三ノ四 「なんで私だけ苗字呼び?」
四月はめまぐるしい速度で過ぎ、明日はゴールデンウィークという日になっていた。
修学旅行も、二週間後に迫っている。
新学期特有の慌ただしさは落ち着きを見せていたが、コウキ自身は修学旅行に関係した相談を何人もの同級生から持ち掛けられるようになりだしていて、その対応で休む暇もない。
初めの頃から相談されていた奈々と亜衣については、無事に健と拓也をダブルデートに誘ったらしい。それは、拓也から相談されて知った。
亜衣と健の仲を取り持つかについては、健の人格次第だという気持ちがあった。それで、健とは久しぶりにゆっくりと話をした。
成長した健は、クラスのムードメーカーといった感じの明るい子になっている。健と同じクラスである拓也と里保にも聞いてみたが、小学生の頃と違って、いじめに加担することも無くなっていたし、誰とでも会話する姿をよく目にするという話だ。
健や奈々に限らず、やはり六年四組だった子はそれぞれ大きく変わったように思う。いじめっ子であった健ですら変わった。それは、六年四組の皆が少しずつ互いに良い変化を与えあったからだろう。
人は他者との関わり方次第で良い方向にも悪い方向にも変わる。特にこども時代はそれが顕著だ。
健との久しぶりの会話は、それを改めて実感する出来事だった。安心して、亜衣の応援もできる。
これで修学旅行は問題なし、と言いたいところだが、問題は班員の亮と直哉だった。
二人も、奈々と亜衣とダブルデートをしたいから協力してくれ、とコウキに頼んできていた。すでに直接誘ってもいるようだが、奈々と亜衣にその気はない。それで、コウキに何とかしてほしいという相談だ。
コウキとしては、先に相談された以上、亜衣と奈々を支援するのが筋だが、友達である亮と直哉も応援したい気持ちがある。
だが、どちらにも良い顔をすることは出来ない。状況が状況だけに不可能だ。
悩んだ末に、智美に相談することにした。
班員であるし、一緒に奈々と亜衣の相談も受けていたので、話がしやすいと思った。
授業後、教室にはまだ何人かクラスメイトが残っていたので、場所を変え中庭に来ている。中庭なら外で人通りも多く騒がしいので、他人に話を聞かれる心配もない。
「どっちも応援したいなら、どっちにも手を貸さないほうがいいんじゃないかな」
一通りコウキの話を聞いた智美が、空を見上げながら言った。ベンチの背にもたれるようにして、空を仰いでいる。
「奈々と亜衣も自分達でダブルデートの話を進めようとしてるし、亮と直哉もそうでしょ? だったら、三木君や私が、特別何かをする必要はないんじゃない。話を聞いてあげるくらいなら出来るけど、最終的にどうするかはあの子達次第でしょ」
智美はいつもぼんやりとしている。呆けているわけではないのだが、どこか遠くを見ていて、そのせいか表情が読めない。皆の輪に積極的に入って騒ぐこともない、静かな子という印象だ。
まだ仲が良かった小学五年生までは、活発な女の子だった気がする。年月が、智美を変えたのだろうか。
智美の視線につられて、コウキも空に目を向けた。
薄く雲が広がっていて、青空がきれいだ。
空を眺めることなど、しばらく無かった気がする。春の空は、陽気と軽やかさを感じさせる。爽やかな色合いが、暖かい日差しと相まって心を和ませる。
「手伝ってどっちかに恨まれるくらいなら、どっちも手伝わないほうが良いと思う」
智美の言う通りだろう。相談を受けたら応えねばという気持ちから、思考が固くなっていたかもしれない。
どちらかの協力をすれば、もう片方の想いは遂げられない。誰もが良い想いを出来る状況には、今回はならない。ならば、どちらにも手を貸さず、成り行きを見守るのが最善だ。
どういう結果になるかは、本人達の努力次第なのだから、全員が平等だ。
「中村さんの言う通りだ。なんかすっきりしたよ」
智美は何も言わず、目線を地面に落とした。
最初は智美に相談を持ち掛けるのは気まずいと思ったが、自分から踏み出さなくては、いつまでも智美とは距離を感じたままだろうとも思った。
それで今回の事を口実に頼ってみたが、案外智美は嫌がる素振りも見せず、真剣に相談に乗ってくれた。
思えば、誰かに相談事をしたのはこれが初めてだ。
周りの子とは、実際の歳が離れすぎている。こどもに相談したところで、という気持ちが大きかったのだ。それで今までは、自分なりに考えて物事を解決してきた。
だが、智美と話したのは正解だったと思う。自分ひとりではこの答えにたどり着けたかどうか、分からない。
こどもだからと言って、周りの子を少し下にみる嫌な癖がついていたのかもしれない。
むしろコウキよりも柔軟な発想をする子もいる。
自分は年上だから、という気もあった。
そういう思考は、邪魔だ。捨てたほうが良い。
「そんな感じで行ってみる。助かった。ありがとな、中村さん」
言って、立ち去ろうとした。
「いつも気になってたんだけど」
智美が声をかけてくる。足を止め、振り返った。
視線が交わる。まっすぐに、こちらを見ている。
「なんで私だけ苗字呼びなの? クラスの中で、私だけだよね」
はっとした。
言われてみれば、そうだった。基本的に、こちらに好意を示してきたり、その可能性のありそうな子は苗字で呼んだりもするが、そうでなければ全員名前で呼ぶようにしている。
クラスの中で、無意識に智美だけを名字で呼んでいた。
智美が、じっと見つめてくる。
適当なことは言えない、とコウキは思った。ここで何を言うかで、今後も大きく変わる気がする。
「……ごめん。正直言うと、里保さんのことがあってから、中村さんにはずっと嫌われてると思って、遠慮してたんだと思う」
思った事を、正直に言った。
智美の表情が、一瞬変わった。だが、次の瞬間には俯いて、前髪で顔が隠れてしまった。
何も言ってこない。
「小五までは中村さんとも仲良かった気がするんだけど……一度嫌われたと思ったら、うまく接したりできなくなった」
そこまで言ったところで、智美がすっと立ち上がった。風が吹き、制服のスカートや髪がひらひらと靡いた。前髪の隙間から覗く目。視線はコウキに向けられていた。
「分かった」
聞こえるか聞こえないかくらいの音量。それだけを呟いて、智美は歩き出した。その後ろ姿は、すぐに人だかりに紛れ見えなくなった。
怒ったのだろうか。
何となく、そんな感じの表情ではなかったように思うが、はっきりとは分からない。
智美は、表情が読みにくい。今まで接してきた子達は、皆感情も読み取りやすかったし、接しやすい子ばかりだった。だが、智美だけはいまだにはっきりと掴めない。
大人びている、とはちょっと違うように思う。無表情とも、違う。
智美とは、この一年で、仲直りすることが出来るのだろうか。どう接していくのが正解なのか。
「三木くーん!」
頭上から声が降りかかってくる。見上げると、陽の光が目に飛び込んできて、慌てて手で庇を作った。
音楽室の窓から、萌と洋子が手を振っている。あの二人が一緒にいるのは、最近よく見かける。
洋子は、吹奏楽部に入部して打楽器パートに配属された。楽器など今まで一度も触った事がないそうだが、慣れないながらも、毎日楽しそうにしている。
萌とは、パートは違うがいつの間にか仲良くなったらしい。萌の親しみやすさのおかげかもしれない。
以前よりも、洋子は人と話せるようになっている。部内でも、早速友達も出来ているようだ。
小学校で、コウキの後ろをついて回っていた頃が懐かしくなる。
「部活始まるよー!」
萌が声をかけてくる。返事をして、歩き出した。
最近、いろんな子の相談に乗る回数が多くなった事で遅刻が増え、部長の陽介から睨まれている。
今日こそは間に合わせなくては、陽介にどやされるだろう。
一週間近くが経った。
ゴールデンウィークは、ひたすら部活動に費やした。夏のコンクールはあっという間にやってくるから、休んでいる暇はない。
早い学校では、新年度が始まる前の二月や三月からコンクール用の課題曲と自由曲に取り掛かるところもあるくらいで、東中のように新入生が入ってきてから始めるのは結構遅いほうなのだ。
それだけに、無駄に時間は過ごせない。ゴールデンウィークのようなまとまった練習時間は、貴重である。
ゴールデンウィークはただ練習していただけではなく、フレッシュコンクールと言って、地区の中学校高校の吹奏楽部が集まって、その年の課題曲のみを審査する大会もあった。優秀な審査員から音楽指導も受けられる貴重な機会で、東中は大会で良い成績を取るよりも、音楽指導を受ける事が目的で毎年参加している。
まとまった練習を挟んだことで、新入生の技術力も一段上がったように思う。
学校が再開されて、昼放課のこと。
教室の外の廊下で、協力を頼まれていた亮と直哉に対して、応援をするに留めると伝えた。
「そんなこと言わないで頼むよコウキ!」
「一生に一度だぞ!? 原宿一緒に回りてぇんだよ~!」
「そうは言ってもな」
三日目の原宿での自由行動時間で、二人は奈々と亜衣と行動したがっている。
先ほどから何度説得しても、引き下がってくれない。それだけ修学旅行でのダブルデートにかける意気込みが強いのだろうが、どう断れば諦めてくれるのかと困り果てていた。
「話を聞いたりアドバイスくらいはできるけど、手は貸せないぞ」
「何でだよ!」
「それはなあ」
奈々と亜衣は、拓也と健とダブルデートをしようとしているからだ。二人が、はっきりとそのことを亮と直哉に告げてしまえば話は早いのだが、言いづらいらしく、まだ知らない。
それについて、コウキから明かすのも違う気がして、曖昧な態度しか取れずにいる。
二人に協力を諦めてもらう方法を考え込んでいると、教室から智美が姿を現した。ばったりと目が合う。
中庭で相談をしてから、すぐにゴールデンウィークに突入したので、顔を合わすのは約一週間ぶりだった。
「どうしたの?」
そばに寄ってくる。すかさず亮と直哉が、智美にすがりつくように訴えた。
「コウキが俺たちの頼みを聞いてくれないんだよ!」
「中村からも言ってよ! 俺らどうしても二人と回りたいんだ!」
智美も亮と直哉の話は聞いていて、事情は知っている。
二人に懇願され、智美はため息をついた。
「あんた達と奈々達がどうなるのかなんて、知らないよ。自分で頑張りなって。男の子でしょ?」
じろりと睨まれて、二人がたじろいだ。
「好きな子に振り向いてほしいなら、自分から行動しないと。人に頼ってたって、上手くいかないよ」
智美の言う事は尤もだ。
すっかりしゅんとなった二人は、まるで教師に怒られる生徒のように、身を縮めている。
「それに、三日目の原宿は、コウキは私と回るから」
「はっ!?」
「え、そうなの?」
亮が、問うような目を向けてくる。
全くの初耳である。そんな話は、これまで一度もしていない。
聞いていない、と言おうとしたところで、きっと智美に睨まれた。慌てて、口をつぐむ。
黙っていろ、と智美の目が言っている。
「四人からは離れてあげるから、本当にダブルデートしたいなら、自分達で何とかしなよ」
「え、あ、うん……」
亮と直哉はまだ事情が呑み込めていないといった様子で、頷きながらも首を傾げている。
そのまま智美はコウキの腕を引っ張って、歩き出してしまった。
有無を言わさない力強さで腕を握られているので、仕方なく後をついていく。
階段の一番上、屋上へ出るための踊り場にやってきたところで、智美の手が離れた。
階段を上り下りする生徒はそれなりにいるが、大体三年生の教室へ向かうので、行き止まりのここに上ってくる生徒はまずいない。
二人きりの空間で、困惑しながら智美を見る。階段の下から、誰も来ないことを確認しようと頭を傾けた拍子に、髪の毛がさらりと揺れている。
「さっきのあれ、どういうことなんだ?」
問いかけると、智美はまっすぐこちらを見返してきて言った。
「亮達も奈々達も、三日目の原宿でダブルデートを狙ってるでしょ。だったら最初から私達が抜けるって言っておけば、あとはそれぞれが勝手に進めるじゃん。そしたら奈々達にも協力をやめること、言いやすいでしょ」
「あぁ、なるほど……」
それなら双方に言い訳も立つ。
「でも、他の子に勘違いされるかもよ?」
原宿で二人で回るところを他の生徒が見たらどう思うか。考えればすぐわかる。
茶化してくる者や噂を広める者が出てくるだろう。
「どうせ皆竹下通りに行くよ。別の場所で過ごせば良いじゃん」
「まあ、確かに」
別に竹下通り以外に行ってはいけないという決まりではない。それなのに、修学旅行生は、大抵竹下通りへ向かう。
智美はくるりと振り返って、屋上へ続く扉のドアノブに手を触れた。そのままがちゃがちゃとひねる。しかし、鍵がかかっていて扉は開かない。生徒が勝手に出られないように、扉は常に施錠されているらしい。
扉につけられた小窓から、屋上の薄汚れた床が見える。
「私も相談ばっかりされて面倒だったから、ちょうど良いでしょ?」
智美は目を外の屋上に向けたまま、静かに言った。背中を向けられていて、その表情は見えない。
「うん、構わないけど」
「奈々達には、適当に二人で行きたいお店があるからって私から言っとくから」
「分かった」
それで、話は終わった。沈黙が流れる。
亮と直哉は断れたとしても、奈々達にはどう言おうか考えていたところだったから、ありがたい。
どちらかに協力することを選ぶと、どちらかを見捨てることになる。そうするくらいなら、両方見守るだけにする。そう決めたのだから、智美の提案は断る理由がない。もともと原宿は個人行動するつもりでいたので、それが智美と二人になるだけだ。
何なら、智美が一人で行動したがったら、四人と別れた後、別行動をすれば良い。
そこで、ふと先ほどの亮と直哉との会話の中に、違和感があったことに気がついた。正確には、智美も含めた四人での会話の中でだ。
何かがいつもと違った。
何がそう感じさせたのか、会話の内容を振り返る。
「あ」
思わず、声が出た。
智美が振り返って、首を傾げてくる。
「さっき、俺のこと名前で呼ばなかった?」
「ああ……うん。言ったよ、コウキって」
「え、でも、今までは苗字で……」
「ゴールデンウィーク前にコウキが言ったんだよ。私に遠慮してるって。だから私から呼ぶことにした」
一歩、近づいてくる。澄んだ瞳にまっすぐ見据えられ、息を呑んだ。
「これなら、私のことも名前で呼べるでしょ」
視線が突き刺さる。
間近で智美の顔を見るのは、初めてだ。恐ろしくなめらかな肌をしている。運動部らしい艶やかな色をした肌だ。思春期特有のニキビや染みも一切ない。さらさらとした髪も、発色の良い桃色の唇も、黒目がちではっきりとした目も、すべてが目の前にある。思わず、目を逸らそうとしてしまった。
だが、智美に顔を掴まれて、無理やり視線を戻されてしまい、また目が合った。
慣れない状況に、心臓が早鐘を打つように動きはじめる。
「これからは、私のことも名前で呼んで」
「わ、分かった、分かったから」
慌てて智美の手を引きはがして、そばから離れる。
顔が熱い。
女の子とここまで顔を近づけたことはなかった。洋子となら何度もあるが、洋子の時はこんなに緊張したりはしなかった。
「今呼んでよ」
智美がまた近寄ろうとしてきたので、手で制す。
「わかった! 智美さん!」
「さんは要らない」
どうしたのだろう。今日の智美は、いつもの淡泊な感じと全く様子が違う。
強引というか、有無を言わさないというか、逆らえない雰囲気だ。怖いとは違うのだが、威圧するような気配が漂っている。
「とも、み……」
仕方なく呼んでみて、急に気恥ずかしさが襲ってきた。
考えてみたら、女の子を名前で呼ぶのは当たり前だったが、呼び捨てにするのは初めてだった。
名前を呼ばれて、ようやく智美が満足そうに微笑む。思わず見惚れるような、可愛らしい表情だ、とコウキは思った。
「これからは遠慮しないで。私、もうコウキのこと許してるから」
そう言って、智美は一足先に階段を下りていった。
踊り場から、智美の後ろ姿を見送る。髪や制服のスカートをひらひらと揺らしながら、軽やかな足取りで廊下の角を曲がっていった。
許してるから。
智美の言葉が、胸に染みこんでくる。
智美だけは、まだコウキが里保をいじめた過去を、許してくれていないのだと思っていた。だから、避けられているのだろう、と。
それだけに、衝撃が大きかった。
いつから、許してくれていたのだろう。
五時限目を告げるチャイムが鳴り響いているのも耳に入らず、コウキはその場で立ち尽くしていた。




