十二ノ五 「千奈と海 二」
花田町中学生合同バンドには、町内の全ての吹奏楽部が参加している。海のいた花田南中吹奏楽部は、特別な事情がなければ原則全部員参加だったため、海も一年生の時からそこに関わっていた。
そして、花田中央中の千奈も合同バンドに所属していた。
はじめは、沢山いる打楽器パートの中の一人という程度の認識だった。明確に意識しだしたのは、三年生になってからだ。
海が南中の部長になったのと同時期に、千奈も花田中央中の部長になった。そして、合同バンドの代表も、千奈になった。
あまり笑う姿は見かけなかったけれど、常に周りに人がいる子で、代表として演奏会で挨拶する時でも、凛とした振る舞いをしていて大人びていた。
海は、部では恐れられていた。部員をまとめるためには必要なことで、あえてそういう自分を演じていたのもあるし、それが、部長の在り方だと思っていた。
けれど、千奈は、海とは正反対だった。彼女が部員を注意する姿は、見たことがなかった。
海のそばには浩子しかいなかったのに、千奈の周りには大勢がいた。自分とはまるで違う部長の在り方を示す千奈に、興味を持った。
それで、ある時、合同バンドの練習会場で声をかけた。少しでも話してみたいと思ったのだ。
しかし、千奈は冷たかった。海に興味がないとでも言いたげな目で一瞥し、忙しいから、とだけ言って、拒絶された。
それは、許しがたい侮辱だった。同じ部長という責を負う者同士、分かり合える部分があるはずだと思ったのに。
存在を軽んじられたことに、海は怒りを覚えた。
あんな人間が周りに慕われているのは、おかしいと思った。
その一件があってから、中央中の子達の視線が、気になるようになった。当時は中央中の方が、実力的にはわずかに上だった。だからだろう。南中を見下すような視線だった。
中央中の子達は、自分達の優秀さを鼻にかけた、嫌な人間達だったのだ。そう感じたのは海だけではなかったようで、南中の仲間も同意してくれた。
それで、ようやく先輩達の言っていたことが分かった。海が一年生の頃から、先輩達には、中央中とはあまり仲良くするな、と言われていたのだ。一つ上や二つ上の代は、合同バンドの最中でも、中央中の部員とは距離を取っていた。
向こうの本質を、見抜いていたのだろう。
それを理解してからは、中央中の部員を嫌うようになった。千奈のような人間にも、負けたくないと思った。吹奏楽コンクールで、本当の実力を示して分からせてやりたいと思った。
けれど、結局、その想いは叶わなかった。南中は、中央中と競う前に内部崩壊で自滅し、夏を終えた。
千奈を見返す機会も得られぬまま、海は引退した。
その後、進学で千奈も花田高に行くと分かった時は、嬉しかった。
同じ部なら、嫌でも二人は比べられる。本当は海の方が優れているのだと、周りに示す絶好の機会になる。
だから、千奈に負けないよう努力してきた。
リーダー決めで、海が部長になる。そうすれば、千奈も海を認め、後悔するはずだ。あの日、海に冷たい視線を浴びせたことを。海を軽んじ、ないがしろにしたことを。
「なんっじゃそら」
呆れたような声を浴びて、海ははっとした。顔をあげると、美喜が大げさに肩をすくめていた。
「随分待たされて、やっと話したと思ったら……歪んでるねえ、あんた」
「なっ」
「丸井さんが冷たい視線を浴びせたとか、まあその辺は置いておいて、それで侮辱だとかは思考が飛躍しすぎだし、中央中を敵視する理由も意味分かんないし、南中が自滅したのもあんたと竹本さんのせいだし」
かっと顔が熱くなった。たとえ上級生の美喜でも、許せない発言だった。
「私と浩子のせいじゃありません! 他の部員が堕落したのが悪いんです! 私達は、それを注意しただけで」
「部員がだらけるのは、リーダーの責任」
遮られ、海は息を呑んだ。
「そんな環境を作ったリーダーが悪い。もっと違うやり方を見つけるべきだった。それをせずに、ただ注意だけして動かそうとすれば、そりゃ部員はついてこないよ。それで他の子が悪いって……責任転嫁も良いところ」
「せっ……責任転嫁じゃありません!」
「あっそ。まあ南中のことなんて今はどうでも良いわ」
どうでも良い。そんな言葉で片付けられるのは、心外だった。海にとっては、大切なことだ。
言い返そうとしたところで、コウキが肩に触れてきた。
「まあ、落ち着いて、北川さん」
「でもっ」
「分かる、分かるよ。俺にも同じような経験があるから、北川さんの気持ちは良く分かる。でも、一旦落ち着こう。美喜さんも、そう火に油を注ぐようなことは言わないで」
美喜が、露骨な舌打ちを鳴らす。
コウキが視線を戻してきて、目が合った。
「よし、一つずつ整理していこう。まず、北川さんは当時、自分と正反対な部長像の千奈ちゃんに興味があって、話してみたいと思ったんだよな」
言い返せなかった不満が燻っているけれど、海は、渋々頷いた。
「なのに、話しかけてみたら冷たい視線を向けられて、傷ついた。そうだろ?」
「……はい」
「それについて、千奈ちゃんは何か言い分はある?」
千奈が首を振った。
「私は冷たい視線を送った覚えなんてありません」
「じゃあ、忙しいからって言ったのは?」
「それも、覚えてないです」
コウキが、唸った。
「それっていつ頃の話なの、北川さん?」
「去年の、五月の練習日です」
「……その頃の千奈ちゃんって、忙しかった?」
問われた千奈が、口元に手を当てて考え込み、しばらくして頷いた。
「そうだった気がします。中央中は、五月にスプリングコンサートをやるので、その準備とかもあったし、新一年生に厄介な子がいて、いつも頭を抱えてました」
「じゃあ、その頃は合同バンドの練習も面倒だったりした?」
「そうですね。部活の方で色々あったのに代表までやらされたから、嫌々だったのは覚えてます」
「なるほど。そういう状況だったから、周りに気を遣う余裕がなかったのかな」
「……かもしれません」
「千奈ちゃんはその頃、別に北川さんを嫌ってたとかじゃないんだよな?」
「……はい。好き嫌い以前に、そもそも話したことなかったはずですし」
「ってことだけど」
言いながら、コウキがこちらを向いた。
「千奈ちゃんの話を聞いて、北川さんはどう思った?」
「どうって……」
視線をさまよわせる。
千奈は冷たくしたつもりはなかった。その言葉を、信じろというのか。
「もし……そうだとしても、中央中の人が南中を見下す態度を取ってたのは」
「いやいや、な訳ないじゃん」
食い気味に、千奈が言った。
「なんでうちらがそっちを見下す必要があるの。意味ないじゃん」
「でも、確かにあなた達はそんな態度だったじゃない」
「いやあり得ないって。てか、そもそも先に始めたのはそっちだし。うちらが一年生の頃には、もう避けてきてたじゃん」
あ。自分の口から漏れた呟きが、耳に届く。
「こっちは皆訳分かんなかったんだよ。意味も分からず避けられてて」
「そ、それはだって、先輩達も中央中とは仲良くするなって」
「うちらが見下してたからって?」
「た、多分」
「だから、そんな訳ないじゃん。うちらの学校じゃ南中の話題になると、何で嫌われてるんだろうねって意見が絶対出てたんですけど」
「そんなはずない! 先輩達が、意味もなくそんなことをする訳……」
「現にしてたんじゃん」
「だから、それは」
パン、という渇いた音が鳴って、場が静まった。コウキが、手を打ち合わせた音だった。
「言い合いをしても仕方ないよ。つまりだ。きっかけはもう分からないけど、中央中と南中の仲違いは勘違いか何かが原因で始まって、千奈ちゃんと北川さんの仲違いも、ちょっとしたすれ違いから始まったってことじゃないか?」
コウキの言葉に、リーダー達が同調する。
「まあ、そういうことだろうな」
「だねえ」
「うん」
「そんな……」
それで、納得しろというのか。
「気持ちはわかるよ、北川さん。でも……もう良いんじゃないの? 昔傷つけられたこととか、確執があったこととかは、すぐに忘れるのは難しいと思う。でもさ、一緒に演奏する仲間じゃん。張り合って喧嘩するより、協力し合ったほうが良い音楽になると思うよ」
言っていることは、分かる。けれど。
「千奈ちゃんはさ、海ちゃんが仲良くしてくれるなら、今までのことは水に流せる?」
智美が尋ねると、千奈が、僅かに頷いた。
「……私の行動にも、問題があったみたいですし」
にこりと、智美が笑った。
「じゃあ、二人とも仲直りしようよ。そうすぐには友達みたいになれないと思うけど、ぶつかり合うのは、終わりにしよ?」
ちらりと、千奈を見る。視線が交わり、慌てて逸らした。
仲直りなど、考えたこともなかった。ずっと、負けたくない相手だったのだ。自分の価値を認めさせるために、張り合ってきた。その千奈と、仲直りなど。
はあ、というため息が、千奈から漏れた。
「……私が北川さんに勘違いさせる態度を取ったのは、多分事実なんだと思う。そこは、ごめん。でも、見下したつもりは全くない」
「っ」
鼓動が、早まった。
謝られたのか、と海は思った。
あの千奈が、海に。
「海ちゃんは?」
海は、唾を飲み込み、スカートの裾を握りしめた。
沈黙が音楽準備室を覆い、壁掛け時計の針の音が、規則正しく鳴っている。
夕が、気まずそうに咳払いをした。
自分は、悪くないと思っていた。ずっと、千奈の方が悪いのだと。
それが、もし本当にすれ違いだったのだとしたら。見下されていると思っていたのも、勘違いだったのなら。
自分のしてきたことは。
唇を噛みしめた。
誰も、話さない。海の言葉を、待たれている。
海は、意を決し、深呼吸を一度した。
「……ごめんなさい」
絞り出すように、呟いた。目は、合わせられなかった。自分の膝が、視界に映っている。千奈の反応は、見えない。
「……今まで、突っかかり続けて」
千奈の反応は。
「……うん」
その言葉に、二年生のリーダー達が、安堵の息を漏らす。
美貴の、やっとか、という声に、小さな笑い声が上がった。




