十一ノ二十四 「県大会」
舞台上の自分の席に座り、よしみは目を閉じた。
会場の音に、耳を傾ける。急いでセッティングを行う会場スタッフや、打楽器パートの声がする。譜面台の高さを調節する金属音に、木製の舞台を踏みしめる、革靴が立てる音。客席からは話し声が届き、指揮台に立つ丘は、小声で指示を出している。
あと一、二分で本番だ。特有の緊張感が、舞台上に漂っている。
よしみは一度、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。それから、目を開いた。
騒がしかった舞台上から、段々と音が減り、スタッフも一人、また一人と反響板の向こうへ姿を消していく。
やがて、舞台には丘と五十五人だけになり、反響板が閉められた。
客席の灯りが消え、会場全体が静まっていく。そして、舞台が明るくなった。
アナウンスが入り、指揮台に立つ丘が、部員を見回す。
「楽しく」
丘が、口だけで言った。丘の手が上がる。
よしみは楽器を構え、丘の手元に意識を集中させた。
来る。
指揮棒が、揺れた。
『マーチ「ブルースカイ」』。今年の課題曲として、花田高が選んだ曲だ。
全員での総奏から始まった。題名の通り、青空を思わせるような爽やかな行進曲である。
木管セクションによる、一糸乱れぬ主旋律。よしみ達ユーフォニアムは、対旋律を担当している。主旋律を超えず、しかし耳に残るような音を意識する。
打楽器パートと、低音パートやホルンによる正確な拍打ちが、軽快さを保つ。
主旋律に、トランペットや鍵盤打楽器も加わった。月音と逸乃の音が、旋律に張りを生む。
二度目の主題の後、曲はトリオ部分へと入った。行進曲の中間部のことで、前半部の軽快さから一転して、静かで滑らかな印象へと変化する。
タンバリンの拍打ち。これが、トリオ部分の最大の難所だった。奏者が打面を打つと、楽器にいくつもついている小型のシンバルが音を立てる。これを小さな音で鳴らそうと意識しすぎると、リズムが重たくなる原因になるのだ。
だが、タンバリンを打つ陸は、そんな心配を抱かせない軽やかな演奏をしている。
トリオ後半では、ユーフォニアムは再び対旋律を担当する。リズム感や軽快さが重視される曲だが、メロディーの美しさもまた、この曲の魅力である。
何度も、対旋律を担当するパートで合わせた。完璧に揃うまで、やり続けた。
今は、乱れの無い完璧な対旋律だ、とよしみは思った。
そして、曲は後半部になる。クライマックスの直前、ほんの一瞬の溜めが入り、インテンポ。総奏で、華やかに駆け抜ける。
それぞれが、ばらばらにぶつかり合うのではなく、一つの音楽としてまとまっている。
綺麗だ、とよしみは思った。
一体感のある総奏である。もしかしたら、これまでで一番良いかもしれない。
丘の指揮も、跳ねている。曲の終わり際、ホルンが大きく吠え、そして、曲が終わった。
丘が満足そうに頷き、手を下ろす。
よしみはすぐに譜面をめくり、自由曲『たなばた』を開いた。そして、丘を見た。
休む暇はなかった。コンクールの規定時間は十二分であり、一秒でも過ぎれば、失格となる。そのため、時間の配分が重要になる。曲間で、無駄な時間は使えない。
準備を完了した部員から、丘を見ていく。
全員が準備を終えたところで、再び、丘が手を上げた。
集中力は、途切れていない。このまま行ける。
千奈のスネアドラムのリムショットと、トランペットとホルンによるロングトーンから、『たなばた』は始まった。完璧なE♭のユニゾン。そして、金管中低音部による、アンサンブル。ハーモニーに、狂いはない。
そして一度目の主題へ。木管セクションによる、シンコペーションが効いた小気味良い旋律だ。シンプルな音並びで歌いやすく、自然なダイナミクスで爽やかに奏でられる。
中音域や、千奈の正確なスネアドラムが生む疾走感を、だいごのクラッシュシンバルが支える。まだ、だいごのシンバルは、少しぎこちなさを感じる音だ。ただ、大きな影響ではない。
曲は第二主題からさらに先へと進み、中間部へ向かう。トロンボーンの奏でたモチーフがクラリネットに渡され、再びトロンボーンへ。そして、トランペットが前半部の仕舞いを奏で、サックスパートによるしっとりとしたアンサンブルへ主役を明け渡す。
ほんの数小節のアンサンブル。しかし、そこに全てが詰まっている。完璧と言っても良いほどの見事なハーモニーに、サックスパートの本気を感じた。
よしみは、一度深呼吸をした。いよいよ、自分のソロが来る。
ちらりと、丘と目が合った。よしみは頷き、楽器を構える。
サックスパートのアンサンブルから、正孝のソロへ移行。そして、よしみのソロ。
昨日、コウキの助言を得て、正孝とソロを詰めた。その成果を、出すのだ。
息を吸い、楽器の中へと送り込む。正孝の音を聴き、よしみの音を伝えた。二人のソロが、混ざり合った。甘く絡んで、一つとなって昇り詰めていく。
吹けた、とよしみは思った。
コンクールの、舞台。一度はトラウマになった、この瞬間。
乗り越えたのだ、と思った。
部員達が繋いだ旋律から、よしみを祝福するかのようなあたたかさを感じた。いつも以上に、ダイナミクスも響きも、感情的だ。
全員の音が、豊かに鳴っている。月音のトランペットも、メロディを受け継いだフルートも、クラリネットも、音が輝いている。
よしみは、思わず吹きながら笑っていた。
これが、音楽だ。花田高吹奏楽部で奏でる、『たなばた』なのだ。
次第に曲は盛り上がっていき、中間部の山を迎える。打楽器セクションのロールが感情を揺さぶり、一瞬の溜めの後、壮大な旋律が会場を包み込んだ。
夜空を彩る星が見えるようだ、とよしみは思った。なんと、美しいのか。いつまでも吹いていたい、と思ってしまう。
だが、音楽は止まらない。
クライマックスの余韻を感じさせるような旋律を、摩耶のグロッケンが奏で、ひまりのオーボエが、見事に仕舞いあげた。
曲は一転し、金管セクションのベルトーン調のフレーズと、打楽器セクションのアクセントの効いたアンサンブルが、繰り返されていく。木管セクションの細かなパッセージが明るく弾け、効果音的に使われるトライアングルやウッドウィップが、音に彩りを加える。
熱気を帯びた演奏は、そのまま後半部へ突入した。前半部で奏でられた主題が戻り、しかし、前半部よりも音の厚みを増して奏でられる。うきうきとしてくるような、軽やかで心地良い旋律。
ウッドブロックのリズムを後ろに、ユーフォニアムパートのソリと、ピッコロの連符が交差した。理絵と月音の堂々としたソロがバンドの勢いを作り上げ、総奏で最終部を飾った。
些細なミスも気にならないような、全力で、最高の演奏だった。
最後の一音が響き終えた時、よしみは身体が震えるのを感じた。
誰に恥じることもない、花田高ならではの演奏。心を揺さぶるような、良い音楽だった。
会場で打ち鳴らされる拍手の大きさが、それを物語っていた。
コンクールの会場である豊田市民文化会館の、大ホール。そこのホワイエの椅子で、だいごは休んでいた。
目の前を、何人もの高校生が通り抜けていく。全員、今日の参加者だろう。
花田高の出番はすでに終わって、後は結果を待つだけだった。今は本番の後の写真撮影や楽器の積み込みも終えて、昼食の時間である。
男子で集まって昼食を済ませた後、一人になりたくてここへ来た。人であふれている場所なら、紛れられる。
演奏の出来は、良く分からなかった。自分では判断がつかない。ただ、摩耶や純也は満足そうにしていたから、きっと、良かったのだろう。
だいごは、多分、足を引っ張っていた。それくらいは分かる。打楽器パートで一番下手なのが、自分だ。
頑張っていないわけではない。やれるだけのことはしているつもりだ。
それでも、限界はある。
ホワイエの騒がしさが、今はありがたい。自分というみじめな存在を、覆い隠してくれる。
どっと、疲れを感じていた。たった二曲演奏するだけで、これほど体力を奪われる。今までのミニコンサートなどとは、違った。吹奏楽コンクール。これが、あと最大で三回も行われるのか。
「だいご」
うつむいていた。呼び声に反応して、顔をあげる。
この人混みの中で、見つけてきたのか。
「コウキ先輩」
「休憩?」
「そうです」
「隣、良いか?」
「どうぞ」
身体をずらして、コウキの座るスペースを作る。
「本番が終わって、気が抜けたか?」
「そうですね。疲れました」
「他の皆は、結果が気になってソワソワしてるみたいだけど。だいごは、神経が太いな」
「俺も、気にならないわけではないですよ。ただ、疲れただけで」
「初めてのコンクールは、緊張しただろ?」
「しました。それに……俺、足を引っ張ったなって」
「そうなのか?」
「リズムが、重たくなって」
「そうか。だいごは、そう思ったか」
「コウキ先輩も、思ったでしょ?」
「いや? だいごは、ちゃんと叩けてたさ」
「まさか」
「良い傾向だと思う、俺は」
「……何がですか?」
「だいごは、自分の演奏に満足しなくなった。もっと、上があると気づくようになった。それは、良いことだ」
そうなのだろうか。
「でも、どうすればもっと上手くなるのか、全然分かりません」
「それは、皆そうさ。だから、色々試しながら、自分の音を磨いていく」
「……一音の価値が最も高い楽器。それが、シンバルだって丘先生は言いました。自分の音を、突き詰めろって。でも、よくわかりません」
「難しいな」
言いながら、コウキは手に持っていたパンフレットを開いた。出演校の順番や曲名が書かれている。
「シンバルは、叩く回数がそんなに多くないよな」
「はい」
「だけど、めちゃくちゃ目立つ」
「ですね」
「この曲、聴いてみろよ」
コウキが、パンフレットを指した。覗き込んで、確認する。
「『シバの女王ベルキス』?」
「ああ。元はクラシックだけど、吹奏楽のコンクールでよく演奏されるんだ。ラストでシンバルが目立つんだよ」
「へえ」
「この学校は実力的には県大会レベルだ。多分、代表選考会にギリギリ届くかどうか、ってところだと思う」
「それなのに、聴く意味はあるんですか?」
「聴いて、演奏をよく覚えておくんだ。それで、来週の代表選考会の時に、鳴聖女子のベルキスと聴き比べてみろ」
確か、愛知県の強豪として有名だという女子高だ。
「そこも、『ベルキス』を?」
「ああ。『ベルキス』は、鳴聖女子を象徴する曲みたいなもんだよ。あれを演奏する年の鳴聖女子は、必ず全国金賞を取る」
「そんなに」
「同じ曲でも演奏する学校によって、奏者によって、全く変わる。シンバルの使い方も、全然違うはずだ。良い機会だから聴いてみろ」
コウキが言うのなら、そうなのだろう。
だいごが聴いて理解できるかは分からないが、何か掴めるのなら、物は試しだ。
パンフレットを閉じて、コウキが立ち上がった。
「頑張れよ」
「ありがとうございます」
軽く手を挙げて、コウキは人垣の向こうへ消えていった。
『シバの女王ベルキス』。題名からは、何となく、格好いい曲のようなイメージがする。どんな曲なのだろうか。
パンフレットに書かれている学校の出演時間は、三十分後だった。
もう少ししたら、ホールの中へ入ろう、とだいごは思った。
今日は高校部門の県大会二日目で、花田高も出場していた。もう夜だから、結果発表も終わっているはずだ。
中学校部門は三日後で、そこへ向けて、東中は全力で練習している。
地区大会の時点で、すでに整った演奏にはなっていたけれど、今は音程やアーティキュレーション、表現といった、更に細かい部分での修正が続いている。
バンド演奏は、突き詰めようとすれば、どこまででも突き詰められるのだ。
それは自身の演奏でも、同じことが言える、と洋子は思った。
リズムが一定で、楽譜通りアクセントなどを守って叩けば、それなりの演奏にはなる。けれど、楽譜に込められた意図を汲んで、よりバンドで演奏した時にはまるものにするためには、一層細かな部分を気にしなければならない。
音量一つとっても、もう少し大きい方が良いのか、小さいほうが良いのか。小さくといっても、単純に音量を下げれば良いのか、それとも、静けさを生むことを意識して叩くのか。
どんな風に演奏するかで、曲の印象は、がらりと変わる。
中学校部門には、代表選考会が無い。三日後の県大会で代表になった学校が、そのまま東海大会へ出場することになる。
残された練習時間は、二日。それだけで、すべてが決まる。限られた時間で、どこまで突き詰めるのか。
考えることは、山ほどある。
「ごちそうさまでした」
手を合わせた。夕飯のカレーを食べ終えたところだった。
「もういいの、洋子?」
「うん、お腹いっぱい!」
母親に答え、テーブルの脇に置いた携帯電話に、ちらりと目をやる。通知を報せる光は、点滅していない。
洋子は、一日練習が終わって帰宅してから、ずっと、携帯電話を目の届くところに置いていた。
「……電話、無いなあ」
「誰から?」
「コウキ君から。大会の結果、教えてくれるかもって思ったんだけど」
「慌てなくても、まだ終わってないのかもしれないじゃない」
「うん……」
「洋子はコウキ君のことばっかだな」
隣に座っていた兄を、睨みつける。何杯目だか分からないカレーを、まだ食べている。どれだけ食べるのか、この人は、と洋子は思った。
「別にばっかじゃないもん」
「顔に書いてあるぜ、コウキ君コウキ君コウキ君って」
「もう、からかわないで!」
笑い声をあげる兄の脇腹をつねる。
「喧嘩しないの」
「お兄ちゃんが悪いんだもん……あっ!」
不意に、携帯電話が音を立てだした。掴んで、画面を見る。予想通り、コウキからの電話だった。
「部屋行く!」
「ちょっと、お皿下げてから行きなさい!」
「えっ、あーっ、うーっ!」
着信音が、洋子を急かす。
急がなくては、電話が切れてしまうではないか。
仕方なく、自分の皿を掴んで、流しに持っていく。水をかけた後、居間を飛び出して自室へ向かった。
扉を開け、中へ入る。まだ、携帯電話は音を立てている。深呼吸をしてから、軽く咳払いをした。通話ボタンを押して、耳に携帯を当てる。
「……もしもし、コウキ君?」
「洋子ちゃん、こんばんは」
「こんばんは~。ごめんね、出るの遅くなっちゃって」
「ううん。今、大丈夫?」
「大丈夫だよ! コウキ君から電話あるかもって思ってた」
「ほんと? 当たり。県大会終わったからさ、結果を伝えたくて」
「どうだった?」
「代表選考会、進んだよ」
「わあ、おめでとう! やったね!」
「うん、一安心したよ。ソロの人達も、めちゃくちゃ良かった」
花田高が合宿に行く前に、コウキと二人で会った。あの時、コウキはユーフォニアムのソロについて頭を悩ませていた。相応しい人が、ソロに対してトラウマを抱えていたのだという。
後で、それが解決されたことも、メールで聞いていた。
「良かったね。コウキ君、凄く心配してたもんね」
「うん。でも、ここからは良くなっていく一方だ。来週の代表選考会までに、更に良くしていくよ」
「私達も三日後だから、頑張ってる」
「華ちゃんの様子はどう? ソロで悩んでない?」
「まだ完全に納得のいくソロにはなってないみたいだけど、でも、悩んでる風はなかったよ。絶対に仕上げてみせる、って意気込んでた。私からすると、今でも凄く素敵なソロに感じるんだけど」
「華ちゃんは、限界を決めない子だからな」
それが、華の凄いところでもある。部員にも厳しいけれど、自分自身に一番厳しい。その華のおかげで、東中は地区大会を抜けた。
今では、部員皆が、華を認めて信頼している。
実際、華がいなかったら、東中は決して県大会へは行けなかっただろう。部員は、どこかで、これくらいで良いだろう、と妥協する部分がある。妥協すれば、音楽はそこで止まる。
決して妥協を許さず、出来ることを問いかけ続ける華が、皆を引っ張り上げた。
「ところでさ……洋子ちゃん」
急に、改まったような口調で、コウキが言った。
「なあに?」
「明日の夜なんだけど……少し、会えないかな」
「あした……えっ!?」
心臓が、音を立てて跳ね上がる。
突然すぎる言葉に、一瞬、反応が遅れてしまった。
「あ、明日?」
「うん。玄関先でも良いんだ。駄目かな。洋子ちゃんに、会いたくて」
「え、う、ううん。勿論、良いよ!」
「ほんと?」
「うん、お母さん達にも言っておく」
「ありがと。じゃあ、部活が終わったら、洋子ちゃん家行くよ」
思いがけない誘いだった。
「うん。楽しみにしてるね!」
「俺も。じゃあ、今から学校から帰るから。切るよ」
「分かった。おやすみなさい、コウキ君」
「おやすみ、洋子ちゃん」
通話が切れる。
洋子は、手の中の携帯電話を、ぼんやりと眺めた。画面は、待ち受けに戻っている。今年の初めに、洋子とコウキと拓也で集まった時に、三人で撮った写真だ。
会いたくて。
コウキに言われた言葉を思い出して、顔が熱くなった。
会いたいと言ってもらったのは、久しぶりな気がする。
何か、あったのだろうか。
いや、あってもなくても、良い。
コウキに会える。それだけで十分だ。
お互い、今が一番忙しい。会いたくても会えないだろうと思っていたから、むしろ幸運だった。
「明日かあ」
ベッドに倒れこみ、コウキの声を思いだす。
「会いたくて」
少し、遠慮がちな声だった。洋子がコウキの願いを断ることなど、あり得ないのに。
けれど、そういうところも、コウキの良いところだ。
抑えきれない嬉しさが、身体の中で膨れ上がっている。
洋子は、我慢しきれずに足をばたつかせた。




