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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校二年生・コンクール編
249/444

十一ノ二十六 「コウキと華」

 身体が震えた。唐突だった。

 不安や恐怖のようなものが自分の中で暴れまわり、抑えられなくなったのだ。

 華は我慢しきれずに席を立ち、音楽室を飛び出した。


 トイレの個室に駆け込み、胃の内容物を便器の中へ吐き出す。水音を立てながら沈んでいくその臭いが、余計に吐き気をもたらした。胃から逆流する感覚が、不快だ。二度、三度と物を吐き出していく。

 昼に食べた弁当の中身は、全て出し尽くしてしまった。


 水を流し、個室から出る。まだ、少し不快感がある。

 洗面所で丁寧に口をすすぎ、ハンカチで拭う。顔を上げると、鏡に自分の姿が映り込んでいた。最近、食事の量が減ったせいなのか、随分とやつれてしまっている。


「はあ……」


 ため息をつき、頭を振った。

 今のままで、東中は東海大会へ行けるのかという不安が、どうしようもないほどに膨れ上がっている。


 地区大会での東中の順位は、二位だった。しかし、強豪である海原中がシード権を得て不参加という状況での、二位だ。もし参加していたら、東中はきっと三位となり、県大会へは進めていなかっただろう。


 各地区大会の一位やシード校が集うのが、県大会である。その中で、たった五校だけが、東海大会へ行ける。地区大会で二位だった東中には、厳しい大会となることは間違いない。

 

 練習で手を抜いたりはしていない。出来るだけのことはしているし、確実に東中の演奏は良くなっている。それでも、充分なのかは分からないのだ。


 不安は、考えれば考えるほど、際限なく強くなっていく。そして、華の内側で暴れまわり、身体を食い破ろうとする。負けないように気を張っていても、抗えない程の力で、襲い掛かってくる。


 特に、一人でいる時に強くなった。かといって、誰かといたいわけでもない。だから夜が苦痛で、昨日も、浅い眠りを繰り返しただけで、まともに寝ていない。


「華ちゃん」


 はっとして、トイレの入り口に目を向けた。洋子が心配そうな表情で、華を見ていた。


「大丈夫?」

「ごめん、急に飛び出して。大丈夫だよ。お昼、食べ過ぎたみたい」


 言いながら、トイレを出る。

 洋子の手には、華の水筒が握られていた。


「お茶、要るかと思って」

「ありがと、助かる」


 受け取って、一息に呷った。

 

「体調、悪いの?」

「そんなことないよ。大丈夫、大丈夫」


 洋子にも、自分の心の内を話してはいなかった。

 誰にも言うことは、出来ない。これは、華自身の責任なのだ。


「合奏は、少し休んでから参加したら?」

「ううん、やるよ。もうすぐソロの箇所だし」


 明日が県大会である。もう、残された時間は数時間しかないのだから、一秒も無駄にはできない。


「でも」

「ありがとう、洋子ちゃん。大丈夫だから」


 はっきりと言葉にすると、それ以上、洋子は何も言ってこなかった。

 一緒に音楽室へ戻ると、部員と山田の視線が、一斉に向いてきた。


「中村、体調が悪いのか」

「いえ、もう大丈夫です」

「そうか、無理するなよ。明日が本番だからな」

「無理はしていません。平気ですよ」


 言って、笑顔を見せる。その笑顔一つで、部員は安堵する。

 不安や恐怖を、部員に見せるわけにはいかない。部員は、華を信じてついてきているのだ。


 山田が頷いて、部員への指示を再開した。

 トランペットパートの自分の席へ戻り、楽器を手に取る。腰を下ろすと、隣の席に座っていた真紀が、気遣うように腕に触れてきた。


「平気」


 小さく言って、前を向く。

 真紀は、ずっと同じトランペットとして演奏してきた子だ。誰よりも、隣で吹く時間が長かった。互いの癖も、考え方も、知っている。華が真紀の変化に気づきやすいように、真紀も華の変化に気づいているのかもしれない。

 それでも何も言わないでいてくれるのは、真紀の優しさだろう。




















 洋子から、華の様子がおかしいというメールが届いていた。気がついたのが部活動の終了後だったから、慌てて洋子に電話をかけた。 


 練習中に、華が吐き出したのだという。本人は平気だと言い張ったが、どう考えても普通ではなかった、と洋子は言った。

 その話を、智美にした。


「そういえば、ここ一週間くらいはあんまり会話してないや」


 目の前の机で音を立てていたメトロノームを止めて、智美が言った。


「何で?」

「さあ。練習したいからって、ずっと部屋にこもってるんだもん。寝る時以外はあんま部屋に来ないでって言われてたから、気を遣って居間で過ごしてた。てっきり、集中したいんだと思ってたけど」


 華は強い子だが、それが本来の姿というわけではない。強靭な精神力をもって周りにそう見せているだけで、本当は、繊細な性格をしている。

 嘔吐したのが、もし単なる体調不良ではないとしたら、部長としての責任にストレスを感じているのかもしれない。


「東中は、明日が県大会だよな」

「そうだね。順番はかなり遅めって言ってた」

「華ちゃんと、話してみるか」

「今から?」

「ああ。俺と話してどうなるわけでもないけど、心配だし」

「そっか。なら、私も練習切り上げよっか」


 家の中で智美を遠ざけていたのなら、話す場所にいてほしくないだろう。家族にも、言えないのかもしれない。


「いや、俺一人で行くよ。智美は、練習したいだろ。先に帰る」

「そう?」

「まあ、俺も話してもらえるかは分からないけどな。じゃあ、また明日」

「分かった。お疲れ」


 智美と別れ、トランペットを片付ける。そのまま学校を出て、華の家へ向かった。学校を出たところで事前にメールは入れて、行くことは伝えてある。

 

 東中が県大会へ進めたのは、まぎれもなく華の成果だ。華が先頭に立ち続けたから、部員も引っ張られて高みへ上った。その実績があるからこそ、部員が寄せる信頼や期待は、相当なものになっているだろう。

 華は、それを真剣に受け止めて、皆をさらなる高みへ連れていこうと、懸命になっている。

 

 ただ懸命になるだけなら、良い。それは自分にとって、進歩の原動力になるからだ。だが、やらねばならない、というような義務的な想いに変質してしまうと、害でしかなくなる。

 恐らく、今はそうなのだろう。


 自転車が、風を切っていく。田園地帯を飛ばして、いつもなら三十分近くかかる距離を、ニ十分程で走り切った。

 華の家に到着し、自転車から降りた。弾んだ息を整え、玄関の呼び鈴を鳴らす。


「はい」

「三木です」

「コウキ先輩。今行きます」


 華だった。

 少しして、玄関が開く。


「こんばんは、コウキ先輩」

「こんばんは、華ちゃん」


 中から出てきた華は、一目見て分かるほど、やつれていた。

 

「痩せたな」

「ですよね。私も今日鏡見て、思いました」

「とりあえず、どこか公園にでも行く?」


 家では、話しづらいだろう。


「そうですね」


 自転車を華の家に置かせてもらって、二人で近所の小さな公園へ向かった。暗くなる前の時間帯だから、人影は全くない。

 ベンチの一つに、並んで腰かける。


「飯、ちゃんと食べてる?」

「んー、あんまり食欲無いんですよね」


 華が言った。


「何にも食べられないの?」

「そんなことないですよ。ご飯とお味噌汁とおかずと、全部少しずつは食べてます」

「それにしたって、痩せ方がな。今日も、吐いたって聞いたけど」

「そうなんです。無理にお昼ご飯食べ過ぎたかなぁ」

「夜ご飯は、食べられた?」

「今日はスープだけにしておきました。明日が心配だし」

「スープだけ?」


 まるで病人のような食事だ、とコウキは思った。

 確かに、コンクール前日に重たい食事をして、当日の体調に影響が出ては困る。だから、多少軽めにするのはおかしくないが、さすがにスープだけというのは、心配になる。


 それに、華の雰囲気がいつもと違うことも、コウキは気がついていた。どう見ても、精神的に参っている様子だ。これで問題にならないわけがない。きっと、部ではこの姿を見せまいと、必死になっているのだろう。


「華ちゃん、ストレスがかなり身体に来てるだろ」


 直球で言おう、とコウキは思った。


「精神的に、追い詰められてるよな?」

「……何ですか、急に。そんなことないですよ?」

「そうやって平気なふりをして、一人で背負って、やつれて、吐いて。急激な心身の変化は、音にも影響するぞ。抱え込むことは、華ちゃんにとって本当に最善の手なのか?」


 華が、目を逸らした。


「やれることをやる、出来るだけのことをする。それが俺達奏者の仕事だ。だけど、抱え込んだ結果、自分の演奏の質が落ちているんなら、それは仕事の放棄と一緒じゃないか?」

「私は、落としてるつもりはありません」

「なら、周りには目を向けてるか? 華ちゃんの周りで、華ちゃんの体調を心配してる子達がいるだろ」

「それは」

「その子達は、華ちゃんの心配をしながら演奏することになるんだ。頭のどこかで別のことを考えながら演奏してたら、全力とは言えないよな」


 華が息を呑んだ雰囲気が、伝わってきた。


「自分のせいで周りに迷惑をかけるのは、まずいだろ。部活は、合奏は、自分ひとりの問題じゃない。そのことは、よく考えた方が良い」


 厳しい言葉かもしれないが、華には、はっきりと言っても良いはずだ。そうした言葉も受け止められるだけの度量を、華は持っている。

 

「気を悪くしたならごめんな。でも、華ちゃんは部長であり、生徒合奏を見る係であり、トランペットのトップとして、バンドをけん引する存在でもある。華ちゃん自身が、自分はそういう人間であろうとしているように見えるから、誰かは言わなきゃならないことだと思ってる」

「……分かります」

「責任のある立場だ。その立場に苦しむのは、無理もない。だけど、自信を持て。華ちゃんは、きちんとリーダーとしてやるべきことをやれている。不安も恐怖もあって当然だけど、それを受け止めて、今の自分を認めるんだ」

「今の、自分を」

「うん。一人で抱え込まなくて良い。周りを頼れ。そのための、仲間だろ?」


 仲間。華が、小さく呟いた。


「仮に東海大会に進めなくても、それは、誰かの責任じゃない。目標は全国大会だからこそ、そこに到達できなかったら、自分達のひと夏は何だったんだ、って思うかもしれない。でも、そうじゃないだろ。皆で目標に向かって一つになって、大きい舞台で最高の演奏をする。その過程を、楽しめよ」


 県大会の前日だ。もう、やれることは大してない。あとは、心の持ちようだけである。華が、不安や恐怖を受け入れて、自然体でいられるか。それにかかっているだろう。


 どんなに自信のある姿を見せたところで、今の華を見て、それが虚勢だと気づく子は一定数いる。

 虚勢を張るのではなく、あるがままの自分を見せる。それで良いはずだ。そうすれば、部員もついてくる。

 一つ一つの舞台を、結果に縛られず、楽しむ。それが音楽だ。

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