十一ノ三十八 「東海大会 安川高校」
見上げる程の高さだ、とコウキは思った。
アクトシティ浜松を構成する複数の施設の一つで、アクトタワーという名前がつけられている。
浜松市を象徴するビルであり、前に洋子と楽器店に来た時も、駅前から見えていたから、存在は知っていた。だが、こうして改めて見ると、その大きさに圧倒される。
確か、東海地方でも五本の指に入る高さだったはずだ。
コンクールは、このアクトシティ浜松の中にある大ホールで行われる。客席数は二千三百を超えるというから、今まで演奏してきたホールの中で、最も大きい。
今は、ホール前の野外広場に、部員全員で集まっていた。少し場を離れている丘が戻ってきたら、中へ入ることになっている。
「お、あれは」
隣にいた月音の言葉に、コウキは、視線を向けた。
集団が、こちらに歩いてきている。白ブレザーに黒のスラックスで、一つ結びの髪型で統一された姿は、見間違えようもない。愛知県内トップレベル、いや、全国トップレベルの吹奏楽部、鳴聖女子だ。
ただ歩いているだけなのに、目を引く存在感がある。
野外広場が、静かになっていた。
恐らく、この場にいるほとんどの人間は、今日のコンクールの出場生徒や来場客だ。全国に名が知れ渡っている鳴聖女子のことは、嫌でも意識してしまうだろう。
当の鳴聖女子の生徒達は、周囲の視線など意に介していない様子で、施設の中へと入っていく。
「オーラがあるねえ」
月音が呟いた。
「同じ高校生なのになあ」
「集団が作り出す空気、ですかね」
「自信が、あるんだろうね」
手を叩く音が聴こえて、コウキは視線を外した。
「注目!」
摩耶が言った。
「私達の相手は、鳴聖女子じゃないよ。他の学校でもない。自分達の演奏に集中すれば、それで良い。吞まれないで、集中していこう」
その言葉に、部員が声を揃えて返事をした。
満足そうに、摩耶が頷く。
いつの間にか広場には、元の騒がしさが戻っていた。
「緊張してますか、月音さん」
「全然。いつも通り」
「さすが」
「そういうコウキ君は?」
「まあ、少し。でも、そんなには」
「さすが」
わざとらしい口真似をされて、コウキは、月音の脇を肘で突いた。
小さく笑って、月音が身体をよじる。
「二人は、相変わらずだねえ」
「逸乃先輩」
「その余裕を、ちょっとは分けて欲しいよ」
「緊張してるんですか?」
逸乃が、肩をすくめる。
「当たり前でしょ。しない方が怖いよ」
「緊張したって、良い音になるわけじゃないよ、逸乃?」
「分かってる、月音。言っただけで、私は大丈夫。それより、一年組なんて、ほら」
逸乃が、後ろを指さす。見ると、莉子と心菜が、青ざめた表情で互いの手を握り合っていた。その様子を、万里とみかが、心配そうに見ている。
まだリハーサルすらも始まっていないのに、完全にあがっているではないか、とコウキは思った。
「二人とも、緊張してるなあ」
「コウキ先輩……」
「不安か?」
「……はい。上手く吹けるかとか、失敗したらとか考えちゃいます」
心菜が言った。
コウキは、息を吐き出した。
「まあ、自然な反応だけど」
花田高が、これまで最も意識してきた大会は、東海大会だ。全ては、今日のためにやってきた、といっても過言ではない。
特に二、三年生は、去年の悔しい思い出があるから、今年こそ全国大会に行くのだという強い想いを持って、練習に臨んできた。
その熱意を間近で感じてきたからこそ、二人とも緊張しているのだろう。
「二人とも、身体が縮こまってるよ。自分の身体に、意識を向けてみな。首が固くなってないか? 呼吸が浅くなってないか?」
「あ……」
いつも、コウキが言っていることだった。
「緊張はしても良いけど、身体が思うように動かせない状態には、ならないように気を付けるんだ。身体さえ動けば、緊張も力になる」
頷いて、莉子と心菜が、深呼吸を始める。
本番までは、まだ時間がある。今緊張していても、楽器を持ってリハーサルを始めれば、何とかなるだろう。
どれだけ緊張していても、身体は今までやってきた練習を覚えている。莉子も心菜も、相応の努力をしてきたのだから、大丈夫だ。
会場の方から、丘が戻ってきた。
「皆さん、お待たせしました。では、移動しましょう」
「はい!」
いよいよか、とコウキは思った。
丘に続いて、歩き出す部員。コウキは、足元に置いていた鞄を持ち上げた。
見たところ、莉子と心菜以外にも、緊張した表情の部員がいる。後で、その子達にも声をかけたほうが良いだろう。
今の花田高は、万全の状態で最高の演奏をして、どうにか代表枠に届くかどうかだ。少しでも、不安要素は無くしておきたい。
リハーサル室。耳が詰まるような、密閉された空間。メンバーの五十五人と鬼頭だけの、本番前、最後の時間。
全員が、目を閉じている。
静かに、呼吸をする。肺に空気を送り込み、緊張と共に、吐き出していく。そうして、心身を集中状態に引き上げる。
何度か繰り返し、整った者から、目を開けていく。
全員が目を開けたところで、鬼頭は、指揮棒を構え、振った。
最初の音が、飛び出す。完璧なる、トゥッティ。音に全く乱れの無い時にだけ生まれる、極上の響き。
鬼頭は、最初の八小節で、『マーチ「ブルースカイ」』を止めた。
「完璧だ」
思わず、笑みがこぼれる。
「自由曲、冒頭やるぞ」
「はい」
再び、指揮棒を構え、振る。
鬼頭の手の動きに合わせて、オーシャンドラムが波の音を立てる。トランペットとホルンによる、夜明けの調べ。幾度となく繰り返した、最大の難所。
美しい。
その言葉が、相応しい、と鬼頭は思った。
宙で握り拳を作り、演奏を止める。指揮棒を下ろし、生徒の構えも解かせた。
リハーサルの時間は数分残っているが、これ以上、吹く意味はない。どれだけ確認の演奏をしたところで、本番には、本番の演奏しか出来ない。
後は、心を落ち着ける時間だ。
「三年連続、全国大会出場」
鬼頭は、言った。
「その意味は、重い」
安川高校の、目標だった。
全日本吹奏楽コンクールには、三出制度というものがある。三年連続で全国大会へ出場した学校は、翌年、コンクールの出場権が無くなるのだ。
安川高校は、一昨年と去年、全国大会に出た。今年も出れば、制度の対象になる。
生徒の目は、まっすぐに鬼頭を見ている。
鬼頭も、一人ひとりを、まっすぐに見つめ返した。
三出制度の対象校となれば、二年生は、今年の全国大会を最後に、もうコンクールへ出られない。今補欠で、三年生になってからのメンバー入りを夢見ていた者達は、その夢を叶える機会を、失う。
生徒が本来得られるはずの演奏機会を奪う三出制度は、対象校にとって名誉であると同時に、呪いだ。
「それでも、我々は、全国へ行く」
「はい」
生徒の声は、重く、静かだった。全員が、これから安川高校に起きることを、理解している。そのうえで、ここに来ている。
「先のことは、考えるな。今だけを考えろ。この瞬間を、全力で」
「はい」
生徒に向けて言いながら、自分に言い聞かせているようだ、と鬼頭は思った。
ふ、と笑っていた。
どうなろうと、構わない。
ここを逃せば、もう機会はない。最後なのだ。
必ず、代表権を得る。
自分の、身体は。
今は、そのことは考えない。
十二分。それだけ、もてば良い。
鬼頭は、目を閉じた。鬼頭が閉じれば、生徒も目を閉じる。
再び、五十六人の深呼吸の音が、リハーサル室に響いた。
暗い舞台袖で、クラリネットを抱えて立っている。
一つ前の学校の演奏が、反響板越しに聴こえてくるが、陽介は、それを気にしないようにしていた。
気にすれば、心に不安が生まれ、演奏が駄目になる。
リハーサル室でやったように、目を閉じ、鼻から空気を吸い、口から吐き出す。
何度か繰り返して、意識を集中させていく。
リハーサルは、良かった。このまま行けば安川高校は、必ず全国大会へ行ける。それだけの演奏を、今の安川高校は、奏でられている。
神経がすり減るような厳しい練習だったが、その積み重ねが、今の安川高校を作っている。
問題ない。口の中で、小さく呟いた。
前の学校の演奏が、クライマックスに突入し、怒涛の演奏が身体の芯に響いてきた。
あと数分で、本番だ。次は、自分達があそこに座る番である。
陽介は、制服の胸ポケットに指を入れ、中から、折りたたんであったメモ用紙を取り出した。
吹奏楽部の女子の間で流行っている、キャラ物のメモ用紙だ。
開いて、中を見る。
「まけるなー!」
可愛らしい丸文字で、その一言だけ書かれていた。
数日前に、萌から貰ったものだった。
東中から進学してきた唯一の仲間であり、陽介の想い人。その萌が、陽介のために書いてくれたもの。萌からすれば、なんてことのないちょっとしたメモ書きだったかもしれないが、陽介にとっては、宝物だった。
萌の文字を見ていると、心が、あたたかい気持ちで満たされる。
わ、と拍手が鳴り響いた。前の演奏が、終わった。
陽介は、メモ用紙を丁寧に折りたたみ、再び胸ポケットにしまった。
反響板扉が開き、スタッフから指示が出る。
一番最初に入るのは、陽介だった。扉を抜けて、舞台を歩いていく。
クラリネットは、最前列に弧を描くように座る。陽介の席は、指揮者から見て一番右側だ。向かいの一番左端に、修斗が座る。
修斗と目が合い、互いに、頷いた。
舞台の準備が整い、指揮台の横に立つ鬼頭も、目を閉じている。
会場スタッフが全員はけ、アナウンスが入り、舞台が明るくなる。
指揮台に、鬼頭が上がった。
不思議なほどに、心は澄んでいる。自分達が負ける未来が、想像もつかない。代表に選ばれるという確信に近いような感覚が、陽介にはあった。
鬼頭の手が上がり、陽介も、クラリネットを構えた。
「佐原先生は、他校の演奏を全て聴いていていただけますか」
丘からの指示だった。
聴いて学べ、ということらしい。
丘は、涼子を音楽面でも、部に参加させようとしている。
そのために、耳を鍛えろ、と言われている気がした。
涼子には、音楽の知識はない。部活動の顧問としても、半人前だ。
求められるだけの働きが、出来る気はしていない。
それでも、丘が涼子に期待しているのなら、応えたい。
少し前に、丘から言われたことがある。
「いつか私がいなくなった時、新たな顧問と部員の橋渡しの役目を担う人が、うちには必要です。それは、佐原先生、あなたにしか出来ません」
丘は、すでに十年以上花田高にいる。いつ飛ばされるか、分からない身だ。
涼子より先に丘がいなくなれば、その通りになるのだろう。
吹奏楽部に貢献したい、という気持ちはある。
だから今は、丘に言われたことを、とにかく忠実にやることだった。一つひとつ、学んでいく。
副顧問である涼子の仕事は、それだった。
静まり返ったホール内で、舞台上の明かりが灯る。眩しく輝いた姿を見せているのは、安川高校だ。
これまでのコンクールでも、合同バンドでも、常に花田高と競ってきた学校である。
ここに来ている学校は、どこも各県の代表となるだけの実力を持つところばかりだ。その中でも、やはり安川高校は、放っている気のようなものが違う。
圧倒的な自信を感じさせる、堂々とした佇まい。ただ座っているだけなのに、もう、会場の空気は安川高校に支配されている。
顧問の鬼頭が指揮台に上がり、部員が楽器を構えた。課題曲は、花田高と同じ『マーチ「ブルースカイ」』。
指揮棒が揺れ、音が放たれる。涼子の身体に、音の固まりがぶつかってきた。
これが東海レベル、いや、全国レベルの学校の、本気の演奏か、と涼子は思った。
合宿の合同練習で聴いた演奏や、県大会などで聴いた演奏よりも、更に研ぎ澄まされている気がする。
音の粒というものが、最近、涼子にも分かるようになってきていた。完璧に揃った音は、まさに、そう表現するのが相応しいような、はっきりとした音になって耳に届いてくる。
乱れというものが、全く感じられない。ここまで演奏してきた他校より、一段上の演奏だろう。
課題曲がトリオ部分に入り、静かで美しい旋律が、ホールを漂う。木管セクションによる、流麗なユニゾン。完璧に溶け合った、一つの音の固まり。
それを支える拍打ちのセクションは、丁寧で心地良いリズムを刻んでいる。
マーチの完成形、と言っても良いのかもしれない。それだけの演奏に、涼子には感じられる。
トリオ部分が終わり、ファンファーレからのわずかなリタルダンドを経て、最終部に移る。
盛り上がる部分は、高揚する気持ちに引っ張られて、音が散漫になりやすいというが、安川高校の演奏からは、全くそんな印象は受けない。それでいて、確かに最終部の華やかさが表現されている。聴いているこちらまで、心が湧きたつような、トゥッティ。
極上の行進曲は、あっという間に終わっていた。
鬼頭の腕が下ろされ、部員の構えが解かれた次の瞬間、涼子は、息を呑んだ。
呼吸をすることも憚られるような空気が、なおもホールに満ちていた。
曲間なのに、動くことすら、許されない。彼らの集中を、邪魔してはならない気にさせられる。
他の客も誰一人として、音を立てる者はいない。
ただ、視線を、舞台上に釘付けにされていた。
波の音。
初めに聴こえたのは、それだった。
そして、ホルンとトランペットによる、夜明けの旋律が降りてきた。
肌が、粟立った。
未熟な涼子にも理解できる、次元の違う演奏。数十秒前の行進曲のことなど、涼子の頭からは消え去っていた。
海と、港。涼子の目には、無機質なホールではなく、その情景が広がっている。
鐘の音。船の出港を想起させる、冒頭部のコラール。
そして、主部。中低音セクションによる、疾走感を感じさせるシンコペーションのリズムに乗って、クラリネットの流れるように軽快な旋律が、奏でられだした。フルート群による、風の音とも波の音とも捉えられる連符が合わさり、大海原の情景が描かれていく。
荒れ狂う波を超えて、船が走る。果敢に大海に挑む、海の男達の勇ましさが、目に見えるようだ、と涼子は思った。
再び戻ってきた旋律は、厚みを増し、全体の躍動感も高まっている。
涼子は、完全に曲の中に取り込まれていた。
全ての意識が、舞台上に注がれていた。
だが。
曲が、中間部に移ろうかという、その時だった。
涼子は思わず、あ、と声に出していた。
最初に気がついたのは、恐らく、陽介だっただろう。
そして、唯一反応できる場所にいたのも、陽介だった。
鬼頭が、倒れる、と直感した。
考えるよりも先に、飛び出していた。
倒れかかった鬼頭を、陽介はクラリネットを持っていない左手だけで受け止めた。体重がかかってきて、よろめきそうになったのを、両足で踏ん張って耐える。
指揮は、止まっている。全体の演奏は、止まりはしなかったが、大きく乱れた。
陽介は、咄嗟に修斗に目を向けた。はっとして、修斗が立ち上がり、手振りで指揮を始める。
部員の視線が、修斗に集中した。
本番中に鬼頭に何かあれば、こうする、と事前に修斗と決めてあった。ただ、今日は打ち合わせていたわけではなかった。
修斗の反応が、遅れた。いや、すぐに反応していたとしても、部員は狼狽えただろう。
中間部の鯨の歌が、始まる。
打楽器セクションによる効果音によって、夜の神秘的な海を表現する箇所だが、いつものような幻想感が、無い。
動揺が、音に出ている。
不意に、舞台の一角から、ぞくりとする気配を感じた。
「聴け!」
耳元で叫ばれた気がして、思わず、陽介は顔を向けていた。
ユーフォニアムの美鈴の、ソロだった。
揺るぎない、絶対の演奏。常に神懸かった、美鈴の音だ。
ホールに、ユーフォニアムの妖艶な響きが満ちた。
この状況で、なお、過去最高のソロを放つのか。
「ついてこい」
そう、言われている。
感じ取ったのは、陽介だけではないだろう。美鈴の音が、部員の気持ちを引き戻したのが解った。
ユーフォニアムから、オーボエにソロが渡される。
「先生」
話していることが客席と舞台下手から分からないように、鬼頭にささやきかける。
脂汗を浮きあがらせ、顔を歪めていた鬼頭が、目線だけを向けてきた。
「大丈夫ですか」
胸元を、左手で握りしめている。
ここにきて。本番という、この瞬間に。
陽介は、自分でも意識しないうちに、唇を噛みしめていた。
「……大丈夫だ」
鬼頭が言った。
陽介の身体を支えにして、体勢を整える。
片手で胸元を抑えながら、鬼頭が、再び指揮棒を動かした。
「戻れ」
本当に、大丈夫なのか。また、倒れないのか。
ちらりと、修斗に目を向ける。指揮をやめて座り直した修斗が、頷いた。
「……はい」
陽介は、鬼頭から手を離し、自分の席に戻った。
再び、美鈴のソロ。鯨の歌が、終わる。
客席に、ちらりと目をやった。
客の間にも、動揺が広がっている。だが、演奏を止める指示は、スタッフからは出ていない。
このまま最後までやりきれば、失格などにはならないはずだ。演奏時間も、十二分を過ぎることはない。
一瞬、乱れた。だが、持ち直した。まだ、大丈夫。大丈夫に、違いない。
一度、深呼吸をし、それから、クラリネットを構える。
弱々しく、だが正確に動く指揮棒を、陽介は目で追った。




