十一ノ三十九 「東海大会 花田高校」
「最後に、もう一度チューニング合わせておきましょうか。Aグループから、B♭を」
「はい!」
丘が手を振り、合わせて低音セクションがB♭を鳴らす。もう一度丘が手を振り、中低音セクションが乗る。ハーモニーに、歪みは無い。三度目で、トランペットやクラリネットの中音セクション、四度目で、フルートなどの高音セクション。
丘が手を止めるのに合わせて、音が止み、五度目の合図で、全員で鳴らした。
「良い響きです」
丘が言った。
「さて。いよいよですね」
ゆっくりと、全体を見回している。コウキも、目が合った。
「私達の悲願である全国大会出場が、目の前まで来ています。この日をまた迎えられて、私は嬉しい」
コウキも、同じ想いだった。他の二、三年生も、そうだろう。
「ですが、私達の最大の目的は、忘れていませんね?」
「楽しく吹くことです」
摩耶が答えた。
「そうです。我々は、勝つためにここへ来ました。しかし、音楽を楽しめていなければ、その勝利に価値はありません。我々が、我々の音楽を奏でる。その結果が、勝利であるに過ぎない」
「はい」
「楽しみましょう、今、この瞬間を。私達の作り上げてきた音楽を」
「はい!」
花田高が実力至上主義に陥らず、その音楽が死なずに済んできたのは、この楽しむという前提を、常に持ち続けてきたからだ。
結果だけを追い求める音楽では、頂には届かない。
「いつものように、星野と緒川も、何か」
頷いて、摩耶と正孝が前に出る。
「じゃあ、俺から」
「ん」
正孝が、一歩進み出る。
「俺からは、短く」
手に持っているアルトサックスをちょっと撫で、正孝が、全体を見回す。
「この数ヶ月で、間違いなく、俺達はレベルアップした。学生指導者として、毎日前で聴いてきて、俺はそう確信してる。俺達なら、必ず全国へ行ける。自分達のやってきたことを、信じよう」
「はい!」
頷いて、正孝は下がった。
代わるように、摩耶が前に出てきたが、すぐには言葉を発さない。
ほんの少しの、沈黙。それで、部員の耳は、摩耶の発する声を意識するようになる。
いつもながら、摩耶の人前に立つ才能は素晴らしい、とコウキは思った。どう振る舞えば、周りの意識が集中するかを心得ている。
「私は」
摩耶が言った。
「自分を信じてるし、仲間である皆を、信じています。そして、引っ張ってきてくれた丘先生を、信じています」
丘が、微笑む。
「私達は、全国大会へ行きます。行きましょう。思いっきり楽しんで、どこよりも良い演奏をしましょう。花田高の音楽を、このホールに響かせましょう!」
「はい!」
にやりと、摩耶が笑った。そして、拳を突き上げた。
「花田高、行くぞー! おー!」
「お、おおー!」
突然のことで、部員の返しはばらばらだったが、全員、拳を上げていた。
笑い声が広がる。
普段の摩耶なら、決してやらないようなことだが、その意外性が、部員の心を解すには抜群の効果だった。
扉が開いて、スタッフから声がかかる。
「では、行きましょう」
移動を始める部員の顔を、コウキは一人ずつ眺めていった。緊張で駄目になっている子は、見当たらない。
莉子も心菜も、今は落ち着いている。もう、言葉をかける必要は無いだろう。
舞台袖に移り、前の学校の演奏が終わるのを待つ。
二つ前は、安川高校だった。今は、静岡県の代表校が演奏している。
地元である浜松の高校だから、恐らくこのホールでの演奏も慣れているに違いない。演奏は、さすがと言えるだけのレベルをしている。
「ふーっ」
コウキは、息を吐き出して、目を閉じた。
他校は、関係ない。自分達の演奏をするのみ。
いつも、自分に言い聞かせてきたことだ。
「集中しよう」
自分に向けて、呟く。
本番は、目前である。
丘は、指揮に関して、常に表現することを心がけてきた。
惰性で振らずに、一振り一振りに意味を込め、奏者に要求をする。
いつもより、強く。ここは、引こう。トランペット、出て。ホルン、テンポキープ。
そうした言葉に出来ない想いを、指揮に込める。
演奏は常に一度きりで、二度、同じものにはならない。だからこそ、指揮は流動的で、変化する。
生徒は、それを感じ取って、演奏してくれている。
この子達は、いつから、これ程までに丘に応えてくれるようになったのだろうか。
課題曲を振り終えて、丘は思った。
以前よりも、はるかに生徒の感性は高まっている。丘の指揮の意味を、言葉にしなくても直感で理解し、演奏に反映してくれる。
完全に、噛み合っている。
全員の意識が、まとまっている。
緊張感やホールの纏う空気が、良い方向に作用した時、実力以上の演奏が出来ることがある。
本番にだけ起きる、魔法だ。
今、それが起きている。
スネアドラムの千奈に、目を向ける。千奈が、目で応えた。
丘は頷き、指揮棒を振った。
スネアドラムの、目が覚めるような一発のリムショット。金管セクションのE♭の響きが広がり、自由曲の『たなばた』が始まった。トロンボーンを中心とした冒頭のハーモニーは、完璧だ。
テンポを上げて主部へ移り、シンコペーションの軽快なリズムの中で、爽やかな主題を二度、奏でる。
だいごが叩くクラッシュシンバルのクレッシェンドに導かれて、曲は場面を変える。
クラッシュシンバルは、一発一発の音の質が、以前よりも良くなっていた。
プロの講習会にだいごも参加したことは、摩耶から聞かされていた。何がきっかけだったのかは分からないが、だいごの中で、シンバルに対する向き合い方が変わったのだろう。
打楽器パートの安定感は、そのまま曲の安定感に直結する。『たなばた』全体を通して、いかに軽快さと躍動感を演出するかが、非常に重要だった。
打楽器のレベルが上がると、それだけで、ぐっと曲は彩りを増す。
トロンボーンからクラリネットへ、クラリネットからトロンボーンへ。シンコペーションが効いた楽句が受け渡され、トランペットが、前半部を仕舞う。
そして、正孝、奈美、幸、元子の四人による、サックスアンサンブル。前半部から中間部へ橋渡しとなる、肝の部分だ。うっとりとするような妖艶な響きが、ここには求められる。
今日まで、細部にもこだわることを、四人には徹底させてきた。ヴィブラートのかけかた、ダイナミクスの変化量、音の処理。どれ一つとして、曖昧に済まさせなかった。
音が、生きている、と丘は思った。
これほど極上のアンサンブルが、今まであっただろうか。
丘は、思わず、口元が緩むのを感じた。
丘が、笑っている。
コンクールで丘が笑うことは、滅多にないことだった。
目が合って、よしみは、頷いた。
ユーフォニアムを構え、正孝の音に耳を澄ませる。
音での、対話。
正孝の想いに応えるように、ソロを返す。
もう、コンクールでのソロは、怖くはなかった。仲間が、よしみのソロを支えてくれている。何があっても、よしみを受け入れてくれる。
その安心感が、恐怖を消してくれる。
大事なソロの最中なのに、よしみの頭の中は、不思議と他のことを考える余裕があった。
良いホールだ。いつも以上に、気持ちの良い響きが起きている。よしみの音に、合っているホールなのかもしれない。
心地良い残響が、耳をくすぐってくる。
ソロが終わり、曲は山場へと向かう。
『たなばた』の中で、よしみが一番好きな箇所だった。打楽器パートの、クレッシェンドを伴ったロールが、否応なしに感情を燃え上がらせてくれる。
トゥッティで朗々と奏でる、彦星と織姫の甘く切ない、逢瀬の時。
一年に一度しか会えないという二人は、きっと、その時間を少しでも長く味わっていたいと、毎年思うのだろう。
よしみも今、そうだった。この極上の響きを、もっと奏でていたい。終わって欲しくない、とすら思う。
それでも、曲は先へ進んでいく。摩耶のグロッケンが、きらきらとした時間の終わりを告げ、ひまりのオーボエが仕舞う。
純也のティンパニが、最終部の始まりを告げるリズムを静かに叩き、千奈のスネアドラムがそこに加わる。
一転して曲は速度を上げ、金管セクションによるベルトーンと、打楽器パートのリズムの応酬が始まる。木管の跳ねるようなフレーズが間を挟み、シンコペーション楽句が次々と各パートに受け渡されていく。
打楽器の効果音が華やかさを加え、だいごのクラッシュシンバルが、決めの一発を放つ。
見事な、一音だった。再び、丘が笑っている。
前半部で奏でられた主題が戻ってきて、トゥッティで盛り上がっていく。そのまま終わりへ、と思わせて、一旦静まるのが、実に愉快だ。
ユーフォニアム三人によるソリを経て、理絵と逸乃の抜けるようなファンファーレ調のソロ。
曲冒頭で用いられたシンコペーションのリズムが再び入り、遂に、エンディングへ。
楽しい。
よしみは、心の中で叫んだ。
胸の中に生まれた歓喜の想いが、音と共に飛び出していく。
他の皆も、きっとそうなのだ、と思った。今まで以上の解放感が、トゥッティから感じられる。
花田高が大切にしてきた、音楽を楽しむという、根幹。
想いが、一つになっている。音が、一つになっている。
これが、音楽なのだ。
極上の、十二分間だった。
コンクールで、こんな気持ちになれる日が来るとは。
放たれた最後の一音は、残響となってホールを巡り、そして、消えていった。
間髪入れずに、轟音のような拍手が、ホールを覆う。
楽器の構えを解き、その光景を、ぼんやりと眺める。
不意に、ずっと忘れていたことを思いだした。
何故、中学校で辛い経験をしたのに、高校でも吹奏楽部を選んだのか。
中学校の仲間との思い出は、最後の方は、暗くて、辛くて、苦しいものでしかなかった。そうなる以前には、楽しいと実感できる明るい思い出もあったのに、後悔と悲しみで、塗りつぶされてしまった。
もう一度、明るい思い出を取り戻したかった。よしみの音楽人生を、暗いままで終わらせたくなかった。
だから、花田高で、吹奏楽部に入ることを選んだのだ。
中学時代の後悔は、きっと一生消えないだろう。けれど新しい仲間達のおかげで、乗り越えることはできた。
音楽が楽しいという想いを、再び感じられるようになった。
「コンクールで、この曲を吹けて良かった」
口にしていた。
「私もです」
隣の真澄が答え、久也も、頷く。
まだ舞台上にいることも忘れて、三人で顔を見合わせ、笑顔を見せあった。




