十二ノ序 「ヒビキ」
「オーケー、良いね。君達、最高だよ。イカした音してるし、何よりテンションが良い。音楽は楽しくなきゃね」
曲が終わって、全体に向けて言った。
楽器の構えを解いたこども達が、にんまりと笑う。
数年前から、月に一度教えている、キッズバンドのレッスンだった。一回二時間で、様々な曲を練習する。主にジャズをやり、年に一回、町のフェスティバルで演奏を披露するのだ。
「ヒビキ! 次は『茶色の小瓶』が良い! やろうよ!」
「お、ジョン、良いね、やろうか」
「やった!」
「じゃあ、皆、準備は良い?」
こども達が、返事をした。
頷いて、指でカウントを取った。ピアノとストリングベースの軽快な音から始まる、穏やかで明るい調子の曲である。ジャズのスタンダードで、こどもでも演奏しやすい。
楽譜は、ない。見るのは最初に配った時くらいで、後はずっと暗譜だ。一度暗譜してしまえば、いつでも演奏できる。
基本のパターンを繰り返しながら、サックスのアンサンブルに始まり、各セクションが見せ場を披露していく。
トランペットのジョンが立ち上がり、ソロを吹いた。十三歳で、トランペット歴はまだ三年なのに、アドリブも軽々とこなす。将来有望な子だ。
「フー! ジョン、良いね!」
嬉しそうに、ジョンが笑った。
ジョンの後に、トロンボーンのソロが入り、曲は終わった。
簡単だが、演奏する楽しさを感じられるため、このキッズバンドの定番曲として、練習でも本番でもよく使っていた。
「うーん、良いね。素晴らしいよ。ソロもばっちりだし、皆どんどん上手くなってる」
「ヒビキの教え方が良いからだよ」
「そうそう!」
「嬉しいこと言うね。ありがとう。でも、皆に才能があるからだよ」
ちらりと、腕時計を見る。レッスンの終了時間は、過ぎていた。
「おっといけない、もうこんな時間。今日はここまでね。じゃあ皆、気をつけて帰るんだよ」
「えー、もっとやりたいよ、ヒビキ!」
「デイジー、気持ちは分かるよ。でも、また次回ね」
「ブー!」
デイジーの頭を、無造作に撫でる。
「楽しみは、少しずつとね」
「ちぇ、ヒビキのけち!」
「はは、悲しいこと言わないでよ」
「ふん!」
頬を膨らませながら、デイジーが背を向けた。
ジョンやデイジーに限らず、こども達は、皆なついてくれている。先生というより、友達に見られている気もするが、構わなかった。自分がどう見られているかよりも、こども達が音楽を楽しむほうが大切だ。
「ヒビキ、またねー!」
「ばいばい、ヒビキ!」
「はい、またね!」
楽器を片付けた子から、スタジオを出て行く。ジョンも、デイジーも、出て行った。
一人一人見送り、全員帰ったところで、腕を回して肩をほぐす。大きく息を吐き出すと、扉が開けられた。
「終わったか、ヒビキ」
スタジオの管理人であるマックスだった。
「うん、皆帰ったよ。いつもスタジオを貸してくれてありがとう、マックス」
「良いんだよ。ヒビキのおかげで、このキッズバンドも賑やかになった」
「それは、元々マックスがこども達を教えてくれてたおかげさ。私はそれを引き継いだだけで」
「でも、こども達は、前よりイキイキしてるよ」
「皆、素直な良い子だからね。褒めてあげると、ぐんぐん成長する」
マックスが笑って、肩を叩いてくる。
「また来月も頼むよ、ヒビキ」
「オーケー、こちらこそ。じゃあ、帰るよ、マックス」
「ああ、またな」
自分の楽器と鞄を持ち上げ、スタジオを出た。
今日の仕事は、これで終わりだった。もう帰宅するだけだ。
歩道を歩いていると、煙たい黒煙をまき散らすピックアップトラップが、道路を走り抜けていった。
もろに煙を吸い込んでしまい、咳き込む。
「ったく、ちゃんと整備してるのか?」
呟いて、また歩き出す。
マックスのスタジオから借りているアパートまでは、徒歩で五分程度だ。何度か角を曲がれば、それでもう到着する。
階段を上がって、二階の自室の扉の前で止まる。鞄から鍵の束を取り出して、扉を開け、中へ入った。
玄関のすぐ左にはユニットバスがあり、右手はクローゼットになっている。鞄をクローゼット側の壁に備え付けられたポールにかけ、リビングへ向かう。リビングといっても、一部屋だけの小さな賃貸だ。キッチンもリビングに併設されている。
安さだけが取り柄の、ボロアパートだった。
窓際の机から椅子を引き出し、楽器を置いて腰を下ろす。机の中央に置いてあるパソコンの電源をつけて、電子メールのボックスを開いた。
「お、何か来てる」
新着の電子メールをクリックする。
「鬼頭先生? 久しぶりだなあ」
日本の安川高校の、顧問からだった。
『響君
久しぶり。元気にしているか?
こちらでは、一昨日がコンクールの東海大会だったよ。
うちは銀賞だった。ちょっと、色々あってね。
その辺りは、また会った時に話そう。
それより、花田高は、遂に全国大会に進んだよ』
目を見開いて、画面を凝視した。
「……マジ?」
『ようやく、君も帰ってこれるな。
例の件についても、もう一度考えて欲しい。
話だけでも聞いてもらいたいから、日本に帰ってきたら、すぐに連絡をくれ。
待っているよ。
鬼頭』
息を吐き出し、椅子にもたれる。
「マジか」
また、呟いた。
安川高校の鬼頭とは、年に何度か、メールでのやり取りは続けていた。だから、メール自体はどうということもない。それよりも、花田高が全国大会に行ったことのほうが、驚きだった。
あの丘が、やり遂げたのか。
「まいったな」
帰国するとなれば、キッズバンドのジョンやデイジー達は、悲しむだろう。マックスにも、謝らなければならない。
それに、仕事で組んでいるバンドのメンバーにも伝えなければ。
「……でも、ようやくか」
いつかは日本へ帰国すると決めていたし、マックスにも、それは話してあった。ただ、恐らく実現することはないだろう、とも思っていた。
だから、単発の依頼ではなく継続性が強いキッズバンドの指導も、引き受けたのだった。
「アメリカに来て、何年だ? 十一年くらいか?」
慣れない土地だったが、周りの人に恵まれていた。住む場所もあって、仕事にもありつけた。居心地が良くて、このままアメリカ暮らしで終わっても良いとも、思っていた。
だが、決めていたことは、やらねばならない。
「……帰るか」
キッズバンドのことは心残りだが、マックスがいれば大丈夫だろう。他の仕事仲間にも、すぐに連絡をしなくてはならない。のんびりやっていると、帰りたくない気持ちが強くなってしまうから、こういうのは手早く済ませてしまうに限る。
日本を発つときも、そうだった。
帰国後の仕事は、どうしようか。鬼頭の誘いは嬉しいが、金にはならない。
もし一か所に留まるなら、レッスンを中心にしたほうが良いだろうし、全国を飛び回るなら、どこかのバンドに入れてもらうのもありかもしれない。といっても、そうそう簡単には雇ってはもらえないだろう。
「ま、後で考えるか」
いつだって、そうだった。
なるようになると思っていれば、本当にどうにかなる。
向こうのことは、向こうで考えれば良い。
「それにしても、丘がねぇ」
花田高で顧問になったとは聞いていたが、全国へ行けるだけの能力は、持っていないような印象の男だった。最後に会ったのは、多分、十年以上前だから、昔とは変わったのかもしれない。
久しぶりに、会いに行ってみようか。
「驚くかな」
堅物の丘だから、意外と、表情も変えないかもしれない。
想像して、一人で笑っていた。
妻が運転する車は、会場となっている店の前で停まった。点灯させたハザードが、規則正しく鳴る。
「じゃあ、また帰りに連絡する」
「楽しんできてね、金雄君」
「ありがとう」
車から降りて、扉を閉める。手を振ってきた妻に、小さく振り返し、走り去るのを見送った。完全に車が見えなくなったのを確認して、店の扉を開けると、酔客の賑わいが、丘の耳に飛び込んできた。
「いらっしゃいませ! お一人ですか?」
カウンター越しに、店員が声をかけてくる。
「いえ、待ち合わせで」
「あ、丘先輩! こっちです!」
座敷から、見知った顔が突き出ていた。
「美月さん」
後輩のホルンだった人だ。今は、駅前で女性向けの雑貨屋を営んでいるそうで、毎年、定期演奏会には客として来てくれている。
傍まで近寄り、座敷を覗き込む。
「おー! 丘! 遅かったな!」
高校時代の仲間が、揃っていた。十数人はいるか。思っていたよりも、多い。
「すみません。練習が長引きまして」
「良いって良いって! 主役は遅れてくるもんだよ! 早く上がれよ!」
「はい」
靴を脱いで座敷へ上がり、空いていた美月の隣に、腰を下ろす。
「いやぁ、懐かしいなぁ、丘!」
「ええ、お久しぶりです」
「見た目は随分と変わったが、敬語なのは、相変わらずだな!」
同期の男が豪快に笑い、周りもつられて、笑い声をあげた。
「癖のようなものです」
「そうかそうか。とにかく、これで全員揃ったし、飲み物を頼もう!」
店員を呼び、各自好きな酒を頼む。丘は、ビールを頼んだ。
しばらくして、店員が酒を運んできた。全員受け取って、グラスやジョッキをかかげる。
「それじゃあ、香耶ちゃんに乾杯の挨拶をお願いしよう」
「えっ、私ですか?!」
隅に座っていた香耶が、自分を指さした。毎年、定期演奏会のステージマネージャーとして、手伝ってくれている同期だ。現役時代には、部長だった丘を、副部長として支えてくれていた。
「そりゃそうだよ! 頼むよ、幹事!」
香耶と美月の計らいで、急遽用意された会だった。集まっているのは、丘の代から上下二世代までの人達だ。主役の丘は絶対に来い、と言われ、平日だが参加していた。
「じゃ、じゃあ……」
香耶が、立ち上がる。
「皆さん、急な誘いだったのに、集まってくれてありがとうございます。我らが丘君と花田高吹部が、十数年ぶりに全国大会に出場決定ということで、そのお祝いに、今日は盛り上がりましょう。乾杯!」
「乾杯!」
ジョッキやグラスが打ち鳴らされ、丘は一息にビールを飲み干した。冷えたアルコールが、喉を潤していく。
「いやぁ、全国突破! ホントめでたいですねぇ~。長年見守ってきた私は、めちゃくちゃ嬉しいですよ」
美月が、空になった丘のジョッキへ、ビールを注いでいく。
「私も、未だに信じられません。夢のようですよ、美月さん」
「自信なかったんですか?」
「……正直に言えば、金賞になる自信はありましたが、代表となると……どこの学校も素晴らしい演奏をしていたので、厳しい大会でした。運に助けられましたね」
「聞いたよ! 安川高校が、銀だったんだってな」
同期の男が言った。
「ええ。鬼頭先生が、指揮の最中に倒れかけまして」
場が、どよめいた。
「マジ!?」
「鬼頭先生が?」
丘が現役だった頃から、鬼頭は指揮を振っていた。当然、ここにいる全員が、鬼頭を知っている。当時から、優秀な指揮者として全国的にも名を知られていた。
「俺はネットで見てたから知ってたぜ。あの鬼頭先生がってことで、結構、話題になってたよ。安川高校は、これからどうなるんだろうな」
「まだ鬼頭先生から直接お聞きしてはいませんが、きっと、これまでのように振り続けることは、難しいでしょう」
本人も、以前のように長く練習を見ていられなくなった、と嘆いていた。この先、安川高校が今のレベルを維持するには、鬼頭の指導時間は減らせないはずだが、無理をすれば、また倒れてしまいかねない。周りが、それを許さないだろう。
何か方法を考えるのだろうが、鬼頭は、どうするつもりだろうか。
「結局、全国に行くのは、うちと、あとどこ?」
「鳴聖女子と、浜松開央です」
「ああ、その二校なら納得だわ」
「昔っから怪物校だよなぁ」
「今年の鳴聖女子は、『ベルキス』でした」
「勝負の曲だな」
「安川にもしアクシデントが無ければ、うちは危なかった、ってことですか?」
「ええ」
丘は、頷いた。
東海大会の順位は、鳴聖女子が一位で、浜松開央が二位だった。花田高が三位で、四位の学校との点差は、わずか一点だった。かなり、ギリギリの結果ではあった。そこに安川高校も食い込んでいたら、どうなっていたか。
「……だとしてもさ、代表圏内に入れるだけの演奏をうちがしてなかったら、そもそも、この運だって向いてこなかったわけじゃん」
香耶が言った。
「だから、これだって立派な実力だよ。鬼頭先生のことは心配だけど、素直に結果を喜ぼうよ」
「……だな! そのために集まったんだしな!」
「そうですね」
「丘、ジョッキ空じゃねえか。もっと飲めよ、主役だぞ」
「いや、私は」
明日も仕事がある、と言いかけたが、同期の男が、ビールを注いでくる。
「遠慮すんな」
仕方なく、三杯目も、一息に飲み干す。
「ちょっと、あんま丘君に飲ませちゃ駄目だよ。明日も部活なんだから」
「いーや、こいつは固すぎる。どうせ生徒にも固いって言われてるだろ?」
「そんなこと、ありませんよ」
「私、お客さんに現役の子がいるけど、丘先輩のこと、めっちゃ生真面目で固い人だって言ってましたよ」
美月が言った。
現役とは、誰のことだろう。
「やっぱりな。今日は飲ますから、覚悟しとけよ」
「勘弁してください」
笑い声が上がって、また、ビールがジョッキへと注がれていた。注がれると、つい、飲み干してしまう。
自分では、酒に強い方だとは思うが、このペースだと、二日酔いになりそうだ。
考えているうちに、また、ジョッキは黄金色の酒で一杯になっていた。




