十一ノ二十五 「本当の自分」
しゃり、しゃり、という音が、病室に響いている。
妻が、りんごの皮を剥いているのだ。途切れることなく動かされるナイフによって、皮が一繋がりに垂れていく。
小さなナイフで、器用に剥くものだ。鬼頭は、料理などしたこともない。ずっと妻に任せきりで、包丁を持った記憶すらも、遥か昔のことである。
剥き終えたりんごを、妻は器用に手の上で切って、等分にしていった。
「出来ましたよ」
鬼頭は、差し出された皿からりんごを手に取り、一口食べた。あふれ出る水気が、乾いた舌を潤す。
季節外れのりんごだが、悪くない味だ。
県大会の日に自宅で倒れてから、二日、入院していた。
あの日は、朝になって、急に心臓に違和感を覚えた。そこで意識がはっきりしなくなり、気がついた時には、このベッドに寝かされていた。
県大会はどうなったのか。それが、最初に思ったことだ。
妻から、副顧問の斎藤が代わりに指揮として出たと聞いた。結果も、代表選考会へ進んだということだった。
こういうことがあるかもしれないと思って、斎藤に指揮の準備をさせておいて良かった。
当日いきなりの合わせだったから、部員は困惑しただろうが、それでも対応できるだけの力は、身に着けさせていた。
倒れた原因は、指揮で激しく動きすぎるせいだ、と医者から言われた。これからも無理を続けるなら命に関わる、とも脅された。
昔は、一日中立って指揮をし続けても平気だった。大学生の頃は、徹夜で二日に渡って指揮し続けたこともあった。
今では座って指揮をしていても、胸が苦しくなる時がある。
自分の身体が、自分のものでないような感覚。こう動かしたいという想いと、こう動かそうというイメージはあるのに、身体がついてこない。
これが、老いというものか。
退院は明日ということになっているが、本当は、今すぐにでも退院してしまいたい。
生徒達が不安を感じているはずだ。姿を、見せてやりたい。
病室の扉を開ける音がして、鬼頭はそちらに目をやった。
副顧問の斎藤と、部長の修斗、それと副部長の恵奈だった。
「鬼頭先生、奥様、おはようございます」
「おはよう」
「体調はいかがですか」
「変わらんよ。今すぐにでも退院したいくらいだ」
「あなた、そんな無茶、よしてください」
妻が言った。
「言っただけだ」
「はは……練習は、今日も、指揮のタイミング合わせを重点的にやりました。速度の変化や指揮の動きを覚えてもらおうと」
「それで良いよ、斎藤先生。表現の面でやらねばならないことは、全て指摘してある。変にいじるよりも、そのままにしておいた方が良い」
「分かりました」
「部員の様子は、どうだ」
「平気、とは言えません。不安のせいか、どの子も黙りがちです」
「励ましてはいますが、皆、鬼頭先生のことで頭がいっぱいなんです。演奏も、上の空で」
修斗が言った。
「私達にとっては、鬼頭先生が支えなんです」
「恵奈」
「私と修斗は、鬼頭先生の体調について知っていたから、心構えは出来ていました。でも、部員は急に倒れたと知らされて、動揺してるんです」
余計な心配をさせて、練習の質を落とさせたくはなかったから、鬼頭が黙っていたのだ。
体調について知っていたのは、顧問やコーチ陣だけで、生徒では修斗と恵奈と、偶然聞いたという陽介だけだった。
「それについては、私の落ち度だ。申し訳なく思う。思っていた以上に、自分の身体は駄目になっていたらしい」
「そんなこと……」
「代表選考会も……私は指揮出来ないだろう」
修斗と恵奈が、腰を浮かせた。驚きで、目を見開いている。
「明日退院して、すぐに指揮を再開というわけにはいかないのだ。これからも指揮を続けるためには、今は休むしかない。斎藤先生に、引き続き代振りをしてもらう」
厳しい判断だが、そうせざるを得ない。
「修斗、恵奈。私を、東海大会に連れていけ」
「っ」
二人が、息を呑んだのが分かった。
「斎藤先生と団結して、部を引っ張りなさい。必ず、東海大会に行くんだ。そうしたら、東海大会では私が指揮をする。これは、コンクールチームだけの問題ではない。部全体の問題だ。メンバーでもメンバーでなくても、一つになって前を向け。良いな?」
「……はい」
「斎藤先生、頼んだよ」
「やってみます」
「明日、退院したら私も顔は見せる。しかし、練習に付きっきりになることはできないだろう。せっかくの機会だ。本番で、私を驚かせるような演奏を聴かせてくれ」
鬼頭の言葉に、ベッドの横に座る三人は、ぎこちなく頷いた。
洋子が、にやけている。どうせ、コウキに関して良いことでもあったのだろう。
弁当を食べる手は止まっていて、何かを思い出しているのか、独り言のようにぶつぶつと呟いたかと思えば、はっとして頭を振り、しばらくして、また、にやけている。
「洋子ちゃん、顔がとろけてるよ」
「え、えへへ」
「箸、止まってる」
「うん」
返事はしたくせに、箸が動かない。
放っておこう、と華は思った。
合奏にまで持ち込んではいないから、問題はない。
県大会出場は、部員全員が初めての経験である。それを目前にしてイライラせず、穏やかにしていられるのは良いことだろう。
大体の部員は、不安や緊張、焦りといったものを感じているようで、普段は大人しい子が貧乏ゆすりをしていたり、気の強い子同士で、演奏についてきつい口調で言い合ったりしている。その様子を見て、イライラを募らせる子もいた。
出したい感情は、大会の前に出しきってしまったほうが良い。不安や焦りは感じて当然なのだ。
無理に抑えて、本番で調子が出なくなることの方が、困る。
顧問の山田にとっても、県大会出場は初めてのことだ。だから、演奏の完成度に自信が持てないらしい。
大会が近くなるにつれて、口調がいつもより厳しいものになりだしていた。
そんな状況の中でにやけていられる洋子は、案外、図太い神経をしているのかもしれない。
思い返してみれば、これまでの数々の本番の中で、洋子が緊張や不安で駄目になる姿を見たことは、ほとんど無かった。
楽しそうに演奏する子。それが、洋子の印象だ。不安や緊張で駄目になる人間もいるのだから、それは、奏者として優れた資質だろう。
「おーい、華」
クラリネットのかなが、教室に顔を覗かせていた。
「どうしたの?」
「山田先生が呼んでこいって」
「私だけ?」
「うん」
「分かった」
弁当は、まだ食べかけだ。蓋をして、箸を置く。
「洋子ちゃん、ちょっと行ってくる」
「はーい」
生返事だ。
本当に放置していて良いのだろうか、という不安が、ちらりと頭をよぎる。
ため息をつき、席を立つ。歩き出し、かなの横に並んだ。
「洋子ちゃん、どったの」
「さあ。お昼休憩になってからずっとあの調子」
「演奏はまともだったよね」
「うん。だから、まあ放置してるけど」
「ふーん」
「ところで、先生、何の用って?」
「さあ。音楽室に顔を見せて、華を呼べって言われただけ」
「そう」
山田は、音楽教諭室にいるだろう。かなと二人で実習棟の四階に上がり、そこで別れた。
音楽教諭室の前に行き、扉を叩く。
「中村です」
「おう、入りなさい」
「失礼します」
中へ入り、扉を閉める。
「何かご用ですか、山田先生」
「まあ座りなさい」
「失礼します」
向かい合うように座ると、山田は身体ごとこちらを向いた。
「県大会は、明後日だな」
「はい」
息を吐き、山田は天井を仰いだ。
「どうされましたか」
「……中村は、今のままで、県大会を超えられると思うか?」
「それは、どういう意味でしょう」
「私達の演奏に、県代表になるだけのものが、あるだろうか」
「それは……私には分かりません」
「私も、分からん」
「……先生も、不安ですか?」
「そうだな。初めてのことだからな」
「皆も、不安だと思います。でも、当たり前だと思います」
「そういう中村は、あまり不安そうに見えないな」
「私は、常に出来るだけのことはしていますから。それで超えられないなら仕方ない、とも思ってます」
「そうか」
頷いて、山田は机に置いていたコップを手に取り、中の水を飲み干した。
何か本題がある、というわけでもないのだろうか。空になったコップを見つめながら、沈黙している。
話相手が、欲しかっただけなのだろうか、と華は思った。
「……去年、お前が全国大会を目指すと言った時、私は耳を疑ったよ」
山田が言った。
「私は音楽教師をしてはいるが、元々吹奏楽は専門外だった人間だ。今でも、大した知識があるわけではない。そんな私が、指揮も指導もする。それで、全国大会に届くわけがない、と思った。何を言っているんだ、中村は、と思ったよ」
「先生」
「しかし、説得されてしまったな」
山田は机の上に山積みになっていた本の一つを手に取って、ぱらぱらとめくりだした。
指揮法大全、と書かれている。他の本も、指揮や指導、吹奏楽に関する本ばかりだ。
去年の終わりごろまでは、そんな本は山田の机の上に、一冊も無かった。部が新体制になってから、山田の机の上には本の山が増えだしていた。
「私も、やれるだけのことはやってきたと思う」
「はい」
「東海大会に行けたら、お前達は喜ぶのだろうな」
「そりゃあ」
「その顔を、見てみたいな」
「私もです」
「……中村」
「はい」
「今日の練習の後は、ミーティングをやる」
「分かりました」
「不安や焦りで、演奏が乱れることはあってはならない。部員の気を引き締めるんだ」
「考えておきます」
頷いて、山田は、もういい、と言った。
頭を下げ、華は立ち上がった。扉の前へ行き、礼をする。そして、音楽教諭室を出た。
山田は、部の頂点に立つ人間だ。その不安を、軽々しく誰かに話せるものではない。だから、華と話したかったのかもしれない。
大した受け答えは出来なかったけれど、役には立ったのだろうか。
教室に戻ると、洋子は、まだにやけていた。
「あ、華ちゃん、おかえりぃ」
「……ふふ、洋子ちゃん見てると、癒されるな」
「え、なんで?」
「別にー」
洋子の頬を、人差し指でつつく。
「な、何、やめてよぉ」
「幸せそうな顔してるから、つつきたくなった」
「何それ!」
困り顔を浮かべる洋子を見て、華は笑った。
今日まで、華は、誰にも不安を見せてはいなかった。
華が全国大会を目指すと言い出したのだ。最初に言った人間が、自信のない様子を見せるわけにはいかなかった。
必ず東海大会も行ける、そう確信している、という姿を、周りに見せ続けなくてはならなかった。
その姿を見ているから、部員達は、華を信じてついてきてくれた。
けれど、本当の華は強がっているだけで、一人の時には、吐きそうになるほどの不安や焦燥感に襲われていた。
もし、東海大会で終わってしまったら。もし、県大会で終わってしまったら。もし、地区大会で終わってしまったら。
ずっと、嫌な想像ばかりが頭を占めていた。それを振り払うために、練習に打ち込んだ。誰よりも吹き、誰よりも曲に向き合った。
そうしていなければ、おかしくなりそうだったのだ。
生活の全てが部活動に費やされるような、厳しい練習日程を立て、部員を追い立て続けた。それなのに、もし全国大会へ行けなかったら。
華が皆を巻き込んだのに、そんな結果にするわけには、いかなかった。
ここ最近は、嫌な夢ばかりを見るのだ。昨日も、まともに寝ていない。
そうでなくても、嫌な想像のせいで、落ち着いて眠るどころではなかった。
県大会は、明後日だ。
そこを、越えなければ。必ず、東海大会へ行かなければ。そうでなくては、部長として、皆を巻きこんだ人間として、許されないのだ。




