十一ノ三十四 「オーディションの結果」
自分の努力を、これくらいで充分だ、と思ったことはない。
どれだけ努力しても、高校から始めた万里と経験者の間には、経験面で大きな差がある。万里が、何度も練習してやっと出来るようになったことが、他の人にとっては当たり前の技術だったりするのだ。
周りに追いつき、離されないためには、頑張り続けること。それが、万里に出来る全てだった。
卒部生の奏馬が、大学で忙しいはずなのに、万里の練習を見るために何度も来てくれた。逸乃、月音、コウキも、ペア練習や個人練習の合間に、合奏でやった内容を共有するため、一緒に合わせてくれたりした。その善意に応えるためには、手を休めている暇はなかった。
オーディションの前に、自信はあるか、とコウキに尋ねられた。そんなものを持てるほど、万里は、自分が優れているとは思っていない。ただ、オーディションを受ける心構えなら、出来ている。
やれることは、全てやってきた。丘にどこを指定されても、イメージしている演奏が奏でられるようにしたし、曲中での自分の音の役割を理解して、それを果たす演奏に仕上げた。
これで駄目なら、万里以上に、周りが努力したということだ。それならそれで、良い。より一層、花田高が全国大会に行く可能性が高くなるということでもある。
「では、次は橋本」
丘が言った。
英語室。トランペットパートの七人が横並びに立ち、向かい合うように、丘と涼子が座っている。
すでに五人の演奏が終わって、残りは、万里とみかだけだった。
「はい」
返事をして、万里はトランペットに軽く息を吹き込んだ。楽器は冷えていないから、このまま、すぐに演奏出来る。
「では、課題曲の冒頭から」
「はい」
何度も練習したところだ。課題曲の『マーチ「ブルースカイ」』。抜けるような青空を想起させる曲で、金管楽器は、華やかな音が求められる。
万里は、一度目を閉じ、頭の中に譜面を思い浮かべた。何度も吹いているうちに、完璧に覚えていた。どう吹けば良いかも、刻み込まれている。
深呼吸をして、胸の中に空気を送り込む。
万里の音は、逸乃達に比べて力強さがない。自分で、よく分かっていた。息の圧力や速度の不足が原因で、それはつまり、この冒頭の輝かしい音を担うのに、相応しくないということでもある。
「演奏の前には、自分が思っている以上にしっかりと息を吸おうか」
奏馬にも、逸乃に紹介されたプロの先生にも、同じようなことを言われた。
息で音を支えるには、それ相応の量が必要になる。自分でここまでと思う量より、更にもう一段深く息を吸うのだ。それによって、肺がしっかりと膨らみ、身体の中に息の圧力を作り出す源が生まれる。
ゆっくりと息を吐き出し、それからトランペットを構え、万里は目を開いた。
英語室は、静寂に包まれている。頭の中で課題曲のテンポを鳴らし、もう一度、息を吸った。弾けるような音を、出した。音の処理を一音ずつ、丁寧に抜いていく。狭い英語室ではなく、広いホールにいると想定して、音を響かせる。
問題ない出来だ、と万里は思った。
「結構です。では次、トリオから」
「はい」
万里は、トランペットのベルに、ストレートミュートをはめた。
曲の中間部で、トランペットは細かなタンギングが要求される箇所である。軽やかに、音の粒がはっきりと聞こえるように吹き、かつテンポが遅れてはならない。ミュートを着けている分、普段と息の抵抗感も変わるから、繊細な技術力が求められる。
しかもここは、ダブルタンギングとシングルタンギングを使い分ける必要がある。どこをダブルで吹き、どこをシングルで吹くのか。トランペット全員の音が、まるで一本のようにまとまって聞こえるようにするには、タンギングの仕方も揃えなければならない。万里だけ好き勝手に吹いては、音の輪郭がぼやける原因になる。
万里は、もう一度楽器を構えた。
大丈夫。心の中で、呟く。苦手なタンギングも、出来るようにしてきた。他の人と音が揃うように、何度も合わせてきた。
不安になる必要はない。練習した通りに、吹くのだ。
大きく、息を吸う。そして、万里は音を放った。
何故。
最初に浮かんだ言葉は、それだった。次に浮かんだのは、悔しい、だった。
そして、泣いていた。膝の上に、玉の涙が落ちていく。
丘は、淡々とオーディションの結果を告げていった。
自分の何が悪かったのか。努力は、してきた。県大会オーディションの時よりも、良い演奏をした。間違いなく、自分は大丈夫だったはずだった。
なのに、浩子の名前は、呼ばれなかった。
「これが、東海大会へ臨むベストメンバーです。必ず、全国大会へ行きましょう」
「はい!」
部員の、力強い返事。
浩子は、声を上げなかった。
オーディションは、サックスパート全員で同時に受けたから、隣で智美の演奏も聴いていた。その出来は、浩子と対して変わらなかったはずだ。なのに、智美は選ばれて、浩子は選ばれなかった。
丘と涼子が、智美は学年が上だから選んだ、などという贔屓をするとは思っていない。
二人の間に、どんな差があったのだ。
浩子の代わりに新たにメンバーに加わったのは、トランペットの万里だった。
県大会ではメンバーから外れていた万里をわざわざ加えて、浩子を外す。そこに、どんな意図があったのか。
去年まで初心者だった万里のほうが、浩子より上手かったとでもいうのか。浩子の演奏の、何が不満だったのだ。
気がつくと、オーディション結果の通知は終わり、合奏に移っていた。浩子は、強制的に図書室から出された。
扉の外で立ち止まり、唇を噛む。部員の中で、メンバーから外れたのは七人。そのうち六人は一年生の初心者で、経験者は、浩子だけである。
みじめだ、と浩子は思った。悔しさと恥ずかしさが、胸の内に渦巻いている。めちゃくちゃに暴れたい気持ちを必死に抑え、階段を駆け上がった。そのまま、音楽室準備室に逃げ込む。
合奏の音が、下の図書室から聞こえてくる。昨日まで、浩子もあそこにいたのに。今は、入りたくても入れない。
何故。
また、涙がこぼれていた。
選ばれるなら、心菜か万里のどちらか一人だけだと思っていた。県大会の時のトランペットは五人だったから、またそうだろう、と。それが、トランペットは六人になった。
みかは、少し練習不足が目立っていて、特に、正確なタンギングが必要な箇所で、音がもつれていた。東海大会を間近に控えて、それは許されない。だから、みかがメンバー外になるだろうということは、オーディションの時点で察していた。
万里は、文句の付け所の無い演奏をしていた。丘がどこを指定しても、きっちりと奏でてみせていた。個人練習の時間で、充分に仕上げてきたということだった。
万里の名前が呼ばれた時、心菜は、負けたのだと思った。けれど次の瞬間には、心菜の名前も呼ばれていた。
代わりにメンバー外となったのは、アルトサックスの浩子だった。想定していなかった状況だ。
「良かったね、心菜」
練習からの帰り道で、千奈が言った。
「万里先輩も選ばれたし」
「うん、そうだね」
「万里先輩、喜んでたね」
「うん」
「頑張ってたもんね、万里先輩」
「そうだね」
「竹本さんが落ちるとは、思ってなかったけど」
「……それは、私も」
「丘先生は、木管中心のサウンドにしようとしてたしな」
隣を歩いていた真二が言った。
「トランペットは五人のままだと思ってたぜ」
「だよね」
「でもまあ、実際のところ、今まで竹本の音程は悪かったしな」
それは、そうだった。
音程が悪いといっても、全く周りと合わせられないわけではない。そもそもそんなレベルなら、県大会の時にメンバーになれてはいなかっただろう。そうではなく、本当に些細な部分で、サックスのアンサンブルが乱れる時があったのだ。そして、その原因が浩子だった。
「案外、竹本さんが部員の陰口言いまくるから、罰として、とかだったりして」
「まさか、丘先生がそんなことしないでしょ、千奈」
「分かんないよ、丘先生が何考えてるかなんて。予想しないようなことする人だし」
「ま、あり得ないとは言い切れんわな」
「真二まで」
「良いじゃん。何にしたって、竹本がいないほうが気楽だよ」
真二は、花田南中吹奏楽部だった浩子と海を露骨に嫌っている。特に、陰口で部の雰囲気を悪くする浩子に対しては、嫌悪感を隠そうともしていない。
中学生の頃から、花田中央中と花田南中の仲は、険悪だった。町内の合同バンドでは、よく競い合っていたものだ。はじめの頃は、花田南中からの一方的なものだったのに、いつの間にか、互いに憎み合うようになっていた。
心菜も、あの二人のことは別に好きではないけれど、だからといって、浩子がメンバーから外れたことを嗤ったりはできない。もしかしたら、心菜があの立場になっていたかもしれないのだ。
経験者で、唯一のメンバー外。相当、悔しいだろう。図書室を出て行く時、浩子は泣いていた気がする。
「……憶測はやめよう」
心菜は言った。
「竹本さんはメンバーから外れた。それだけだよ」
「……まあな」
「東海大会はすぐだし、練習に集中しよう、落ちた子の分まで」
他人を嗤っている暇はない。まだ、曲は完成したとは言えないのだ。丘は、常に新しい要求を突き付けてくる。それに応えてみせなくては、きっと全国大会には届かない。
不意に、真二が小さく笑った。
「何、真二?」
「心菜が、そんなこと言うようになるなんてな。やる気ないって、ずっと言ってたやつが」
「それはっ」
「分かってるよ。良いことだ」
「私は信じてたよ? 心菜ならそのうちまた、やる気出してくれるって」
「千奈」
「頑張ろうね。東海大会突破を目指して」
微笑む千奈に、心菜も笑みを返した。
「……うん」
夜の蒸し暑さが、心菜の身体にまとわりついている。いつもなら不快に感じるその暑さも、今は気にならなかった。
あと、八日。東海大会まで残された日数だ。
そこで、全てが決まる。




