっちだ」
「市川……先輩です」
「そうか、市川さんか。あの子は、モテるな」
「好きな人も、いるみたいです」
「ああ、コウキだろ」
「知ってたんですね」
「割と有名な話だからな。市川さん、橋本さん、月音先輩は、三つ巴状態だよ」
「僕は、コウキ先輩に聞かされるまで、市川先輩に好きな人がいるのを知らなかったです」
「なんだ、あいつから聞いたのか?」
「相談を持ち掛けてしまって」
勇一が、小さく笑った。
「やらかしたな」
「……気まずいことをしました」
「コウキは、気にしないさ。むしろ、お前に申し訳ないと思ってるだろ」
「僕、市川先輩と文化祭を回りたいんです。僕なんかじゃ、相手にしてもらえないのは分かってるけど……」
「僕なんか、って言うのはやめろよ。市川さんだって、お前と同じ人間だ」
「でも、市川先輩は女神みたいな人で、僕は、こんな冴えない見た目です」
「女神、と来たか」
「だって、市川先輩は、僕みたいな不細工な人間にも優しくしてくれるんです」
「別に、お前は不細工じゃないだろ」
「不細工ですよ。唇は無駄に厚いし、図体だけでかくて」
この容姿が、太郎は嫌いだった。
ため息が、勇一の口から漏れた。
「恋愛ってのは、心理の読み合いだぞ、太郎」
「心理、ですか?」
「市川さんは、自称不細工のお前を、毛嫌いしてるか?」
「まさか。市川先輩はそんな人じゃありません」
「てことは、市川さんは、別に容姿で人を判断する人間じゃないってことだ。なのに、自分で自分を貶めるような発言ばかりしててどうする。そんなことで、市川さんはお前を魅力的だと思うか?」
返す言葉が、無かった。
「自分に自信を持てとは言わないけどな。好きな人と付き合いたいなら、自分を卑下するのはやめろ」
「……はい」
「で、文化祭で回りたいんだったな。それが悩みか?」
「そうです」
「ストレートに誘えよ」
「む、無理ですよ」
「何で」
「……断られます」
「やってみなきゃ、分からんぞ」
「分かります」
「強情な奴だな」
幸は、どうせコウキと回ろうと思っているはずだ。自分の誘いなど、断れられるに決まっている。
確かに一緒に回りたいし、その欲望は大きくなっているが、断られて傷つくくらいなら誘わなくて良い、とも思う。
「まあ、お前がしたいようにすれば良いけどよ。後悔しても知らねえからな」
勇一の言葉に、太郎は返事をしなかった。




