十一ノ三十二 「恋」
学校に登校してくるのは、久しぶりだった。絵はどこでも描けるから、夏休みの間、美術部員はわざわざ学校に描きに来たりはしないのだ。
誠も、家の中で描いたり、外に模写や資料集めに出たり、やりたいことをしながら過ごしていた。
学校は、あまり好きではない。誠の絵を笑う人は居なくなったとはいえ、特段楽しいこともないし、来なくて良いなら、来たくない場所である。登校日などというものは、無くなってしまえば良いのに。
憂鬱な気持ちを胸の中で愚痴りながら、教室に入ると、先に来ていたクラスメイト達の会話が聞こえてきた。
「おーっす」
「お前焼けたなあ」
「夏休みどっか行ったー?」
「行くわけないし~」
「俺、ひたすら寝てたわ」
「俺ゲーム二本クリアしたぜ」
他愛も無い会話を聞き流しながら、自分の席に腰を下ろす。誠には、挨拶や会話をするような相手はいない。昔から、そうだった。幼稚園の頃から、人と上手く接することが出来ず、友達は少なかった。小学生になってもそのままで、周りに馴染めず、教室でじっと机を眺めてばかりだった。
そのうち、暇を持て余して、ノートに絵を描きだした。それから、いつも絵を描いていた。風景を描くのも、人物を描くのも好きだった。自分の手で、現実世界が絵になっていく。想像の世界を描くことも出来る。絵だけが、誠を嫌なことから忘れさせてくれた。
隣の席の椅子が引かれ、音を立てる。鞄が机の上に置かれて、音を立てた。誠は、ちらりと横を見た。
「おはよ、山田」
智美だった。
「……おはよう」
「久しぶり」
椅子に座りながら、智美が言った。
「うん」
「元気してた?」
「……まあ」
「相変わらず肌白いね。外出たの?」
「時々は」
智美が、いた。教室で、唯一誠に話しかけてくれる人。
「あれ、髪切った?」
「あ、うん」
「へえ。良いじゃん、さっぱりしたね」
誠は微笑みかけられて、思わず顔を逸らしてしまった。
一学期に、友達になろうと智美から言われた。そんな風に人から言われたのは初めてで、上手く答えられなかったが、悪い気はしなかった。他人と、初めてメールアドレスを交換した。智美からは、時折メールが届く。まだ、誠から返したことはない。
「夏休み全然見かけなかったけど、部活は?」
「なかった……今日は、あるけど」
「そうなんだ。私ら今図書室使ってるんだよ。良いでしょ」
「なんで図書室?」
「冷房があるから。特例で使わせてもらってるんだよ」
吹奏楽部が花田高の中で特別視されているのは、教師達や学校に流れる雰囲気からも感じていた。羨ましい話だ。美術部は、日陰の存在である。別にそれで困ったことはないが、教師が生徒を上下に分けているようで、良い気持ちはしない。
誠は返事をせず、机を眺めつづけた。
登校日の日程が終わって、誠は美術室で絵を描いていた。といっても、あまり進んではいない。窓を開けっぱなしにしても暑さが逃げないせいで、だらけてしまうのだ。
一学期の終わりに、今日は部活動の日だと聞いていたのに、部員は誰も来ていない。もう解散してから一時間は経っているのに来ないということは、全員忘れて帰ったか、サボったのだろう。
別に人がいなければ出来ない部活動ではないから、静かなのは絵を描くのに好都合かもしれないが、何となく、良い気はしない。文化祭の展示なども、そろそろ詰めていかなければならないのに、のんびりしていて良いのだろうか。誠は自分の分は家で進めているが、他の部員はきちんとやっているのか、疑問だ。
急に、大音量の蝉の鳴き声が聞こえてきた。校舎の外壁にでも止まったのか、やかましさが、余計に暑さを感じさせる。目を向けると、窓の向こうに、大きな入道雲が浮かんでいるのが見えた。
修は、手に持っていた鉛筆を机に置いて、息を吐き出した。喉の渇きを感じて、足元の鞄を探り、水筒を取り出す。
「あ……」
中は、空だった。茶が飲みたい。自販機に、ペットボトル茶が売っていたはずだ、と誠は思った。
鞄から財布を取り出し、中を見る。硬貨が数百円分と、千円札が一枚。今月は画材を買いすぎたから、来月の小遣いを貰うまで、これだけで乗り越えなければならないことを思いだし、また息を吐き出した。
茶に百円近く出すのは、勿体ない。結局、自販機の横にあるウォーターサーバーで済ませることに決め、美術室を出た。
東階段を下りる途中、三階の廊下で、吹奏楽部の合奏の音が聞こえてきた。智美は、図書室で練習していると言っていた。閉め切っているから、美術室まで聞こえなかったのだろう。
再び階段を下り、中央の渡り廊下のウォーターサーバーまで向かう。到着して、足元のペダルを踏むと、飲み口から細く水が噴き出した。口を近づけて、水を飲み込んでいく。よく冷やされた水が、喉を通って、身体の中を冷やしていく。
「はあ」
口元を拭い、顔を上げる。渡り廊下の一階はコンクリートの打ちっぱなしになっていて、窓はいつも全て開けられている。中庭に続く部分は扉もないため、ほぼ外のようなものだ。
窓から吹き込んでくる風が、気持ちいい。これで蝉の大合唱がなければ、もう少し涼しさも感じられるものだが、今はうるさすぎてたまらない。
「あれ、山田じゃん」
びくりとして、声のした方を見た。
「中村さん」
「やっほー。部活してたの?」
手を振りながら、智美が近づいてくる。
「う、うん。中村さんこそ、さっき図書室で吹いてなかった?」
「聞こえた?」
「階段下りる時に」
「なる。ちょうど今休憩になったの。水が切れたから、買いに来たんだ」
智美はそう言って、自販機に硬貨を投入した。水のボタンを押すと、音を立てて、ペットボトルが落ちてくる。
「冷えてる~」
取り出し口から出したペットボトルのキャップを開け、一口呷る。満足そうに息を吐き出す智美を横目で見ると、首に黒いストラップを着けていることに気がついた。吹奏楽部員で、たまに見かけるものだ。全員が着けているわけではないから、一部の楽器で使うのだろうか。
「ん、何?」
「あ、別に」
「何、気になるじゃん」
「いや……その……首のそれ、何かなって」
「これ?」
ストラップに触れて、見せてくる。
「そう」
「サックスに着ける道具だよ。手だけで構えると安定しないし疲れるから、ストラップで支えるの。音にも結構影響するし」
「へえ……」
「吹奏楽、興味あるの?」
「いや、そういう訳じゃないけど」
「うちら、東海大会まで進んでるんだよ」
智美が言った。
「メールで聞いた」
「そうだっけ。二十六日にあるんだ」
「結構、すぐだね」
「でしょ。浜松市って知ってる? 静岡県の。そこでやるんだ」
誠は、愛知県から出たことはない。徳川家康が城を構えていたのが、浜松市だった気はする。浜名湖という湖もあったはずだ。知っているのはそれくらいである。
「全国大会に行くにはさ、東海大会も抜けなきゃいけなくて」
「うん」
「オーディション、またあるんだよね」
「オーディション?」
「そう。部員全員では出られないからさ、メンバーを決めるテストがあるんだ。県大会の時もやったんだけどね」
「中村さんは……県大会には、出たの?」
「出たよ。でも、次は分かんないなあ」
ペットボトルの水を、智美がまた飲んだ。白く細い喉が、小さく動く。
「出られると、良いね」
誠が言うと、智美は笑って頷いた。
「戻らなきゃ」
「頑張って」
「次会えるのは、始業式かな」
「そうだね」
「じゃあ、またね、山田」
「うん」
智美がこちらに背を向け、歩きだす。その後ろ姿は、背筋がすっと伸びていて、自信に満ちた歩き方だ。何となく、目を惹きつけられた。
「あ」
智美が、振り向いた。スカートが、ふわりと広がる。
「山田、暇だったらコンクール観に来てよ」
「え」
「二十六日。チケット、要るなら用意するから!」
「で、でも」
「来てくれたら、良い演奏出来るかも」
腰の辺りで後ろ手を組んで、智美が照れた笑顔を見せた。
眩しい、笑顔だった。
今までにない感情が、誠の胸の中で弾けて生まれた。
大変長らくお待たせいたしました。
本日から、スローペースですが更新を再開していきます。
また、楽しみに読んでいただければと思います!




