十一ノ三十七 「明日へ」
今日もサッカー部は、真面目に活動をしている。
紅白戦のようなものをしているらしく、チームメイト同士で掛け合う声が、教室のベランダまで届いてきていた。
東中のサッカー部は、二学年上の拓也の代がいた頃はそこそこ強かったはずだけれど、今は、そうでもない。顧問も悩んでいるという話は、ちらりと山田から聞いたことがあった。
頑張っているのに、報われない。どこの部活動でも、同じだろう。
「華」
開けてあった出入口から、トランペットの真紀が顔を覗かせた。
「真紀。よくここって分かったね」
「楽器と譜面台が教室に置いてあるんだもん」
「……ああ」
真紀が、スカートを抑えながら、隣に腰を下ろしてくる。
「風が気持ち良いねえ」
「うん」
「お、サッカー部」
「毎日、暑いのによくやるよね」
「サッカー部も、大会終わっちゃったらしいじゃん」
「らしいね」
「一試合負けたらそれで終わりって、なんだかなあ。敗者復活戦みたいなものが、あっても良いのに。そう思わない、華?」
「どうかな。結局、それで勝ち上がっても、優勝にはたどり着けないでしょ」
「でも、一試合でも多く出来るじゃん、今のメンバーでさ。敗退したら、もう出来ないんだもん。やっぱり、一秒でも長く、皆でやりたいよ」
「……そう、だね」
たった一度の結果で、終わる者と続く者に分けられる。勝負事は、公平で、無情だ。
「てか、うちの学校で上の大会に行く部活って、あるっけ、華?」
「どうだったかな……新体操とかは、そこそこ行ってた気がする」
「結構大きい学校なのに」
「普通の中学校なんて、どこもそんなもんでしょ」
「……あーあ。夏も、終わるねえ」
言って、真紀が、両腕を前に伸ばした。
県大会から、もう二十日近く経つ。
暑さも、空模様も、蝉の鳴き声も、全く変わっていないように感じても、実際は、少しずつ変化している。あと少しで九月になり、そうしたら、暑さはやわらぎ、夜には冷える日も増えてくるだろう。雲も形を変えて、秋の雲になっていく。
「……私達、いつまで、こうして止まってるの、華?」
唐突に真紀に言われ、心臓が音を立てた。
「何が?」
「私達が部にいられるのって、もう二ヶ月くらいしかないよ」
「知ってる、けど?」
「知ってるのに、サボり続ける?」
答えに、詰まる。
「私達って、大会が終わったら、それで終わりなの?」
真紀は、前を向いている。
じっとりとした嫌な汗が、身体から浮き出てきた。不快なそれを、しかし、拭うことが出来ない。
「……サッカー部、大会終わったのに、まだ練習してるんだね。あれさ、三年生チームと一、二年生チームに分かれてるよね」
紅白戦の話か、と華は思った。目をこらすと、確かに赤のビブスを着けている方は、三年生の知っている顔ばかりだ。
「引退の前に、最後の後輩の指導かな」
私達は、何をやってるんだろうね。真紀が、そう言っている気がした。
このままで良い、などとは、華も思っていない。けれど、燻っているこの気持ちを、再び燃え上がらせるには、どうすれば良いのか。
「諦めないで」
「……え?」
「また一から、やり直そうよ。最近、洋子ちゃんの音が、そう伝えてきてる気がするんだよね」
言いながら、真紀は、実習棟の方に目を向けていた。
「県大会が終わってから、洋子ちゃんだけずっと練習してるの、気づいてた?」
「……うん」
「私も、華も……他の三年生も皆、気が抜けちゃっててさ、全然練習になってない。普通なら、怒っても良いはずなんだよね、洋子ちゃんは」
華は、毎日洋子と一緒に帰っている。けれど、何かを言われたことはなかった。いつも、無言で帰るだけだ。
「でも、怒らない」
「うん」
「洋子ちゃんは、私達が自分で気力を取り戻すのを、待ってる気がするんだよね」
「……自分で?」
「そう。なんか洋子ちゃんの音を聴いてたらさ、もう、こんな風にだらけてる場合じゃないなって思うようになってきた」
真紀がこちらを向いてきて、視線が交わった。
「そろそろ、私達も練習しない?」
「真紀」
「いきなりガッツリじゃなくても、良いからさ。久しぶりに、皆で合わせようよ」
「でも、山田先生は個人練習だって」
「ほっときなよ。山田先生、魂抜けたみたいになってるし。それこそ、先生が自分で気力を取り戻すまで、私達だけでやろうよ」
「でも、皆も、だらけてるし」
「何か、一曲合奏しよ。楽しい曲吹いたらさ、また気持ち戻るかも」
「楽しい、曲」
「『オーメンズ・オブ・ラブ』とかどう? 気分上がるじゃん。楽譜も、確かあったでしょ」
「……多分」
「いつまでも、洋子ちゃんを待たせてる訳には行かないよ、私達」
真紀が、手を差し出してくる。
「去年、華がコンクールで全国を目指す、って言い出した時さ、私が真っ先に華の提案に賛成したの、覚えてる?」
「え、うん。勿論」
新体制になってからの話だ。ミーティングで華が提案して、真紀が同意の声を挙げてくれた。あの一言がきっかけになって、他の部員も賛成してくれるようになった。
東中が本気になる、きっかけの一言だった。
「あの時、多少計算もあったんだよね。華があんなこと言い出して、正直驚いたけど、でも実際、華なら連れて行ってくれそうな気がした。だから、風向きを変えるには、誰か一人でも賛成する声が必要だ、って思った。だから、私が言った」
「そうだったんだ」
「今も多分、その時なんだろうなぁって。また誰かが動き出さなきゃ、皆、止まったままだと思う。私達で、動き始めようよ。待ってくれてる洋子ちゃんのためにも」
真紀が、差し出していた手を、ちょっと動かした。
華は、自然と、その手を握っていた。
「終わったことは、変えられない。今から、何をするかが大切。多分、コウキ先輩なら、そう言う」
真紀も、同じトランペットパートとして、コウキから指導を受けた人間だった。
「そうだね」
「すぐには、前みたいに熱は上がらないかも。でも、やるだけやってみよ」
「うん」
二人で、立ち上がった。
「まずは、洋子ちゃんのところかな。ずっとサボってた私達だけより、洋子ちゃんもいたほうが、きっと皆動いてくれるようになる」
「……うん」
「行こう、華」
真紀の言葉に、華は、頷いていた。
やるだけやってみる。それも、ありかもしれない。
このままでは良くない、とは思っていたのだ。真紀の言う通り、とりあえず動いてみれば、もしかしたら、この燻った気持ちも、変わるかもしれない。
隣を歩く真紀を、華は横目で見た。
真紀とは、ずっと隣でトランペットを吹いてきた。互いに、その性格も考え方も、知り尽くしている。
華のことを、励ましてくれているのだ。
「真紀」
立ち止まって、呼び止める。振り向いた真紀が、首を傾げた。
「ありがとう、いつも」
「何、急に」
「真紀が居てくれて、良かった。ありがとう」
少し照れた顔をして、真紀が笑った。
「私より、洋子ちゃんに言おうよ。私がまたやる気になったのは、洋子ちゃんのおかげだもん」
「……うん」
再び、歩き出す。
あっという間に、音楽室の前に着いていた。中から、打楽器パートの練習の音が聞こえている。
洋子に、何と言おうか。
随分と、待たせてしまった。
「華が開ける?」
頷いて、扉の取っ手に手をかける。
思ったことを、伝えるしかない。
華は、一度大きく深呼吸をして、扉を開いた。
近所の公園だった。摩耶を駅に送る前に、二人で寄った。
小学生の頃は、よくここで友達と遊んだものだ。中学生になってからは、吹奏楽部に入って忙しくなり、来ることもなくなった。
遊具は滑り台とブランコしかない。他は、今、正孝と摩耶が座っている東屋が、敷地の中央にあるくらいで、小さな公園だ。ひと気も無いから、二人で過ごすには最適、というくらいで、そうでなかったら、来ようとも思わない場所だった。
摩耶は、ずっと肩にもたれかかってきている。手は繋いだままで、二人とも、無言だった。
会話をしなくても良い関係は、楽だ。言葉が無くては維持出来ないような仲なら、恋人としては続かない。
時折、摩耶が身じろぎをすると、甘い香りがする。洗剤の香料ではなく、摩耶の香り、とでもいうべきか。それを嗅ぐと、心が落ち着いて、正孝は好きだった。
「もー、また嗅いでる。正孝の前世って、絶対犬だよね」
顔をあげた摩耶の頬は、赤く染まっている。
「良いにおいだから、しょうがないだろ」
「汗臭いだけでしょ」
「しないよ、汗のにおいなんて」
言って、摩耶の額に唇で触れる。
一瞬目を閉じた摩耶が、また開け、それから、見つめてきた。
静かに、唇を重ねる。
離れて、互いに、微笑んだ。
公園に行こうとは、どちらからともなく言い出したことだった。いつも、二人で過ごす時には、ここだ。
摩耶は部長で、正孝は学生指導者である。部員を引っ張る存在だから、学校では、こんな風にはしていられない。家族のいる家は、論外だ。
正孝は、摩耶が好きだった。こんなに一人の異性を大切にしたいと思ったのは、初めてのことである。
摩耶も、正孝を好いてくれている。
一時期、正孝が学生指導者を続けるかで悩んでいた時に、険悪になりかけたが、それは、正孝から謝罪した。丘に気持ちを打ち明けたことで、心境が少し変わったおかげか、摩耶にも、素直に気持ちを明かせた。
摩耶は、正孝を許してくれた。そして、一緒に頑張ろうと言ってくれた。
キスをする関係になったのは、つい最近からだ。それまでは、手を繋ぐくらいしかなかった。
摩耶と唇を重ねると、心が満たされる。
もう一度、口づけをする。
触れるるのは、一瞬だ。それでも、二人にとっては充分だった。
先の行為など、今は考えられない。まだ、ここまでで良い。
「いよいよ、明日だね」
摩耶が言った。
「ああ」
帰って、寝れば、もう明日は、東海大会である。
去年は金賞を得ながら、代表には選ばれなかった。代表校とは、たったの一点差だった。
悔し涙を、流した。そして、次こそは全国大会に行く、と誓った。
一年という時間は、長かったのか、短かったのか。どちらにしても、花田高は変わった。去年よりも、確実に成長している。
奏馬もいない。晴子もいない。三年生だった九人は、もういない。だが、六十二人がいる。そして、丘もいる。
全国大会出場は、届かない夢ではなくなった。
「私達、行けるよね」
握られた手に、力が込められた。
「行ける」
「うん」
「行こう」
「うん」
悩み続けてきた一年だったから、自分が、奏馬のように優れたリーダーだったとは思わない。だが、奏馬の残してくれたノートがあった。コウキも、支えてくれた。隣に、摩耶もいた。何より、丘が導いてくれた。
やれることはやった。その想いはある。
後は、信じるだけだ。
「もうちょっと、こうしてて良い?」
甘えるような声を、摩耶が出した。
「ああ」
正孝も、もう少しだけ、摩耶といたかった。
ずっと握っているせいで、手は汗ばんでいる。だが、全く不快ではない。
摩耶との繋がりが、明日への不安を、和らげてくれている。




