十二ノ四 「千奈と海」
音楽プレイヤーから伸びるイヤホンを耳につけて、曲を再生する。文化祭で演奏する、ドラマの主題歌だ。音源に合わせてドラムセットを叩き、曲の雰囲気を掴んでいく。
打楽器は、ただテンポ通り叩けば良いわけではない。自分が担当する拍打ちや効果音が、曲の中でどんな役割を求められているのかを察する必要があり、スティックは何を使うかとか、どれくらいの強さで叩くかとか、細かな部分まで気を遣って、音を作り上げていくのだ。
花田高のパートの仲間で、そこまで考えて演奏出来ているのは、今は摩耶くらいだ。だいごが、シンバルに関してなら、少しそんな気配も出てきている。他の人は、まだまだこれからだろう。
千奈は、一通り練習を終えて、ドラムセットから離れた。
「終わったなら俺が使って良いか?」
純也に声をかけられて、千奈は笑顔で頷いた。
文化祭では、ドラムセットを使う曲は三曲ある。ドラマの主題歌が千奈の担当で、他の二曲は純也がやる。
純也は、ドラムセットとティンパニならそこそこ高い技術力を持っていて、特にドラムセットでは、持ち前の勢いの良さが、意図せず曲の雰囲気を作り出すことに役立っていた。だから、摩耶も明るい曲では純也にドラムセットをやらせるのだろう。
純也の叩く音を背後に、千奈は音楽室を出た。
廊下を進み、総合学習室に入る。隅の机で、心菜と莉子が談笑していた。
「お疲れ様、お二人さん」
「やほ、千奈」
「二人も、もう個人練習は終わり?」
「そー、疲れたからね。今叩いてるのは、純也先輩?」
音楽室を指さしながら、心菜が言った。
「そだよ。交代した」
「相変わらずイキイキしてる音だこと」
「純也先輩、ドラム好きだからね」
「……でも、もう少し音量を小さくしてくれると良いんだけどね」
莉子が言った。
「どういうこと?」
「合奏の時、ちょっと大きすぎる気がしない?」
「そうかな」
千奈は、あまり気にしたことはなかった。近くで聴いているのと離れたところで聴いているのとでは、聴こえ方も違うのだ。客席で聴いた時にちょうど良い音量が最適なのであって、純也の音は、それほど大きいとは感じない。
「気になるなら、直接言えば?」
「純也先輩に? 無理に決まってるじゃん!」
「なんで」
「怖いもん!」
そうだろうか、と千奈は思った。確かに制服はだらしなく着るし、髪も逆立てて突っ張ってはいるけれど、純也は良い人だ。正当性のある意見なら、聞く耳も持っているはずである。
「話してみれば、怖くないよ」
「無理!」
顔の前で手を振る莉子を見て、千奈は息を吐いた。
嫌がる人を、無理に話させる気もない。
吹奏楽部の女の子は、莉子のような子が多い。思っていることがあるくせに、相手に直接は言わない。言わないから伝わらないし、後から人伝いに知られて、険悪になったりする。
言わないのなら、黙っていればいいのだ。
莉子だからとかではなく、そういうじめじめとした所は、誰であっても嫌いだ。
「そんなことより、もー疲れたなぁ。そろそろ休みが欲しいよ」
机に突っ伏して、心菜が言った。
「服買いに行きたいスイーツ食べたいカラオケ行きたーい!」
花田高は、毎週水曜日の夕練が休みだった。しかし、夏休みに入ってからは中止されていたし、二学期に入っても、行事が詰まっているという理由で中止されている。再開は、全国大会の後からだという。
「吹部で普通の女子高生みたいな生活を求めたって、無駄だよ、心菜」
「でも一日くらい休みくれても良いじゃーん。せめて半日とか」
「その半日休みで、他の学校と差がついちゃうんだよ。全国は、甘くないよ」
分かってるよ、と呟いて、心菜が口を尖らせた。
海原中で全国大会に出場していた莉子が言うと、説得力がある。
今、花田高で全国大会を経験したことがあるのは、莉子とトロンボーンの美喜だけだ。丘も現役時代に行ったというから、三人か。
この三人にしか、見えない部分もあるだろう。
最近、丘が美喜と莉子を呼びつけて面談をしているのも、千奈は知っていた。
花田高は良い演奏をしていると思うし、未だに練度は上がり続けているけれど、このままで全国金賞を取れるのかは、分からない。
出演順も、あまり良いとは言えないのだ。全国大会の高校の部は、前半と後半に分かれていて、花田高は前半の五番目だ。早いとは言わないけれど、朝の方だから、会場も暖まりきらない中で演奏となる。
出番が後ろの学校に比べて、厳しい条件であることは間違いない。
「全国大会終わったらさー、三人でどっか行こうよ」
「どっかって、心菜?」
「名古屋とかは? ぱーっと買い物行こうよ」
「私、名古屋行ったこと無い」
「え、マジ、莉子?」
「うん。だって、中学でもそんな暇なかったし」
「じゃあなおさら行かなきゃ。決定ね。莉子の名古屋初ショッピングってことで! 千奈も良いでしょ?」
「うん、良いよ」
「やった!」
心菜が、手を叩いて笑顔を見せたその時、千奈の背後で、失笑の声があがった。
振り向くと、海がホルンを抱えて立っていた。
「お気楽な話しちゃって。随分余裕だね」
また、こいつか、と千奈は思った。
「何、盗み聞きしないでくれる、北川さん」
「大きな声で話す方が悪いんでしょ、金川さん。嫌でも聞こえてくるもの」
「別に遊びの予定くらい、決めたって良いじゃん」
「そんなことを考える暇があるなんて羨ましいね。リーダー決めだって迫ってるのに」
「だから何。別にどうでも良いじゃん、そんなの」
心菜が言うと、海はきょとんとした顔をして、次の瞬間には、呆れた表情を見せてきた。
「リーダー決めがどうでも良いって……ホントにおめでたいね。誰がリーダーになるかで、私達の代の三年間が決まるんだよ? どうでも良いどころか、超重要でしょ」
海が、こちらの机に近づいてくる。
「皆をまとめ上げられる人間が、リーダーになるべき。私は、絶対に部長に立候補するから。丸井さんも、するんでしょ?」
「は?」
「あなたには負けないからね」
「誰も立候補するとか言ってませんけど」
「あら、逃げるんだ」
むっとした。
「逃げるとか逃げないとかじゃないじゃん」
「まあ、良いけど。あなたが立候補しないなら、私が部長になるのは確定だもの」
海の浮かべた勝ち誇ったような笑みに、猛烈な不快感を感じた。
なぜ、海はこうも千奈に突っかかってくるのだ。中学生の時から、ずっとだ。同じ部にいるだけでも不快なのに、こんな子がリーダーになるなど、悪夢でしかない。
「大丈夫だよ。私が部長になっても、きちんと丸井さんも金川さんも公平に扱うもの。それが部長だから」
その言葉に、千奈の中で何かが切れた。
立ち上がり、海を睨みつける。千奈の方が背が高いから、少しだけ、海を見下ろす形になる。臆したように、海が一歩後ろに下がった。
「北川さんさあ、マジで何なの、その態度」
「は?」
「こっちは何もしてないのに、よくそんなに鬱陶しい態度を続けられるよね」
海が、眉を上げる。
「公平に扱うとか、何様なわけ。私達は物じゃないよ。しかも、そんなことをわざわざ口に出す人が、本当に公平な態度なんて取れるわけないじゃん。自分で自分の未熟さをさらけ出して、恥ずかしくないの?」
「なっ、何、その言い方! こっちはちゃんと接してあげようとしてるんじゃない!」
思わず、鼻で笑っていた。
「接してあげる? どこまでも上から目線だね」
海の顔が、朱色に染まっていく。
「何怒ってるの。怒りたいのはこっちなんですけど。中学の時からさ、いつまでも敵意むき出しにされて。不愉快でしかないよ」
「それはっ、あなたのせいじゃない!」
「はあ? 何もしてませんけど。責任転嫁はやめてもらえます? こどもじゃあるまいし」
その言葉が効いたのか、海の表情が、どす黒くなった。小刻みに震える全身から、憎悪が溢れ出す。
表情を硬くした莉子と心菜が、勢いよく立ち上がった。
「ちょっとあんた達!」
興奮の高まりを止めたのは、総合学習室に飛び込んできた美喜のよく通る声だった。大股で、こちらへやって来る。そして、千奈と海の間で立ち止まると、両手の握り拳を、高く振り上げた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。鈍い痛みが遅れてやってきて、自分の頭を叩かれたのだと理解した。鐘のような音が、頭の中で鳴っている。
両手で頭を抑えながらその場にうずくまると、海も、同じようにしていた。
美喜が腰を曲げ、顔を近づけてくる。
「二人とも、ついて来なさい」
有無を言わさぬ声だった。
逆らえるはずもなく、はい、と答えるしかなかった。
音楽準備室で、千奈と海は正座させられ、二年生のリーダーである美貴、コウキ、智美、勇一、夕に囲まれていた。
美喜から発せられる怒りのオーラにあてられて、千奈の心臓は、危険信号を発している。余計なことを言うなと、脳が警告していた。
「喧嘩したんだって?」
勇一の問いかけに、千奈は、黙って頷いた。
「聞かれたら返事ぃ!!!」
美喜の怒号に、文字通り身体が跳ねた。
まあまあ、と勇一が美喜を抑える。
美喜が本気で怒っているのを見るのは、初めてだった。下手な教師より、何倍も恐ろしい。
ちらりと横を見ると、海は、完全に委縮して青ざめている。しかし、千奈も、似たようなものだった。
「あのさ、三年生の先輩達に出てもらうほどのことじゃないから、俺達で対応するんだけど」
目線を合わせるようにしゃがみこんで、コウキが言った。
「まずは何があったのか、説明してくれるか。どっちから仕掛けたの」
すぐに、互いを指で示した。視線がぶつかり、にらみ合う。
美喜から、血管が切れるような音がした気がして、千奈は身構えた。
やがて、長い溜息が、美喜の口から放たれた。
「他の子達の喧嘩なら、わざわざ私ら五人で対応しないよ」
先ほどまでとは打って変わって、美喜の声は、静かだった。
「一年を引っ張る素質がある二人が喧嘩してるから、こうやって集まってんの」
その言葉に、海がぴくりと反応した。
「二人して、ガキみたいなことすんなよ。一人ずつ、何があったか説明しな。丸井さんから。北川さんは口を挟まないで」
「……はい」
千奈は、大人しく美喜の言うことに従い、起きたことを話した。途中、海が口を挟みたそうにしていたけれど、美喜が睨むと、口を閉じていた。
「ふーん。じゃあ、今度は北川さんが話して」
「は、はい」
千奈は、海の話を黙って聞いた。こちらも言いたいことはあったけれど、口を挟む余裕は、無かった。
それぞれ、自分が正しいという主張ではあったけれど、おおむね、内容は同じだった。
話を聞き終えた二年生達が、顔を見合わせる。
さっきまで音楽室で鳴っていたドラムセットの音は、完全に止んでいる。純也も、この部屋からのただならぬ空気を感じて、遠慮しているのかもしれない。耳をすますと、ドラムセットだけでなく、他の楽器の音も、ほとんど聞こえなかった。
注目されるのは嫌いなのに、海に挑発されて、乗ってしまった。自分の未熟さに、千奈は舌打ちをしたい気分だった。
「いっつも疑問だったんだけどさ」
コウキが言った。
「北川さんって、なんでそんなに千奈ちゃんのことを、というよりも、中央中の子達を嫌ってるの?」
「……それ、は」
「言え」
美喜に凄まれて、海が震える。
「あんたのその態度のせいで、こじれてるんでしょ。理由があるならきちんと口にしなさい」
海が、こちらを見てくる。千奈は、表情を動かさないまま、それを受け止めた。
理由は、聞いてみたかった。中学二年生くらいまでは、花田南中の人から嫌われているという感覚はなかったのだ。三年生に上がってから、その感覚が強まった。
こちらが何かをした覚えは、全くなかった。気がついたら、そうなっていた。
特に海が酷くて、明確に千奈を敵視してくるようになった。
何故、こんなに嫌われなくてはならないのか。
全員が、海の言葉を待つ。
しかし、海は、中々口を開こうとはしなかった。




