十一ノ二十二 「県大会前日 ニ」
午後三時になって繰り上げ練習が終わり、ミーティングも済んで自主練習になったところだった。
もう明日が本番である。その結果で、よしみ達三年生の夏がまだ続くのか、それとも終わるのかが決まる。
そう考えると、心がざわついた。
ソロを吹くと決意して、練習してきた。けれど、まだ本番で吹けるかは分からない。
もし、中学の時と同じことになったら。
何もしないでいると、嫌な想像で押し潰されそうになる。だから、前日に吹きすぎるのは良くないけれど、残って練習をしたかった。
「正孝」
音楽室から出ていこうとしていた正孝を呼び止める。
足を止めて正孝が振り返り、よしみを見下ろした。
「何」
「ソロをもう少し練習したいから、付き合ってくれない?」
「おう、良いよ」
「じゃあ、東階段に行こう」
譜面は完璧に覚えている。楽器と水抜き用の雑巾だけを持って、東階段へ移動した。こちら側なら、ほとんど誰も通らないから、邪魔されることもない。廊下の反響具合が、少しだけホールとも似ている。
「じゃあ、俺から行くぞ」
「うん」
正孝がアルトサックスを構え、静かに旋律を奏でる。
よしみも、それに合わせていく。
「……どうだ?」
「織姫と彦星感、ある?」
「……うーん」
ここのソロは、恋仲の男女が過ごす幸せな時間を思わせるような、魅力的で甘い旋律である。
よしみと正孝はそのイメージを曲名にかけて、織姫と彦星感、と呼んでいた。
たった数小節だけれど、曲中で特に印象深い部分でもある。ここの出来がコンクールの結果に影響することは、間違いない。
「自分で吹いてると分からんな」
「誰か呼ぶ?」
「そうだな。丘先生、は鬼頭先生のお見舞いに行くって言ってたな」
「じゃあ、誰にしよう」
「コウキ君に頼むか」
「ん、分かった、呼んでくる」
コウキなら、よしみも信頼できる。
正孝を待たせて総合学習室に戻り、休憩していたらしいコウキに話しかけた。
「コウキ君。今、正孝とソロの練習してるんだけどさ、ちょっと演奏聴いてアドバイスくれない?」
「え、俺ですか?」
「正孝がコウキ君が良いって」
窓の外を眺めていたコウキは、ちょっと思案した後、頷いた。
「良いですよ」
「ありがと」
コウキを連れて、東階段へ戻る。
「おう、コウキ君。練習したいだろうに、悪いな」
「大丈夫です。明日に備えて、今日はもう吹くつもりなかったですから」
金管奏者は、吹きすぎると唇の疲労が翌日まで残る。そうなると、吹奏感が乱れて思う通りに演奏出来なくなるから、コウキはそれを懸念しているのだ。
恐らく、他の金管の子もそうだろう。
「じゃあ、聴いててね」
「はい」
正孝と目を合わせ、頷く。
もう一度、正孝からソロを開始した。よしみも合わせて、音を奏でていく。
何度も練習した場所だ。理想の形も、頭の中にはある。しかし、それを正孝と合わせた時に、ぴたりと表現することが出来ない。
吹き終えて、コウキを見る。目を閉じて聴いていたコウキは、そのまま無言を貫いている。
黙って、コウキが話すのを待った。
むわっとした熱気をたたえた階段の踊り場に、開けてあった廊下の窓から、爽やかな風が流れてくる。しっとりと汗ばんだ身体には、心地良い。しかし、風はすぐに止み、また蒸し暑さがぶり返す。
夏だ、とよしみは思った。
「お二人は、今の自分達の演奏を、どう感じましたか?」
目を開けて、コウキが言った。
「織姫と彦星感が足りないよなって、さっきも二人で言ってたんだ」
「織姫と彦星感……」
手を口元に当てて、コウキが頷く。
「二人の演奏が溶け合ってないってことですね?」
「そう、そんな感じ」
「なら、演奏で会話してみましょう」
「何だって?」
言われた意味が分からず、よしみも正孝も首を傾げる。
「演奏を溶け合わせるには、お互いに、相手が何を伝えようとしているのかが分からないと、難しいですよね。好き勝手に吹いてたら、絶対溶け合わないですもん」
「それは、そうだな」
「何を伝えたいのかを言語化するのも手ですが、演奏でやってみると面白い」
「音を聴いて、相手が表現していることを当てるってこと?」
「そういうことです、よしみ先輩。フレーズはなんでも良いので、自分で自由に即興で作って、演奏するんです。正孝先輩から吹く。よしみ先輩はそれを聴いて、正孝先輩が何を伝えようとしてきたかを考える。そして、答えになるフレーズを演奏する。音楽でキャッチボールです」
「難しいな」
正孝が言った。
「うん。いきなりだと難しいですから、何かテーマを決めて、それに合う演奏をしてみましょう。そうだな……あの空の雲、とかどうですか」
廊下の窓から見える入道雲を指して、コウキが言った。
「雲、か」
「関連した何かなら、何でも良いですよ」
「なるほど」
言いながら、すでに正孝の指が動き出している。
よしみは即興は得意ではない。ただ、面白そうではある。
「……ん」
頷いて、正孝が楽器を構える。そして、音を出した。
ゆったりとした速度だ。スラーで、滑らかに音を変化させていく。伸び伸びとした音。音階のように、一音ずつ上がっていく。ちょっと跳ねた。また、上がっていく。そして、下がっていく。どこか、牧歌的な雰囲気を感じさせる。
正孝は、あの入道雲が浮かぶ、空の方を表現しているのではないか、とよしみは思った。
「どうだ?」
「じゃあ、今度はよしみ先輩ですね」
よしみは頷いて、ユーフォニアムを構えた。
正孝が空を表現したのなら、よしみは入道雲を表現しよう。
大きく、存在を主張してくる雲だ。音量はフォルテで、唸るような低音を意識する。雲の底の暗さから、雲の頂点の雄大さを。音階で、駆けあがっていく。最後は、どこか名残を感じさせるような物悲しい音で締めた。
コウキが、拍手をした。
「二人ともめちゃくちゃ良いですね。んじゃあ、よしみ先輩は正孝先輩が何を表現したと思いましたか?」
「正孝は最初、雲を表現するのかなって思った。でも、違った。正孝は、雲が浮かぶ空の方を表現したんじゃないか、って感じた。時間の経過で、空の様子が変わっていく感じを」
「お、そうそう、正解。雲はちょっとイメージ湧かなくてな」
「じゃあ、正孝先輩は?」
「よしみのは分かりやすかったよな。あの入道雲だろ?」
「正解!」
満足げに、コウキが頷いた。
「その気になれば、演奏でも相手に自分の想っていることを伝えられるんですよね。正孝先輩が曲調で表現したり、よしみ先輩が音量や音程で表現したみたいに、色んなことを使って」
「確かにな」
「うん。雲、っていうテーマだけしかなくても、割とやりやすかった」
「ですよね。だから、『たなばた』も同じです。お二人がここのソロを織姫と彦星感、と感じているのなら、それを表現し、相手に伝えようとしてみてください。そして、相手のそれを受け取って、答える」
今まで、やっていたつもりでも、これほどはっきりと相手の表現を感じ取れたことはなかった。
少しテーマを意識するだけでも、違うのだ、とよしみは思った。
「ソロ、もう一回やってみるか、よしみ」
「うん」
互いに、頷く。
二人で、楽器を構えた。
よしみのユーフォニアムの方が、音は低い。表すなら、彦星だろう。正孝のアルトサックスが、織姫だ。
滅多に会えない二人が、再開した瞬間の喜びと、すぐに離れなければならない悲しみ。その両方を、音に込めてみる。
皆、気持ちは同じなのだろう。
本番前日に、吹きすぎないほうが良い。けれど、帰るのも気が引ける。まだ、何か出来ることがあるのではないか、と。
真澄も、そうだった。
音楽室の自分の椅子に座って、ぼんやりとしていた。廊下からは、部員のはしゃぐ声が聞こえてくる。
吹奏楽部員としてコンクールを経験するのは、四度目だ。過去三回は、地区大会どまりだった。今年は、強豪の花田高として参加する。しかも地区大会を飛ばして、県大会から。
名前しか聞いたことのなかったような有名高と、競うことになる。
不意に、首筋に冷たい物が当たった。思わず悲鳴を上げて、身体を跳ねさせる。
「モッチー先輩!」
「ほい」
後ろに立っていた久也の手には、水滴をまとったペットボトルの水が握られている。
「え、くれるんですか?」
「うん」
「あ、ありがとうございます」
受け取って、蓋を開ける。一口飲むと、身体の中をひんやりとした心地良さが流れ落ちていった。
久也が、真澄の隣に座る。その手にもペットボトルの水が握られていて、久也は蓋を開けると、豪快に半分近く飲んだ。
「……県大会だな」
息を吐き出して、久也が言った。
「県大会ですね」
「また、三人だな」
「はい」
「明日は、よしみ先輩の様子に注意しよう。出来る限り、フォローしたい」
頷いて応える。
「本番は、もしよしみ先輩が固まったら、俺がソロを吹く」
「はい」
「よしみ先輩の様子は、磯貝さんが教えて」
本番でのユーフォニアムの並びは、よしみ、真澄、久也という順だ。
久也からは、よしみの様子は見えにくいだろう。
「分かりました」
「よしみ先輩を、全国へ連れていきたい」
「私も、同じ気持ちです」
「ソロを、乗り越えて欲しい」
「はい」
よしみの音は美しく、うっとりとするような魅力がある。
きっと、全国でも通用する音だ。
その音を、多くの人に知って欲しい。
「でも、先輩は本当に良かったんですか? ソロを、よしみ先輩に取られて」
「取られたとは思ってない。元々、よしみ先輩が吹くべきだったソロだ。俺じゃ、よしみ先輩みたいなソロは吹けなかった」
「悔しくないんですか?」
「……俺の力不足なのは、事実だったから。それに、俺は自分がソロを吹くかどうかよりも、部が全国へ行くことのほうが大切だ。全国へ行ける最善の方法が、よしみ先輩がソロを吹くことなんだから、気にしてないさ」
「……そういう所ありますよね、先輩って」
「なんだよ、そういう所って」
久也をちらりと見る。気にするようになったのか、最近は寝癖が無くなった。今の方が、清潔感があって良い。
「自分よりも、他を優先するところ、です」
「普通だろ。この部に所属してるんだから、部のためを第一で考えるのは。それが俺達の仕事じゃん」
「ソロ奏者向きじゃない考え方ですよね」
けれど、真澄は嫌いではない。
「そもそも俺は、自分がソロ奏者だと思ったことはないよ。バンドの中で吹いてる方が好きだ」
「ふふ、私もです」
「ソロ奏者ってのは、よしみ先輩みたいな人のことさ」
「そうですね」
「呼んだ?」
声がして、後ろを振り向いた。音楽室の扉からよしみが入ってきて、こちらへ向かってきていた。
「よしみ先輩。正孝先輩と練習されてたのでは?」
「終わったよー、真澄ちゃん」
「じゃあ、ばっちりですか?」
「まあ、出来ることはやったって感じかな。後は明日次第だね。それよりも、二人きりで私の噂話でもしてたの?」
「違いますよ。ソロ奏者に向いてるのは、俺達よりもよしみ先輩みたいな人だよなって話してたんです」
「私がソロ奏者に?」
「はい」
ユーフォニアムを抱えるよしみが、顔の前で手を振った。
「私はソロは好きじゃないよ。バンドの中で吹いてる方が好き」
その言葉に、久也と顔を見合わせた。
全く、同じことを言っているではないか。
思わず、笑っていた。
「何々、なんで笑うの?」
三人とも、そうなのだ。
ユーフォニアムは吹奏楽の楽器の中でも目立つ楽器ではない。どちらかというと、バンドのサウンドの厚みを補強するような役割の方が多い。だから、そういう感性の人が担当しやすいのかもしれない。
それでも、間違いなくよしみは、ソロも出来る人である。
よしみも、つられて笑っている。
この笑顔を、そのまま持ち続けていてほしい、と真澄は思った。
もう、あの頃のような悲しい顔には、なってほしくない。
「先輩」
久也が言った。
「ん、何?」
「明日は……頑張りましょう。ソロも、安心して思いっきり吹いてください。もし吹けなくなっても、約束通り、俺がサポートしますから」
よしみの目がちょっと開かれた。
それから、す、と細められる。
「……うん。ありがと、モッチー」
「代表選考会、行きましょう」
「うん」
互いの顔を見合わせて、また笑い合った。
不安は、ある。きっと、よしみも久也も、そうだろう。
それでも、この三人なら大丈夫な気がする。
それだけの信頼関係が、三人にはあるのだ。




