十 「智美とコウキ」
狭い自室に、智美と里保と、三人でいた。
四畳半しかなくて、ロフトや勉強スペースが場所を取っているから、机と椅子を出して座ると、それだけでかなり窮屈に感じる。
家も部屋も小さく狭いのは、父親の好みが反映されたものだった。小さな家でも家族で過ごすには十分だという考えの人で、その分、庭が広めで、数家族を招いてバーベキューが出来そうなくらいには、ゆったりとした空間になっている。母親の趣味である庭いじりのスペースも確保されていて、色んな観葉植物が植えられている。美奈は、この小さな家が好きだったが、智美や里保は、戸惑う狭さかもしれない。
机の上には、美奈が作ったチョコレートムースと紅茶が三人分、置かれている。
菓子を作るのは、大人になってからも時折やっていたが、こどもの頃よりは回数が減っていたから、腕も衰えたし、レシピもほとんど忘れてしまった。
勘を取り戻すために、最近は菓子作りを再開していて、その味見のために二人には来てもらっていた。
「これで失敗作? 充分美味しいけど……」
チョコレートムースを口に含んで、智美が言った。
「お店のって言われても気づかないけどなあ……ねえ、里保?」
「うん、すごく美味しいよ」
「ありがと。でも、もうちょっと改良かな。滑らかさと固さの具合が、まだ悪いんだよね」
「はー……こだわりがあるんだね」
「勉強やめたら、家の時間が有り余るようになったんだ。せっかくなら、お菓子作り極めようかなって」
母も、美奈の作る菓子は喜んで食べてくれる。
「そういえば、お母さんは、勉強について何も言わないの?」
智美に言われて、美奈は、口に運びかけたスプーンを皿に戻した。
「まだ、話してないんだ」
「え、それ、大丈夫なの?」
「タイミングを見て、そのうち話そうとは思ってるよ。お母さんは、私を私立に行かせようとしてるけど、私は行きたくないから……嫌でも話さなきゃ」
「ちょっと待って、私立!? 初めて聞いたけど!?」
里保が、同意するように激しく頷いている。
「誰にも言ってないもん」
「で、でも、話からすると、美奈は私立には行かないってことだよね? 東中に行くんだよね?」
「説得できたらね。話せば、分かってくれるとは思う」
前の時間軸で美奈は、母の望みに異を唱えたりせず、大人しく従っていた。だから、実際のところは、母に反発したらどういう反応が返ってくるのか、予想もつかない。
無理に私立へ入れるような人ではないと思うが、説得には入念な準備をして挑む必要があるだろう。
「美奈のお母さん、勉強に関しては厳しそうだもんなあ」
智美が、唸った。
「まあ、私の話は置いておいて。どう、里保ちゃん。最近、コウキ君とは普通に話せるようになった?」
「え、三木君?」
「うん」
里保が、首をかしげる。
「どう……かなあ。挨拶はするし、会えば話すけど」
「もう、嫌って気持ちとかはない?」
「それは……うん。三木君、変わったし」
「やっぱりそう思う?」
「うん。別人みたいだよね」
里保も、そう思うか。
「私、最近、コウキ君がクラスからいじめをなくそうとしてるのを、手伝ってるんだ」
智美が、目を見開いた。
「いじめをなくす? 三木が?」
「うん。前のコウキ君じゃ、考えられないよね」
「むしろ、いじめる側だったじゃん」
「夏休みの間に変わったんだろうなあとは思うんだけど、何があったのかは教えてくれないんだ」
「あの、三木が?」
信じがたい、というような表情を、智美が浮かべている。
「智ちゃんも、コウキ君ともう一度話してみたら?」
「え?」
「今も、仲直りしてないんでしょ」
「それは、だって」
「里保ちゃんとコウキ君は、向き合おうとしてるじゃん。なら、智ちゃんも」
智美が、口を閉じた。
「私は、智ちゃんにも、コウキ君とまた仲良くなってほしいと思ってるよ。確かにコウキ君はいじめをする子だったけど、今は違う。私は、今のコウキ君を見て欲しい」
前の時間軸の二人は、中学生になってから仲直りをした。智美は、もっと早くしていればよかった、と後悔していたのを覚えている。
「美奈ちゃん、コウキ君のこと、好きなの?」
「……いきなり、なんでそうなるの、里保ちゃん」
「そこまで三木君のこと言うから、そうなのかなって」
好き、とは違う。そういう感情で、美奈は動いていなかった。
「そういうことでは……ない、かな」
「なら、どうして?」
問われて、しばらく、考えた。
考えて、口を開いた。
「周りの人とは、いつか別れが来る。不意にその時が来て、本当はああしておけば良かった、って後悔してほしくないから……かな。二人とも、本心ではまた仲良くなりたいと思ってるように、私は感じてる。それが私の勘違いじゃないなら、後悔しないで済むように、素直になって欲しい、から」
うまく、説明できているかは分からない。
智美は、まだ黙っている。美奈の気持ちは、届いただろうか。
パチ、パチ、という音が、教室に響く。
机の周りをクラスメイトが囲んでいて、美奈とコウキの試合を、興味深そうに観戦している。
また一つ、石を置く。コウキの黒石を、裏返して白石に変えていく。
「そこは角取っちゃうぞ、美奈ちゃん」
言いながら、コウキが隅の一角に黒石を置く。今置いたばかりの白石が、黒く裏返されていく。
「やばいじゃん、美奈ちゃん!」
観戦していた奈々が言った。
「大丈夫だよ」
数手進めると、コウキが、小さく唸った。黒石に、置ける場所がない。
「……パス」
白石を置く。コウキは、またパスだった。黒に塗りたくられていた盤面が、白に染め変えられていく。
最後に勝ったのは、美奈だった。
クラスメイトから、興奮の混じった歓声が上がる。
「すげぇ! 角取られても勝てるのかよ!」
「初めて見た!」
「完全に負けたよ。全然読めなかった」
リバーシでは、四隅を取った者が試合に勝つ、と言われているが、実際はそんなことはない。角を取らせて勝つことも可能なのだ。
先の手まで考えて、相手の思考を誘導することさえ出来れば、負けることはない。
「美奈ちゃん、すごーい!」
リバーシは得意なわけではなかったが、コツさえ知っていれば、難しいものではない。
「自信あったんだけどなあ」
「コウキ君も、強かったよ」
「ちぇ。優勝は美奈ちゃんか」
クラス内で、リバーシの大会を開いていた。勿論、教師には内緒でだ。
決勝戦が、美奈とコウキだった。やる前から、観戦でコウキの腕や癖は見抜いていたから、難しくはなかった。決勝に上がってくるだけあって、他の子よりも鋭い手を使っていたが、美奈からすれば、定石に沿った安定手ばかりだったから、誘導しやすい相手だった。
ボードゲームの大会を開くというのは、コウキの案だった。皆で何かをすると仲良くなれるから、ということらしいが、輪になってはしゃぐクラスメイトを見ると、悪くない案だったと思う。
「先生来た!」
廊下を見張っていた子が、叫んだ。慌てて、コウキがリバーシをランドセルに突っ込み、クラスメイトも散る。
チャイムが鳴って、教師が入ってくる。
「コウキ君、約束覚えてる?」
ささやきかける。
「覚えてるよ」
「じゃあ、お昼放課は図書室ね」
「分かった」
コウキとは、個人的に賭けをしていた。どちらかが優勝したら、相手に一つだけ好きなことを頼める権利を貰える、というものだ。
大会を開くと聞いた時に、思いついた。頼む内容も、すでに決めている。
「それで、頼みは?」
コウキが言った。
昼放課になって、二人で図書室に来た。洋子も、そばにいる。
窓からは校庭の様子が見え、駆けまわるこども達の様子が、よく見えた。
「あんまり、変なのは頼まないでほしいけど」
「気になる?」
「何だよ、怖いなぁ」
「別に、大した頼みじゃないよ。ていうか、コウキ君、本当は大会で、わざと適当なところで負けるつもりだったでしょ」
「ん、ああ……そりゃ、俺が開いて俺が勝つって、ちょっとね」
「そうだろうと思った」
いくら小学生同士のゲームでも、手を抜けばそれに気づく子もいるはずだ。それで、喧嘩にならないとも限らない。やるなら、全力でやるべきだ。そして、コウキが全力を出すには、賭けを持ちかけるのが良い、と判断した。美奈の目的にも、ちょうど良かった。
「で、頼みなんだけど、今週の日曜日に智ちゃんと遊ぶから、コウキ君も来て」
コウキが、動きを止めた。
「ショッピングモールに買い物に行くの」
「何で二人の遊びに、俺が?」
「一緒に遊びたいからだけど、駄目なの?」
「いや、駄目じゃないけど」
「じゃあおっけーってことだね。智ちゃんにも言っておくから」
「待ってよ」
「待たない。これくらいの頼みなら、良いでしょ。無茶な頼みをしてるわけじゃないよ」
「そう、だけど」
「お買い物行くの?」
洋子が言った。腰をかがめて、目線を洋子に合わせる。
「そうだよ、洋子ちゃん」
「私も、行きたい」
「ん、良いよ。一緒に行こっか」
「え、ほんと? 良いの?」
「勿論。皆で行こう。そうだ、華ちゃんも誘おっか」
洋子が、にこりと笑った。
「うん!」
「そういうことだから、コウキ君もよろしくね」
「参ったな……」
「断るのは、なしだよ?」
じ、と見つめると、コウキは息を吐き出して、頭をかき回した。
「……分かったよ。けど、雰囲気壊しても知らないよ。中村さんとは、仲直りしてないから」
「大丈夫。ね、洋子ちゃん」
「? うん!」
智美は、今でもすでにコウキと仲直りしたいと思っているはずだ。そして、コウキも。互いにきっかけがなくて、歩み寄れないだけだろう。
上手く取り持てるかは分からないが、仲直りまではいかなくても、関係を縮めるきっかけにはなるはずである。
少しずつだとしても、二人には、向き合っていってほしい。




