十一ノ三十三 「金川心菜 二」
クラッシュシンバルを両手に持って構え、メトロノームの振り子に合わせて、叩き合わせる。音を聴いて、正確に同じ音が鳴るよう、繰り返し叩いていく。音量は一定か。響きは同じか。テンポは揺れていないか。叩く。叩く。ひたすら、叩いていく。
一時間は、そうしていた。ずっと続けていると、腕が疲労してくる。一日練習の後にそれだから、余計に疲れを感じるが、それでも叩く。シンバルを思い通りに叩けるようになるには、とにかく触れ続けるしかない。きっと、そうしなければ、思い通りの音は出せるようにならないのだ。
また、叩いていく。何度も、何度も。
突然、大きな音がした。シンバルの音ではなくもっと、鈍い音だった。同期の北川海が、傍に立っていた。また、音がした。ホルンの海が、足で地面を踏みつけた音だった。
「ちょっと、大原君!」
「何」
「うるさいんだけど!」
「は?」
「ずっとシンバルばっかりジャンジャンジャンジャン……耳がどうかなりそう!」
眉を吊り上げた海が、睨みつけてくる。
「練習してるだけだろ」
「シンバルの音量考えてよ! うるさいってば! こっちの練習にならないじゃない!」
「ちょっと、北川さん」
隣でスネアドラムを叩いていた千奈が言った。
「練習しなきゃ上手くなれないんだから、叩くのは当たり前でしょ」
「シンバルはうるさいの! そんな金属音を何十分も聞かされたら、迷惑! 周り見てみなよ。皆図書室出ていったんだよ!?」
「四階で練習してるんでしょ」
「大原君のシンバルがうるさくて出ていったの!」
「しょうがないじゃん。じゃあ、叩かずに上手くなれとでも言うの?」
「限度があるでしょ! いくらなんでも叩きすぎ!」
二人の言い合いを聞きながら、だいごはため息をついた。
うるさい二人だ。
「喧嘩なら、外でやれよ」
思わず、言っていた。
「はあ?!」
海の顔が、どす黒く染まっていく。
「俺は集中したいんだ。ここでやるなよ」
「あのねえ、だいごのことで話してるんだけど?」
「俺は頼んでないぞ、千奈」
だいごの言葉を聞いた千奈は、呆れた表情を浮かべて、髪の毛をかきあげた。
「あっそ」
スティックを台に置き、千奈が歩きだす。
「北川さん、だいごに言っても無駄だよ」
こちらを振り向かず、千奈は図書室から出ていった。海の言う通り、図書室の中には、いつの間にかだいごと海だけになっている。
「信じられない。丸井さんはあなたをかばってくれたんだよ?」
「言ったろ。別に頼んでない。俺はシンバルの練習がしたいんだ」
「何で急にそんなシンバルばっか……周りに迷惑じゃない」
「迷惑? 下手な音を出して、全国大会に行けない方が、迷惑だろ。違うか?」
「それは」
「俺は最高の音を出したいんだ。分かったら、お前も出ていけよ」
また、海の顔が歪んだ。
「自分勝手な奴! 最低!」
海は、捨て台詞を残して、足音を立てながら図書室を出ていった。
ようやく集中出来る、とだいごは思った。まだまだ、叩き足りないのだ。最終下校時刻まではもう少しあるから、それまで、練習だ。
だいごは、再びクラッシュシンバルを両手に構えた。
東海大会に出るメンバーを決めるオーディションは、明日である。
心菜は、不安だった。次のオーディションでも自分がメンバーに選ばれるか、微妙なところなのだ。
練習で、手を抜いていたわけではない。ただ、メンバー外だった人達の猛練習が、ここにきて実を結びだしている。合奏に参加していなかった間、卒部生が生活の合間を縫って学校に来て、彼女達を指導していた。その影響もあるのだろう。
出場できるのは五十五人で、トランペットは、また五人の可能性が高い。逸乃、月音、コウキ、莉子はほぼ確定で、外れるとしたら、心菜である。
万里も、みかも、上達している。
みかは、初心者といっても、合唱経験のある子だ。ハーモニーを大切にする合唱で鍛えられたみかの耳は、ひょっとしたら心菜よりも良いかもしれない。トランペットのサードは、ハーモニーを担当することが多いから、みかの耳の良さを活かす場面は多い。
万里は、奏馬が集中的に指導していた。去年の学生指導者だった人で、その指導には定評があったらしい。時折ホルンを吹いている音を耳にしたけれど、相当な実力を持っているのが、ただのロングトーンからも感じられた。奏馬の指導もあってか、合奏に参加していないはずなのに、万里のコンクール曲の演奏は、心菜と遜色のないものになっている。
ファーストやセカンドが担当だったら、ここまで追いつかれはしなかっただろう。サードという番手だからこそ、万里にもみかにも、迫られている。心菜は、サードは苦手だった。
「心菜、顔が暗いよ?」
隣に座っていた莉子が言った。
「そう?」
「汚れが酷かったの?」
「そうじゃない」
二人で、総合学習室にいる。連日のハードな練習で煮詰まった気分を晴らすために、二人で楽器を掃除していた。ピストンやスライド管を外して、中を綺麗にするのだ。定期的にやることで、ゴミや古い油分を取り除き、トランペットの状態を良好に保つ。
掃除を怠ると、管内の空気の流れが悪くなって音の出が乱れたり、吹奏感が変わったりするから、重要な作業である。
「オーディションのこと?」
「……うん」
「また、手を抜こうかなって思ってるの?」
「ちっ、違うよ。もう、やらないもん」
万里は、そんなことをしても喜ばない。
「じゃあ何?」
「……万里先輩、プロの指導受け始めたじゃん」
「うん。逸乃先輩の師匠だよね」
「奏馬先輩の指導も受けてるし」
「上手いよねえ、奏馬先輩。かっこいいし。二股してるらしいよ」
どうでも良い情報だ。
「私、負けるのかなって。みかも、上手くなってきてるし」
花田高は、どうなっているのだろう。なぜ、始めて数ヶ月の初心者がここまで上達するのか。普通、ありえない話である。初心者は、一年程度は使い物にならないのが当然で、それまで、経験者でサウンドを作るのがスクールバンドではないのか。
「やってみなきゃ分かんないよ」
「そうだけど。莉子は良いよね、絶対落ちることないもん」
「分かんないじゃん」
「分かるよ。そもそも、セカンドはコウキ先輩と莉子じゃん。万里先輩もみかも、サードだし」
「ああ、それもそっか」
スライド管に唇を近づけ、ふ、と莉子が息を吹き込んだ。管から、水滴が抜けて布に落ちていく。管を布で拭い、スライド用のオイルを塗って、トランペットの本体に差し込む。一つひとつの動作がゆっくりで、扱いが丁寧なところが、几帳面な性格の莉子らしい。
「莉子はさあ、中学でもオーディションあったんだよね」
「うん」
「どういう気持ちで挑んでたの?」
「オーディションにってこと?」
「そう」
「どういう、かあ」
心菜も、スライド管にオイルを塗り、本体にはめ込んだ。オイルのおかげで、するすると入っていく。何度か出し入れをして、オイルを管に馴染ませる。
「私、海原中ではずっとサードだったからさ」
「言ってたね」
「要するに、下手だったんだよね」
「はあ、冗談でしょ? 莉子が下手なら、私なんて存在価値ないじゃん」
「あ、ごめんごめん。そういう意味じゃないんだけど」
肩をすくめ、莉子の話を促す。
「自分より上手い人しか居ない環境だとさ、もう、考えるだけ無駄だったんだよね。どうせ負けるとか、どうせレギュラーから落ちるとかって、端から諦めムードっていうか。だから、あんまりオーディションで気負ったことないかな」
「諦めムード、ねえ」
それで、二年生の時以外はレギュラーだったというのだから、恐ろしい子だ。
「心菜は、二人に追いかけられてると思うから焦るんじゃない?」
「私が、焦る?」
「違うの? 焦ってるように感じたけど」
「そう、なのかな」
もし、万里かみかにメンバーの座を奪われてしまったら。それを思うと、胸がざわつく。負けたくない気持ちは、強い。
心菜は、万里とみかよりも、トランペットの経験は長いのだ。二人に負けたら、自分の今までは何だったのか、ということになる。
この気持ちが、焦っているということなのだろか。
掃除を終えたトランペットは、ピストンもスライドも、軽快な動きを返してきた。ボディは汚れも落ちて、輝いている。
オーディションは、明日だ。




