十一ノ三十 「雑貨屋の地下 二」
上にあった扉は、隠し扉といっても簡素な木の扉だったのに、階段を下りたところにある扉は、そうではなかった。重そうな、金属製の扉だ。縁周りの細かな装飾が目をひく。
先頭の元子が、扉をゆっくりと押した。鈍い音を立てながら、開いていく。同時に、中から明かりが漏れてきた。その眩しさに、万里はちょっと目を細めた。
「さあ、入って」
完全に開ききった扉の脇に立って、元子が言った。
コウキが入り、万里も後に続く。
中は、随分と広い部屋だった。二十畳ほどはあるだろう。天井にいくつもついている灯りは、橙色の優しい光を放って、部屋を照らしている。四方の壁は全て天井までの棚になっていて、よく分からない物が沢山並び、部屋の中央には、長い一枚板のテーブルがある。
そして、そこの椅子に、男性が座っていた。
「お父さん、連れてきたよ」
「元子」
男性が立ち上がった。随分と背が高い人である。二メートルは超えているかもしれない。
この人が、元子の父親か。確かに、顔つきはどこか似ている気もする。
「三木君と、貴方が橋本さんだね」
「は、はい」
「三木君は、久しぶりと言ったほうが良いね」
「お久しぶりです。その節は、お世話になりました」
「あれから、良い人生を歩んでいるか?」
「はい」
「即答だな」
「少なくとも、後悔しない生き方をしよう、とはいつも思っています」
「そうか」
満足そうに頷いて、元子の父親はまた椅子に座った。万里達も、促されて腰を下ろす。
「さて、改めて、私は元子の父だ。元子から、二人のことについてはある程度聞いているが、私自身でも聞きたくて、今日は足を運んでもらった」
元子の父親の話し方は、どこかゆったりとしていた。低く、よく通る声をしている。座っていても見上げるほど大きくて、けれど、威圧感のようなものは全く感じない人だ。
「橋本さんは、見えないものが見えるらしいね」
「あ、はい、みたい……です」
「小さい頃から見えていたと聞いたが」
「えと、今思うと、という程度ですけど……」
「構わんよ」
「小学生の頃に、周りの人には見えない友達がいました。みいちゃんって言うんですけど、一緒に遊んでるはずなのに、他の子は気がついていない、っていう感じで」
「その友達とは、どこで会っていた?」
「家の近所の神社です」
「こないだの祭りの神社だよ、お父さん」
「うむ。他の場所では?」
「ないです。いつも、神社で別れてました」
「神社の外に出ているところは、見たことがない?」
「ありません」
「……なるほどな」
元子の父親が言った。ひげのない顎に手で触れて、撫でまわす。それから、口を開いた。
「神社を護る精霊か、座敷童子の類だったのかもしれんな。夏祭りで、門を通ってあちら側は見ただろう?」
万里は頷いた。
「あの神社は、ズレたモノにとっての特別な場所なのだ。こちら側にも、住み着くモノがいてもおかしくはない」
「だとしたら……それが、私だけに見えていたのは」
「気に入られていたのかもしれない」
確かにみいちゃんは、万里だけが見ていてくれれば良い、とよく言っていた。万里が見ていてくれれば、他の子とも遊べる、とも言っていた気がする。
「なら……なんで、見えなくなっちゃったんだろう」
思わず、呟いていた。
あの頃の万里にとって、みいちゃんは大切な友達だった。神社でしか会えない子だったけれど、いつも頭の中にはみいちゃんのことがあった。みいちゃんと一緒にいる時が、幸せだった。
会えなくなってからは、学校終わりに何日も探し回った。周りの友達にも、地域の他の子にも聞きこんだりもした。けれど、どれだけ探しても何の手がかりも見つけられず、一年、二年と時が経つにつれて、万里も、段々とみいちゃんのことを忘れていった。
「他に、今までの人生で変わったものを見た覚えはないかね」
「……ありません」
「そうか。まあ、それ程力は強くないのだろうな。この世界には、見えないものが見える体質持ちの人間は、橋本さん以外にもいてね」
「え、そうなんですか?」
元子の父親が頷いた。
「中には、本当に見えてはいけないモノまで見えてしまう、強い力の人もいる。そういう人達は、力を抑えるために、さまざま工夫をしている。それが可能なくらい、この体質についてはきちんと解明されているから、安心しなさい」
万里だけでは、ないのか。
「で、問題は三木君というわけだな」
「そうだよ、お父さん。コウキ君と一緒にいると、万里ちゃんは力が強くなる」
「門が見えたというのだから、そうなのだろうな」
「よほど力がないと無理なはず。でしょ?」
「ああ」
「あの、良いですか」
遠慮がちに、コウキが言った。
「どうぞ、コウキ君」
「本当に、俺のギャップを引き寄せる体質が橋本さんに影響したなら、何故あの時だけだったんでしょうか。今までだって一緒にいたことはあったのに」
「そこだ」
元子の父親が、人差し指を立てた。
「おそらく、三木君の体質が他人に影響を及ぼすには、何かしらの条件があるのだろう」
「条件」
「例えば、相手との距離の近さとか、精神状態の同期、影響を与えようという意思が発生したら、などだな。確か、三木君は過去にも他の人に影響を及ぼしたことがあったな」
「智美ちゃんの件だね」
「でも、元子さん、あれは、俺はそばにいなかったけど」
「物理的な距離は条件ではないのだろう。精神状態の同期や、影響を与えようという意思の発生も、違うだろう。となると、三木君と対象者との精神的な距離、か」
「精神的な距離?」
「親密度、と言っても良いかもしれない。以前店に来たあの子、智美さんと言ったか。彼女と君の関係性も、濃いものだったのだろう?」
「そう、ですね」
「そして、橋本さんとは、デートをするくらいの関係性になった」
デートという言葉に、万里の心臓が跳ねた。はっきりと言葉にされると、意識してしまう。
コウキも、少しだけ頬を赤くしていた。
「デッ……まあ、確かに、遊ぶのは初めてでしたけど」
「三木君と相手の精神的な距離が近くなると、影響を与えることになる。そう考えるのが、妥当な気はする」
「コウキ君、万里ちゃんと祭りに行った時、気持ちが近づいた気はした?」
元子に聞かれて、コウキが唸る。
「あの時は……トランペットパートの将来の話とか、橋本さんの小さい頃の話とか、いつもより深い話はした、よね」
万里は、小さく頷いた。
「それで?」
「まあ、確かに、橋本さんのことを知れてよかった、とは思った」
「親密になれたわけだね」
「ならば、やはり可能性はあるな」
元子の父親が言って、元子が頷いた。
「でも、じゃあ俺が仲良くなればなるほど、色んな人をギャップに関することに巻き込んでしまうってことですか?」
「そうとも限らない。親や、他の友人とは、そういうことは起きていないのだろう?」
「はい」
「精神的な距離が近くなったからといって、必ず発生するわけでもないのだろう。もしかしたら、他にも何か条件があるのかもしれん」
「だとしても、橋本さんは今後、俺といると力が強まる可能性があるんですよね?」
「それは、ある。しかも、物理的な距離は関係ないのだとしたら、三木君がそばに居ない時でも、影響が続く可能性はある」
「じゃあ、さっき仰ってたように、本当に見えてはいけないモノが見えるようになってしまう可能性だって」
「無いとは言えない」
「なら、どうすれば?」
コウキの問いかけに、元子の父親が腕を組む。
万里は、自分の話をされているのに、どこか他人事のように感じていた。見えてはいけないモノと言われてもピンとこないし、そもそも、自分がギャップであるという自覚もない。
「……橋本さん」
元子の父親に名前を呼ばれて、反射的に背筋を伸ばしていた。
「はい」
「君自身は、その体質についてどう考えている? 今後、どうしていきたい?」
「どう、と言われても」
急に言われても、万里は答えられなかった。今まで、こういう世界と無縁だったのだ。どうしたいかなど、考えもしなかった。
「まあ、こんなことを聞くのには理由がある。先ほども言ったように、見えないモノが見える体質については、ほとんど解明されているのだ。だから、君がその気なら、力を抑えて、見えないようにすることも可能だ」
そう言って、元子の父親は、テーブルの下から小さな木箱を取り出した。
開けてみろ、と仕草で示され、木箱を手に取る。開けると、中には、小さなケースが入っていた。
「それは、見えてはいけないモノが見えなくなるコンタクトレンズだ。橋本さんと同じ体質を持つ人達の要望で開発されたもので、着けている間は、目の力を抑えることが出来る」
ケースを手に取り、眺める。普通のコンタクトレンズのケースと、違うようには見えない。
それほど、特別なものなのだろうか、と万里は思った。
「使うも使わないも自由だが、それを着けていれば、例え三木君の影響を受けて力が強まったとしても、抑え込めるだろう。君よりずっと力の強い人達が、抑えられているのだからね。それは、君に贈ろう」
話が急すぎて、まだ頭が追いついていない。ただ、これは貰っておいたほうが良いのだろう。
夏祭りの日以来、万里が何か見えるようになっていないかとか、危ないことはなかったかとか、コウキは何度も万里に声をかけてきていた。きっと、心配してくれていたのだ。
万里自身は、元々変なモノが見えている自覚など無かったのだから、体質のことを知らされてからも、あまり気にしていなかった。けれど、万里がそうして普通にしていても、コウキは心配をする。
なら、これを着ければ、少なくともコウキは安心してくれるのではないか。
「コウキ君は、私にこれを使って欲しい?」
「え」
コウキが、ちょっと驚いたような顔をした。
「着けてたら、安心する?」
「……それは、勿論。俺のせいで、橋本さんに危ない目に遭ってほしくないし」
「じゃあ、使う」
即答していた。
「いや、良いの、そんな風に簡単に決めちゃって?」
万里は、頷いた。
「私は、体質とか、そういうのはまだ良く分からないし……コウキ君も、元子ちゃんのお父さんも、これを着けた方が良いと思ってるんでしょ。なら、使うよ。二人の方が、ずっとこういうことには詳しいんだろうし」
「そうだな。私も着けておくほうが良いとは思う。特に副作用があるわけでもないからな」
元子の父親が言った。
「そういうことだから、使うよ。コウキ君」
視線が交わる。無言で、数秒見つめ合った後、コウキは微笑んで頷いた。
「分かった」
「これからは、万里ちゃんのことも観察していくから、何か変化を感じたら私も動くよ」
「元子ちゃん」
「元々仕事があったんだし、もう一人増えるくらい、別に構わないから」
「ありがとう」
「気にしなくていいよ、万里ちゃん。仕事だもの」
何でもないことのように、元子が言った。それから、目の前の湯呑みを手に取って、茶をすする。
万里も、出されていたことを思いだして、茶をすすった。苦味とうま味が、舌の上を流れていく。ぬるくなってしまったけれど、美味しい茶だ。
体質のことも、ギャップのことも、まだ、分からないことだらけである。しかし、コウキと元子がそばにいて見守ってくれているなら、万里自身は、特に気にしなくても良いだろう。
考えたところで、万里には分かりようもない世界だし、困ったら、二人を頼れば良い。
「ところで、この部屋はどういう部屋なんですか? この棚に飾ってある道具とかって、上の雑貨屋で売るものにも見えないし、もしかして全部」
部屋を見回しながら、コウキが言った。
「うちの店の商品だ」
「やっぱり。なら、ここは」
「商品の保管場所だ」
「保管場所?」
「そう。うちの店は小さいからな。商品は次から次に入荷するが、店に入りきらないのだ。それで、ここで預かってもらっている」
「なんで、わざわざ離れたここで?」
「ここの扉も、店と繋がっているんだよ、コウキ君」
元子が言った。
「あ、なるほどな。なら、上にいた女性も、ギャップに関わる仕事を?」
「いや、彼女は普通の人だよ」
茶をすすって一息ついていた元子の父親が言った。
「まあ、昔ちょっとした縁があって、彼女とは交流があってね。ギャップについても、知っているんだが、彼女がこの建物を雑貨屋にするために買い取った時に、この部屋を私達に使わせてくれることになったのだ。商品の保管場所として使うのと、今回のように、店に招けない客と会う時に使うためにね」
「へえ」
「ちなみに美月さんは、うちの部の卒部生だよ」
「えっ!?」
万里とコウキの声が、揃った。
「マジで、元子さん?」
「ええ。全国大会に行った黄金世代だったはず」
「てことは、丘先生とも知り合い?」
「でしょうね」
「うわぁ、当時の話とかめっちゃ聞きたいな」
「後で紹介するよ」
「ほんと!? やった! 貴重だよ、黄金世代の話って。どんな練習してたかとか、全国大会の様子とか、色々聞けるもん」
「それは、別に丘先生に聞けば良いんじゃないの?」
「いや、色んな人から聞く方が、より当時のことが鮮明になるじゃん、人の記憶って曖昧だし。もし間違って覚えてることを聞いちゃったら、事実からどんどんずれていくだろ」
「それは、確かに」
「丘先生が覚えてないことも、知ってるかもしれないし」
「私も気になってきたな。今から聞きに行く?」
元子が言った。
「でも、仕事されてるんじゃないか?」
元子が、腕につけていた時計に目を落とす。
「もうすぐ閉店時間だし、大丈夫だと思う。行こうよ」
「ああ、なら。橋本さんも行こうよ。時間、大丈夫?」
「あ、うん!」
三人で、立ち上がる。
「じゃあお父さん。美月さんと話したら帰るから」
「ああ、分かった。三木君、橋本さん。また何か困ったことなどがあったら、いつでも言いなさい。会う時は、ここでになるだろう」
「ありがとうございました」
「自分の体質と付き合うのは、簡単ではない。ズレたモノに関する相談にのることも、私の仕事の一つだから、遠慮なく頼ってくれ」
コウキと目を合わせ、それから、一緒に頭を下げた。
優しい人なのだ、と万里は思った。
元子も、初めの頃はどう接していいのか分からないような、冷たい雰囲気を感じていた。けれど、一緒に部で活動していくうちに、冷たいのではなく、淡泊なだけなのだ、と分かった。淡泊だけれど、きちんと部のことも、仲間のことも考えている。そういう子だ。
元子の父親も、きっと、そういう人なのだろう。




