十一ノ三十六 「コンクール前」
静かな、夜だった。
いつもなら聞こえる虫の声も、今日は聞こえてこない。
そう思っていたら、雨が降る音が聞こえ始めた。打ち付ける雨音は、すぐに大きくなり、あっという間に轟音となった。
久しぶりの雨だ、と逸乃は思った。
月音に勝った、という気持ちはない。今回も、どちらが『たなばた』のソロに選ばれても、おかしくはなかった。
逸乃と月音の間にある、ほんのわずかな差を、丘と涼子が見つけたのだろうか。
選ばれたことを、誇る気にはならない。任されたからには、最良の演奏をするだけである。
後ろを見ている余裕は、無かった。いつの間にか、追い上げられている、と思った。
何故それほど伸びるのだ、と言いたいくらい、コウキは成長している。入学してきた当時のコウキは、まだ、少しは吹ける子という程度の印象だった。
今のコウキは、充分な力量を持っている。気を抜けば、逸乃も月音も、ソロを取られかねない。
けれど、先輩としての意地がある。卒業までは、コウキにソロを譲るつもりはない。トランペットのトップとして、背中を見せ続けること。
それが、逸乃の仕事だ。抜かれることなど、あり得ない。
傍に置いていた携帯電話が鳴って、画面が点灯した。理絵からの着信だった。
ボタンを押して、携帯を耳にあてる。
「もしもし?」
「もしもし、逸乃? 今大丈夫だった?」
「良いよ、何?」
理絵からの電話は、珍しかった。
「いや、特に用はないんだけど、逸乃と話したくなってさ」
「何それ。なら、別に明日学校でも話せるじゃん」
「ん、そうなんだけど、皆が居る前だと、中々話す時間ないじゃん」
トランペットとトロンボーンは、合奏では並んで座るし、それぞれのパートのトップを務めている逸乃と理絵は、隣同士だ。その気になれば、別にいくらでも話せるだろう。
「最近さぁ、二年生のレベルが上がってると思わない、逸乃?」
「え?」
「いや、ラッパも、コウキ君とか伸びてるじゃん。万里ちゃんも、メンバーに選ばれたし」
「あの二人は、成長率がちょっと異常だから」
「二人に限ったことじゃないよ。クラの三人組も伸びてるし、モッチーとか、勇一君とか、あと、美喜ちゃんとか」
「あー、美喜ちゃんね、確かに」
トロンボーンの美喜は、全国大会常連の海原中出身だ。そこでトップを任されていたというだけあって、去年の段階でも技術力は頭一つ抜けていたけれど、ここ最近は、更に進化している。
「私、美喜ちゃんにはそろそろ抜かれるかもなぁって」
「まさか、理絵が?」
「まさか、って程でもないよ。前から感じてたし、私もそうなっても良いと思って、美喜ちゃんに教えてたし」
「確かに成長してるけど、私は、まだまだ理絵の方が上手いと思うけどなあ」
ソロも、県大会に引き続き、理絵が選ばれている。
ふ、と理絵が電話越しに笑った。
「ありがと。でも、やっぱり隣で常に吹いてると感じるんだよねぇ。あ、この子まだまだ伸びるなって。私は、最近伸び悩んでるし」
「そう、なんだ」
「私は、私個人が後輩に抜かれる悔しさよりも、部がもっと良くなることが大事だから、二年生がレベルアップしてるのは嬉しいけどね」
「まあ、ねえ。来年、安心して任せられるってことだもんね」
でしょ、と理絵が言った。
ただ逸乃は、理絵とは少し違う。後輩に技術で抜かれるつもりは、全くない。後輩達がこれから先まだ伸びるというなら、逸乃は、更に上を行くのみだ。
将来、プロ奏者になりたいという夢があるし、音楽大学にも行くつもりでいる。そういう目標を持ち、バンドをけん引するトップ奏者として、後輩に負けて良いとは思わない。
常に自分の音に自信を持ち、上を目指す。逸乃なりの覚悟のようなものだ。
「話変わるけどさあ」
理絵の話は、まだ尽きないようだった。
そういえば、同期と電話で話すのはいつぶりだろうか、と逸乃は思った。昔から、あまり人と電話をする方ではなかった。
たまには、長電話も悪くない。どうせ、雨音がうるさくて、考えには集中できそうにもなかったのだ。
「聞いてる、逸乃?」
「ごめん、聞いてるよ。リーダー決めの話でしょ」
「そうそう。それでね」
理絵の声を聞きながら、逸乃は、窓の外に目をやった。
今夜は一晩中、雨だろう。
「課題曲と自由曲、今日も通しましょう」
初めに、丘が言った。
「はい!」
短いやりとり。それだけで、息を呑むような静けさが生まれ、図書室内の空気が張りつめていく。
部員の目は、丘を見据えている。指揮棒が構えられ、振り上げられた。
軽快な音楽が、始まった。
コンクールが行われるホールでは、残響というものがあり、音の終わりは、通常より長く残る。対してこの図書室は、響きとは無縁の空間だ。つまり、ここで聴こえる演奏が正解だと思ってしまうと、いざホールで吹いた時に、いつもと違って聴こえて、演奏が乱れる原因となる。
何処で吹いていても、常にホールで演奏しているイメージを持つ。そうすることで、演奏に残響が加わった時、混乱しなくて済む。
課題曲が終わり、すぐに、自由曲へと移る。
スネアドラムのリムショットから始まり、金管のハーモニーへ。何度となく練習して、身体に染みこませたフレーズやリズムが、自然と楽器から放たれていく。
「最初にした演奏が、自分達の実力です」
今年度になって、丘が何度も言うようになったことだ。
本番は、常に一回しかない。間違えたからといって、吹き直すことはできないのだから、最初の一回でどれだけの演奏を出来るかが、重要である。
コウキも、その考えには同意だった。
自由曲が終わり、丘の指揮台に置かれていたストップウォッチが止められる。
部屋に満ちていた緊張感が、一気に緩んだ。
「十二分以内ですね」
規定時間は、オーバーしていない。曲と曲の間も、問題なかった。
「良い演奏です」
丘の言葉に、部員から小さく安堵の声が漏れる。通し演奏は毎日していたが、必ず何かしらの指摘を受けていた。指摘を受けなかったのは初めてのことだから、当然の反応だろう。
丘が、本番が迫っているから、部員に気を遣って世辞を言った、という風には見えない。実際、コウキも手ごたえを感じる演奏だった。
「この調子です。常に本番のつもりで、楽しく吹くこと。忘れないようにしましょう」
「はい」
「私は、この後ちょっと出なければならないので、明日のホール練習の打ち合わせは頼みます、星野」
「分かりました」
「では、今日はこれで」
理絵の合図で全員立ち上がり、挨拶をする。礼をして、丘は足早に図書室を出て行った。
「じゃあ、ミーティング短くやります。パートリーダーは資料取りに来てください」
摩耶が前に出てきて、各パートリーダーに紙を配っていく。逸乃が取りに行って、すぐに戻ってきた。
「はい、コウキ君」
「ありがとうございます」
逸乃から紙を受け取り、内容に目を通す。明日のホール練習と、明後日の東海大会のタイムスケジュールが、細かく記されている。
「動きは全部は読み上げませんので、各自で確認しておいてください」
「はい」
「明日は七時に集合して、楽器下ろしです。すぐに始められるように、今日の帰る前に、必ず全楽器の梱包を終わらせておいてください」
「はい」
「会館への移動は、事前にパート内で決めてある通りに。会館集合は、九時までにお願いします。質問はありますか?」
誰からも、手は上がらない。
「では、今日はこれで。お疲れさまでした」
「お疲れさまでしたー!」
すぐに、部員の話し声が、図書室に満ちた。
「ふー、終わった終わった」
左隣に座っていた月音が言い、椅子の背もたれに身体を預ける。
「丘先生、珍しく何も言わなかったね」
「実際、一日練習の後の通しだったのに、良かったですよ」
「だねえ。後は、明日のホール練かあ」
「中ホールとはいえ、土曜日なのによく取れましたよね」
右隣の莉子が言った。
いつもは髪を結ったりしない莉子が、今日はポニーテールにしていた。
海原中の頃からの、名残なのだという。吹奏楽部の女子部員は、本番では大抵ポニーテールにする。髪を結べば、頭皮が引っ張られることになり、慣れていない身体には多少のストレスだ。そうした些細な変化でも、調子に影響するかもしれないから、あらかじめ慣れるために、数日前からやるようにしているらしい。
思いだしてみれば、これまでも本番が近くなると、莉子は髪を結っていた。
「今年も東海大会に行く前提で、去年のうちに予約してたんだってよ」
「えっ、すごいですね」
「それだけ、先生達も本気だったってことだな」
休日のホールともなれば、大抵何かしらのイベントで使用されるものだ。確実に使うためには、事前に取っておくことが大切である。
同期の陽介から聞いた話によると、安川高校は、近隣で使える会館がなかったため、今日からわざわざ遠くの町にまで出ているらしい。
恐らく、明後日の東海大会に出てくる学校は、どこも今日か明日から、ホール練習をするだろう。遠くの学校は、もしかするとすでに浜松市に乗り込んでいるかもしれない。
「さて、と。私は帰ろうかな」
立ち上がって、月音が言った。
「もうですか?」
「これ以上吹いて疲労が残ったら、明日明後日に音出なくなるかもしれないしね。二人はまだやってくの?」
「あ、私も帰ります」
「俺は、残ります」
「そっか、無理しないようにね、コウキ君」
「はい、お疲れ様です」
「じゃあね」
「お疲れ様です、コウキ先輩」
離れていく二人を見送って、コウキは図書室を見回した。残っているのは、木管セクションと打楽器ばかりだ。
金管セクションは、ほとんどの子が練習を終えたようである。月音の言うように、疲労が残らないようにするためだろう。
コウキは、最後に少しだけ基礎をするつもりだった。やりたい練習は、山ほどあり、時間がいくらあっても足りないのだ。
結局、東海大会でもソロは得られなかった。月音と逸乃には、まだ追いつけていない。
もっと、近づきたい。そして、追い越したい。
そのためには、練習し続けるしかない。
東海大会が迫っていようと関係はなく、先に向けて、進み続けるのだ。




