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青春ユニゾン  作者: せんこう
高校二年生・コンクール編
248/444

十一ノ二十五 「本当の自分」

 しゃり、しゃり、という音が、病室に響いている。

 妻が、りんごの皮を剥いているのだ。途切れることなく動かされるナイフによって、皮が一繋がりに垂れていく。

 小さなナイフで、器用に剥くものだ。鬼頭は、料理などしたこともない。ずっと妻に任せきりで、包丁を持った記憶すらも、遥か昔のことである。

 剥き終えたりんごを、妻は器用に手の上で切って、等分にしていった。


「出来ましたよ」


 鬼頭は、差し出された皿からりんごを手に取り、一口食べた。あふれ出る水気が、乾いた舌を潤す。

 季節外れのりんごだが、悪くない味だ。


 県大会の日に自宅で倒れてから、二日、入院していた。

 あの日は、朝になって、急に心臓に違和感を覚えた。そこで意識がはっきりしなくなり、気がついた時には、このベッドに寝かされていた。


 県大会はどうなったのか。それが、最初に思ったことだ。

 妻から、副顧問の斎藤が代わりに指揮として出たと聞いた。結果も、代表選考会へ進んだということだった。

 こういうことがあるかもしれないと思って、斎藤に指揮の準備をさせておいて良かった。

 当日いきなりの合わせだったから、部員は困惑しただろうが、それでも対応できるだけの力は、身に着けさせていた。

 

 倒れた原因は、指揮で激しく動きすぎるせいだ、と医者から言われた。これからも無理を続けるなら命に関わる、とも脅された。

 昔は、一日中立って指揮をし続けても平気だった。大学生の頃は、徹夜で二日に渡って指揮し続けたこともあった。


 今では座って指揮をしていても、胸が苦しくなる時がある。

 自分の身体が、自分のものでないような感覚。こう動かしたいという想いと、こう動かそうというイメージはあるのに、身体がついてこない。

 これが、老いというものか。


 退院は明日ということになっているが、本当は、今すぐにでも退院してしまいたい。

 生徒達が不安を感じているはずだ。姿を、見せてやりたい。


 病室の扉を開ける音がして、鬼頭はそちらに目をやった。

 副顧問の斎藤と、部長の修斗、それと副部長の恵奈だった。


「鬼頭先生、奥様、おはようございます」

「おはよう」

「体調はいかがですか」

「変わらんよ。今すぐにでも退院したいくらいだ」

「あなた、そんな無茶、よしてください」


 妻が言った。


「言っただけだ」

「はは……練習は、今日も、指揮のタイミング合わせを重点的にやりました。速度の変化や指揮の動きを覚えてもらおうと」

「それで良いよ、斎藤先生。表現の面でやらねばならないことは、全て指摘してある。変にいじるよりも、そのままにしておいた方が良い」

「分かりました」

「部員の様子は、どうだ」

「平気、とは言えません。不安のせいか、どの子も黙りがちです」

「励ましてはいますが、皆、鬼頭先生のことで頭がいっぱいなんです。演奏も、上の空で」


 修斗が言った。


「私達にとっては、鬼頭先生が支えなんです」

「恵奈」

「私と修斗は、鬼頭先生の体調について知っていたから、心構えは出来ていました。でも、部員は急に倒れたと知らされて、動揺してるんです」


 余計な心配をさせて、練習の質を落とさせたくはなかったから、鬼頭が黙っていたのだ。

 体調について知っていたのは、顧問やコーチ陣だけで、生徒では修斗と恵奈と、偶然聞いたという陽介だけだった。


「それについては、私の落ち度だ。申し訳なく思う。思っていた以上に、自分の身体は駄目になっていたらしい」

「そんなこと……」

「代表選考会も……私は指揮出来ないだろう」


 修斗と恵奈が、腰を浮かせた。驚きで、目を見開いている。


「明日退院して、すぐに指揮を再開というわけにはいかないのだ。これからも指揮を続けるためには、今は休むしかない。斎藤先生に、引き続き代振りをしてもらう」


 厳しい判断だが、そうせざるを得ない。


「修斗、恵奈。私を、東海大会に連れていけ」

「っ」


 二人が、息を呑んだのが分かった。


「斎藤先生と団結して、部を引っ張りなさい。必ず、東海大会に行くんだ。そうしたら、東海大会では私が指揮をする。これは、コンクールチームだけの問題ではない。部全体の問題だ。メンバーでもメンバーでなくても、一つになって前を向け。良いな?」

「……はい」

「斎藤先生、頼んだよ」

「やってみます」

「明日、退院したら私も顔は見せる。しかし、練習に付きっきりになることはできないだろう。せっかくの機会だ。本番で、私を驚かせるような演奏を聴かせてくれ」


 鬼頭の言葉に、ベッドの横に座る三人は、ぎこちなく頷いた。





 









 洋子が、にやけている。どうせ、コウキに関して良いことでもあったのだろう。

 弁当を食べる手は止まっていて、何かを思い出しているのか、独り言のようにぶつぶつと呟いたかと思えば、はっとして頭を振り、しばらくして、また、にやけている。

 

「洋子ちゃん、顔がとろけてるよ」

「え、えへへ」

「箸、止まってる」

「うん」


 返事はしたくせに、箸が動かない。

 放っておこう、と華は思った。

 合奏にまで持ち込んではいないから、問題はない。


 県大会出場は、部員全員が初めての経験である。それを目前にしてイライラせず、穏やかにしていられるのは良いことだろう。

 大体の部員は、不安や緊張、焦りといったものを感じているようで、普段は大人しい子が貧乏ゆすりをしていたり、気の強い子同士で、演奏についてきつい口調で言い合ったりしている。その様子を見て、イライラを募らせる子もいた。


 出したい感情は、大会の前に出しきってしまったほうが良い。不安や焦りは感じて当然なのだ。

 無理に抑えて、本番で調子が出なくなることの方が、困る。


 顧問の山田にとっても、県大会出場は初めてのことだ。だから、演奏の完成度に自信が持てないらしい。

 大会が近くなるにつれて、口調がいつもより厳しいものになりだしていた。


 そんな状況の中でにやけていられる洋子は、案外、図太い神経をしているのかもしれない。

 思い返してみれば、これまでの数々の本番の中で、洋子が緊張や不安で駄目になる姿を見たことは、ほとんど無かった。

 楽しそうに演奏する子。それが、洋子の印象だ。不安や緊張で駄目になる人間もいるのだから、それは、奏者として優れた資質だろう。

 

「おーい、華」


 クラリネットのかなが、教室に顔を覗かせていた。


「どうしたの?」

「山田先生が呼んでこいって」

「私だけ?」

「うん」

「分かった」


 弁当は、まだ食べかけだ。蓋をして、箸を置く。


「洋子ちゃん、ちょっと行ってくる」

「はーい」


 生返事だ。

 本当に放置していて良いのだろうか、という不安が、ちらりと頭をよぎる。

 ため息をつき、席を立つ。歩き出し、かなの横に並んだ。


「洋子ちゃん、どったの」

「さあ。お昼休憩になってからずっとあの調子」

「演奏はまともだったよね」

「うん。だから、まあ放置してるけど」

「ふーん」

「ところで、先生、何の用って?」

「さあ。音楽室に顔を見せて、華を呼べって言われただけ」

「そう」


 山田は、音楽教諭室にいるだろう。かなと二人で実習棟の四階に上がり、そこで別れた。

 音楽教諭室の前に行き、扉を叩く。


「中村です」

「おう、入りなさい」

「失礼します」


 中へ入り、扉を閉める。


「何かご用ですか、山田先生」

「まあ座りなさい」

「失礼します」


 向かい合うように座ると、山田は身体ごとこちらを向いた。


「県大会は、明後日だな」

「はい」


 息を吐き、山田は天井を仰いだ。


「どうされましたか」

「……中村は、今のままで、県大会を超えられると思うか?」

「それは、どういう意味でしょう」

「私達の演奏に、県代表になるだけのものが、あるだろうか」

「それは……私には分かりません」

「私も、分からん」

「……先生も、不安ですか?」

「そうだな。初めてのことだからな」

「皆も、不安だと思います。でも、当たり前だと思います」

「そういう中村は、あまり不安そうに見えないな」

「私は、常に出来るだけのことはしていますから。それで超えられないなら仕方ない、とも思ってます」

「そうか」


 頷いて、山田は机に置いていたコップを手に取り、中の水を飲み干した。

 何か本題がある、というわけでもないのだろうか。空になったコップを見つめながら、沈黙している。

 話相手が、欲しかっただけなのだろうか、と華は思った。


「……去年、お前が全国大会を目指すと言った時、私は耳を疑ったよ」


 山田が言った。


「私は音楽教師をしてはいるが、元々吹奏楽は専門外だった人間だ。今でも、大した知識があるわけではない。そんな私が、指揮も指導もする。それで、全国大会に届くわけがない、と思った。何を言っているんだ、中村は、と思ったよ」

「先生」

「しかし、説得されてしまったな」


 山田は机の上に山積みになっていた本の一つを手に取って、ぱらぱらとめくりだした。

 指揮法大全、と書かれている。他の本も、指揮や指導、吹奏楽に関する本ばかりだ。

 去年の終わりごろまでは、そんな本は山田の机の上に、一冊も無かった。部が新体制になってから、山田の机の上には本の山が増えだしていた。


「私も、やれるだけのことはやってきたと思う」

「はい」

「東海大会に行けたら、お前達は喜ぶのだろうな」

「そりゃあ」

「その顔を、見てみたいな」

「私もです」

「……中村」

「はい」

「今日の練習の後は、ミーティングをやる」

「分かりました」

「不安や焦りで、演奏が乱れることはあってはならない。部員の気を引き締めるんだ」

「考えておきます」


 頷いて、山田は、もういい、と言った。

 頭を下げ、華は立ち上がった。扉の前へ行き、礼をする。そして、音楽教諭室を出た。


 山田は、部の頂点に立つ人間だ。その不安を、軽々しく誰かに話せるものではない。だから、華と話したかったのかもしれない。

 大した受け答えは出来なかったけれど、役には立ったのだろうか。

 

 教室に戻ると、洋子は、まだにやけていた。


「あ、華ちゃん、おかえりぃ」

「……ふふ、洋子ちゃん見てると、癒されるな」

「え、なんで?」

「別にー」


 洋子の頬を、人差し指でつつく。


「な、何、やめてよぉ」

「幸せそうな顔してるから、つつきたくなった」

「何それ!」


 困り顔を浮かべる洋子を見て、華は笑った。


 





 今日まで、華は、誰にも不安を見せてはいなかった。

 華が全国大会を目指すと言い出したのだ。最初に言った人間が、自信のない様子を見せるわけにはいかなかった。

 必ず東海大会も行ける、そう確信している、という姿を、周りに見せ続けなくてはならなかった。

 その姿を見ているから、部員達は、華を信じてついてきてくれた。


 けれど、本当の華は強がっているだけで、一人の時には、吐きそうになるほどの不安や焦燥感に襲われていた。

 もし、東海大会で終わってしまったら。もし、県大会で終わってしまったら。もし、地区大会で終わってしまったら。

 ずっと、嫌な想像ばかりが頭を占めていた。それを振り払うために、練習に打ち込んだ。誰よりも吹き、誰よりも曲に向き合った。

 そうしていなければ、おかしくなりそうだったのだ。


 生活の全てが部活動に費やされるような、厳しい練習日程を立て、部員を追い立て続けた。それなのに、もし全国大会へ行けなかったら。

 華が皆を巻き込んだのに、そんな結果にするわけには、いかなかった。


 ここ最近は、嫌な夢ばかりを見るのだ。昨日も、まともに寝ていない。

 そうでなくても、嫌な想像のせいで、落ち着いて眠るどころではなかった。


 県大会は、明後日だ。

 そこを、越えなければ。必ず、東海大会へ行かなければ。そうでなくては、部長として、皆を巻きこんだ人間として、許されないのだ。

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