十一ノ二十一 「県大会前日 一」
ベッドの脇に置いていた目覚まし時計が、甲高い音を立てはじめた。騒がしさに睡眠を邪魔され、唸る。
手探りで時計を掴んで止め、重い瞼をゆっくりと開けると、室内はまだ薄暗くてよく見えない。
目を細めて時計を眺める。針は四時半を指している。
どうやら今日も起きれたようだ、と久也は思った。
身体を起こして立ち上がり、物が散乱している床を踏みしめて、部屋を出る。
家族はまだ誰も起きていないのだろう。家の中は、しんと静まり返っている。
脱衣所へ行って服を脱ぎ、浴室で簡単にシャワーを浴びて寝汗を流した。
今までは、朝風呂の習慣はなかった。寝汗など気にも留めていなかったし、寝癖もそのままで学校に登校していた。だが、何となく神社の祭りの後からは、それらが周りの人にはだらしなく感じられるのではないか、と気になりだした。
それで昨日も今日も、朝風呂だ。
浴室から出た後は身体を拭いて部屋に戻り、制服を着た。
窓へ近づき、カーテンを開ける。日が昇ったようで、辺りが明るくなりだしている。一度大きく伸びをし、息を吐いた。
居間で作り置きされていた握り飯を食べ、テレビで天気予報と占いを確認する。
「おひつじ座の貴方の運勢はばっちり! 恋愛運は最高です。意中の人から話しかけられるかも? 金運は……」
占いも全く興味がなかったのに、ここ二日で見るようになっている。昨日は運勢は今一つだったが、今日はどうやら良いらしい。
キャスターの解説を聞きながら、頭の中には咲の顔が思い浮かんでいた。
祭りの日以来、どうにも咲のことが気になっている。つい、目で追うようになってしまった。
我ながら単純だ、と久也は思った。
「……行くか」
食べ終えた握り飯の皿を流しに置き、玄関へ向かう。履き慣れた靴に足を通し、家を出た。
県大会は二日に分けて行われる。今日が一日目で、明日が二日目。花田高の出番は、明日の七番だ。
早い時間帯というわけでもないが、身体を万全の覚醒状態にして本番を迎えるためには、普段の起床時間では少し心もとない。
最高の演奏をするために、部員全員で早朝練習を開始しようということで、昨日から練習開始時刻が繰り上げられた。
今までの練習開始が八時だったのが、六時半からである。遠方の部員は悲鳴を上げていたが、久也は賛成だった。
身体が目覚めきっていない状態で本番を迎えれば、余計なミスや緊張を生む。少しでもその可能性を減らすためには、良い選択だ。明日、本番前に学校で練習する時間も、多く取れる。
久也の家から花田高は目と鼻の先で、数分も歩けば、もう正門に着いた。急坂を上がって、生徒玄関でサンダルに履き替え、音楽室へ向かう。
職員棟の階段を上がっているうちに、トランペットの音が聞こえてきた。コウキだろう。
やはり、一番はコウキか、と久也は思った。
久也は、普段はそれほど早く登校する方ではないから、人から聞いた話だが、部内で必ず一番に登校してきているのが、コウキなのだという。もう一人は、智美だ。
あの二人は、毎日欠かさずに早朝練習をしているらしい。その熱意は、ちょっと久也とは次元が違う。
部室の扉を開けると、トランペットを吹いていたコウキと、アルトサックスの組み立てをしていた智美が、一斉に振り向いた。
「お、モッチー。おはよう」
「おはよう。やっぱり二人は早いな」
「へへ、早起きはもう癖だよねー、コウキ」
「そうだな」
ユーフォニアムの棚に向かい、楽器をケースから取り出す。マウスピースをはめ、軽く息を吹き入れた。
蝉の鳴き声がうるさくなるまでは、近所迷惑にならないように窓を閉めて吹け、と指示が出されている。
ごく小さい音量で、真っすぐ音を伸ばす。発音や息の流れが滑らかであるように意識しながら、一音ずつ上がっていく。集中を、切らさない。数分かけて、二オクターブ分のロングトーンを吹き終わると、一度楽器を下ろした。
今日は唇の調子が良い。この調子が明日も続けば、最高の状態で吹けそうだ、と久也は思った。
「あれ、モッチー」
アルトサックスを吹いていた智美が手を止め、声をかけてくる。
「寝癖直すようになったんだね」
「ん、あー、うん」
「良いじゃん。今まで寝癖凄かったもんねぇ。その方がかっこいいよ」
「……そう?」
「好きな子でも出来たか、モッチー」
コウキに言われて、久也は身体が固くなるのを感じた。
「別に」
「その反応は、図星だな?」
にやりとコウキが笑う。
「へー! モッチー、そうなの?」
「そんなんじゃないよ」
「ふーむ」
トランペットの構えを解いて、コウキがそばへ来る。まじまじと顔を見られ、思わず久也は顔を背けた。
「咲さん?」
耳元で言われて、顔が熱くなった。
「ち、違う!」
「ん、そうか。応援するぞ、モッチー!」
「違うって言ってるだろ!? 何ニヤついてるんだ!?」
「何々、誰なの?」
「智美には内緒」
「はぁっ、なんで!?」
「こういうのは男同士の秘密だ」
「何それぇ、むかつく!」
「モッチーもついにかぁ。俺は嬉しいなあ」
からからと笑うコウキ。全く、人の話を聞いていない。
「手伝えることがあったら相談してくれよ、モッチー。服選びとかデートプランとか、色々相談乗るぜ!」
コウキは、面白がっているだけだろう。明日が県大会当日だというのに、全く緊張感のない男だ。
これ以上ここにいると、コウキのせいで智美にまで勘づかれかねない。
コウキには答えず、久也は楽器と譜面を持って、部室を飛び出した。
午前練習が終わって職員室に戻ってきたところで、県大会の会場に行っている副顧問の涼子から、連絡があった。
安川高校の指揮者が、副顧問の斎藤に変更されているらしい。
その報せに、丘は驚いた。本来なら、コンクールでは鬼頭が指揮するはずで、副顧問に任せるはずがない。
何かあったのかと思い、鬼頭に電話をしてみたら、夫人が出た。
鬼頭は今朝、自宅で倒れたのだという。それで、今は病院にいるとのことだった。
横になっているが意識ははっきりとしていて、危険な状態ではないらしい。
ただ、安静にしていなければならず、会場へ駆けつけることは出来なかった。それで、副顧問の斎藤が代わりに指揮をすることになったようだ。
夫人との通話を終えて、丘は携帯を机に置き、息を吐き出した。
以前から、鬼頭は胸の辺りに違和感があると言っていた。それはごく一部の親しい人間にしか明かしていなかったようで、ほとんどの人は、部員すらも知らなかったという。
コンクール直前ともなれば、指導に熱が入る。それだけ、無理をしていたのかもしれない。
危険な状態ではないというのが救いだ、と丘は思った。
「斎藤先生が指揮、ですか……」
誰も居ない職員室で、ぽつりと呟いた。
安川高校の副顧問は三人いて、その中でも斎藤は、コンクールチームの補佐をする立場にある人間だ。指揮の覚えもあり、指導力もある。別の学校なら、正顧問の地位にいてもおかしくない人物ではある。
だが、本番当日にいきなり大舞台での指揮となると、相当な重圧があったに違いない。
生徒も、突然のことで混乱しただろう。その状態で、どれほどの演奏が出来たのか。
涼子が結果発表まで残って連絡してくれることになっているから、あと数時間もすれば、結果は分かる。
安川高校とは、共に励んできた仲だ。できれば、共に上の大会へ進みたい。
ただ、と丘は思った。
鬼頭は今後も指揮を振れるのか。もしかしたら、医者から止められるのではないか。
そうなったら、ずっと斎藤が指揮を続けるのか。
それで、安川高校は全国大会へ届くのか。
「……いや」
丘は首を振った。
今考えても、仕方のないことである。それに、鬼頭自身が、一番そのことについて考えているだろう。
丘は丘で、自分のことを考えなくてはならない。
花田高校も、明日には県大会なのだ。
今日は最後の練習である。
残された時間で出来ることを、やりきるしかない。




