十一ノ二十 「秘密」
元子に案内されて祭りを回っているうちに、二十時を過ぎていた。
美喜達との合流予定時刻を、とうに過ぎている。
「元子さん、そろそろ俺達は行くよ」
コウキが言った。
「そう。それじゃあ、また明日ね」
「色々と教えてくれてありがとう、元子ちゃん」
「いいえ、万里ちゃん。私に出来ることは、こうして伝えることくらいだから」
「それじゃあ」
「気を付けて帰ってね」
「元子さんも」
見送る元子に手を振り、コウキと共に神社の出入り口に向かった。途中、来た時に出会った角の生えた女の子が立っていた。背の高い大男と手を繋いでいる。大男の額にも角が生えているから、親子なのかもしれない。
女の子は大男との会話に夢中でこちらには気がついていないようで、万里達はそのまま神社を出た。
長い石の階段を上っていく。
人影は全くなく、神社から聞こえてくる音楽と二人の足音だけが響いている。
自分がギャップだった。
そう聞かされても、万里にはまだ実感がない。
みいちゃんのことも元子に聞かれてそうかもしれないと思っただけで、自分にしか見えていない子だなどとは考えたこともなかった。
元子の父親はギャップに関する仕事をしているそうで、元子以上にこちら側のことについて詳しいのだという。それで、後日、コウキと一緒に元子の父親から話を聞かれることになった。
ちらりと、隣を歩くコウキを見る。
コウキも、ギャップなのだという。他のギャップを引き寄せる体質だと本人も認めた。
その事実には、正直に言えば驚いた。けれど、納得している自分もいた。
今までコウキは周りの男の子に比べて随分と大人びていると思っていた。
コウキの境遇を考えれば、おかしくはない。不思議なものを見てきたなら多少のことでは動じないだろうし、達観したような部分があるのも頷ける。
「ん、顔に何かついてる?」
横顔を見ていたのに気がつかれて、慌てて万里は顔を振った。
「何でもないよ」
「そう?」
にこりとコウキが笑う。その笑顔に、胸が高鳴る。
石の階段を上りきり、二人で鳥居の前に立った。来た時と変わらず、鳥居はそこに佇んでいる。
「皆とはぐれてなかったら、こんな体験できなかったかもな」
コウキが言った。
「確かに、そうだね」
「いっぺんに色々あって疲れたけど、楽しかった」
「私も……楽しかったよ」
「なら、良かった」
コウキが空を見上げたので、万里も一緒になって顔を上げた。
さっきまで密集して浮かんでいた天灯は、風の煽りを受けてばらばらに広がっていて、すでにかなり遠くまで飛んでいるものもある。
あのまま、どこまで飛んで行くのだろうか。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
二人で、足を踏み出した。
鳥居をくぐる。
来た時と同じように、身体に何かやわらかなものが当たる感触があった。今度は目を開けていた。一瞬だけ、視界がぼやけた。
そして、元の広場に戻っていた。
もう、空に天灯は浮かんでいない。
「戻ってきたな」
「みたいだね」
騒がしい祭囃子の音が聞こえてくる。
「四人が待ってるかも」
「急がなきゃ」
石の階段を下り始めたところで、コウキが口を開いた。
「向こう側や鳥居のことは他の人には黙っていよう、橋本さん。元子さんも言ってたように、ギャップのことは知られないほうが良い」
「あ、そうだね」
「二人だけの秘密だ。って、元子さんも知ってるけど」
口元に人差し指を当てて笑うコウキがおかしくて、万里も笑っていた。
そのうち、下から他の祭り客の姿が上ってくるのが見えた。
一列になって、すれ違う。
鳥居を見つけた時に他の人の姿が見えなくなった理由は、あちら側で元子から聞かされていた。
こちら側とあちら側を繋ぐ門は、普通の人間に見えないように周囲に結界が張られているらしい。その結界内に入ると他の人の姿は見えなくなり、こちらの姿も見えなくなるのだという。
万里が門を見つけたことで、二人は結界に入った、ということらしかった。
他の人間の姿が見えるようになったということは、鳥居の結界から出たのだ。
階段を下りきると、すぐに神社の社務所の前に向かった。美喜達との待ち合わせはそこに指定されている。
到着すると、美喜達だけでなく、祭りに来ていたのであろう一年生達までいた。
ひなた、絵里、睦美、七海、かおる、メイ。全員、花田町住みの子達だ。
「あっコウキせんぱい!」
「おー、絵里ちゃん。何、皆合流したの?」
「そうなんですー! 美喜先輩達を見つけて、くっついてきました!」
「万里、三木。おっそいよあんた達。メールも電話も何回もしたのに」
「え、うそ」
美喜に言われて、万里は慌てて巾着から携帯を取り出した。
「あっほんとだ……」
画面には、何件もの着信履歴とメール通知が表示されている。
「上の広場にいたけど、電波悪かったみたいだな。気づかなかったわ」
コウキが言った。
「ったく。まあ良いけど」
「コウキ先輩と万里先輩、二人でいたんですよね?」
「ん、ああ。そうだよ、ひなたちゃん」
きゃあ、という黄色い声が一年生達から上がる。
「お二人って、もうそんな仲だったんですね!」
「え、いや……」
否定しようとしたコウキの声など彼女達には聞こえていないらしく、好き勝手に興奮している。
それを見て、コウキが苦笑した。
「万里」
咲がそばに来て、耳打ちしてくる。
「上手く過ごせた?」
「あ、うん、多分」
「手繋いだりした?」
不安がる万里の手を、コウキは握ってくれていた。あれも、一応は手を繋いだことになるだろう。
頷きを返すと、咲が嬉しそうに顔を綻ばせた。
「一歩前進だねっ」
まるで自分のことのように、喜んでくれている。
あの時の万里は喜んだり出来る精神状態ではなかったけれど、咲のその姿を見ていると、今になって万里も嬉しさがこみあげてきた。
コウキとは他の人には話せない共有する秘密も出来たし、咲の言う通り、前進と考えても良いのかもしれない。
「んじゃ、揃ったし帰りますかね」
美喜が言った。
「先輩達もう帰っちゃうんですかぁ?」
「あんた達も帰りなさい。明日も早いんだし」
「やだー、せっかくコウキ先輩達も合流したのにー」
「充分楽しんだでしょ。遅刻したら承知しないからね」
「えー」
不満を垂れ流す後輩達の背中を押して、美喜達が歩き出す。
その皆の後ろ姿を眺めながら、万里は首を傾げた。
何となく違和感がある。こんなに、大勢だっただろうか。
気になって、人数を数えていく。最後尾を歩く万里の前に、十二人いる。
社務所に集まっていたのは、万里を入れて十二人だったはずだ。一人、多くはないか。
「どうしたの、万里?」
鳥居の傍で、立ち止まった咲が声をかけてくる。
はっとして頭を振り、万里はまた人数を数えた。
今度は、自分を入れて十二人だった。
何度数え直しても、十二人だ。
「勘違い……?」
「何が?」
咲が顔を覗き込んでくる。
他の皆は、すでに神社を出ている。
「……何でもない」
「そう? 行こ、皆と離れちゃう」
「うん」
再び足を踏み出そうとして、万里は一度後ろを振り返った。
神社の中は、まだ祭りを楽しんでいる人で賑わっている。
「……みいちゃん?」
懐かしい名を、口にした。
返事は、無かった。
陽介が安川高校のコンクールメンバーに選ばれたのは県大会三日前、合宿最終日のことだった。
念願のメンバー入りだった。
一年以上、周りが舞台で演奏するのを指をくわえて見ているだけだった。
もう、違う。ようやく、陽介も舞台に立つことが出来る。
安川高校の看板を背負う一人として、演奏出来るのだ。
合宿の最後に鬼頭からメンバー入りを告げられ、その日に学校へ戻ってすぐ、萌の所へ向かった。
萌は陽介よりもずっと早くマーチングチームのメンバーになっていた。
陽介がメンバーとなったことを聞いた萌は、飛びあがって喜んでくれた。
東中の吹奏楽部同期で安川高校へ進学したのは、陽介と萌の二人だけだった。
だから、二人の間には特別な絆がある、と陽介は感じていた。
萌も、きっとそう感じてくれていたはずだ。
メンバー入りを報告した時に、目尻に涙を浮かべる萌を見て、陽介は自分の頑張りが報われた気がした。
「俺が言った通りだっただろう、陽介」
「修斗先輩」
クラリネットの練習室に、修斗が入ってきた。
県大会前の最後の自主練習をしているところだった。
「メンバー入り、おめでとう。お前なら必ずなれると思っていた」
「ありがとうございます」
「間に合ったな」
「はい」
陽介達二年生にとって、今年は重要な年だった。
何故なら、安川高校は去年も一昨年も、吹奏楽コンクールで全国大会に出場しているからだ。
もし今年も全国大会に出場することが出来たなら、来年、安川高校は三出制度によってコンクールに参加できなくなる。つまり三年生になる陽介達は、最大の演奏機会を失うのだ。
だから、全員が目の色を変えてメンバー入りを目指していた。
間に合った。
陽介も安川高校の部員として、コンクールに出られる。
「だが県大会はただの足がかりだ。全国大会当日まで、気を抜いて落ちるなよ」
「分かっています」
一度メンバーから外れると、再度メンバーになるのは難しい。他の部員も本気なのだ。五十五人という少ない椅子に、何としてもしがみ続けなければならない。
「明日は、一位を取るぞ」
修斗の言葉に、頷きを返す。
愛知県吹奏楽コンクールは二日に分けて行われる。安川高校は明日、一日目の十番だ。
同じ一日目には、愛知県の強豪である鳴聖女子もいる。他にも強豪校はいるが、安川高校と一位を競うのは実質、鳴聖女子だろう。
女子部員のみで構成されたバンドでありながら、力強い演奏をする。テレビのドキュメンタリー番組などでも、頻繁に取り上げられる部だ。
「鬼頭先生は、大丈夫でしょうか?」
問いかけると、途端に修斗の顔が曇った。
「……指揮は振れるだろう」
鬼頭は以前から胸の辺りの調子が悪くなっていたのだという。偶然立ち聞きしたことで、陽介も知った。
合宿の後から、急激に体調が悪化したらしい。昨日も一昨日も、ずっと座って指揮を振っていた。
部員の中で鬼頭の体調について知っているのは、陽介と修斗、それとマーチングチームでドラムメジャーを務める恵奈の三人だけだ。
鬼頭から、他の部員には明かすなと厳しく言われている。
しかし、この二日間の鬼頭の様子から、何となく他の部員も鬼頭の調子が悪いことは察しているだろう。
「鬼頭先生も、もしものことは考えていた」
「もしも?」
「本番当日、鬼頭先生が振れなくなる可能性だ」
どきりとした。
あり得ない、とは言えないことだ。
「だから、副顧問の斎藤先生が代振りの準備もしている」
「そう、ですか」
「それと、俺も」
「修斗先輩も?」
「ああ」
ずっと立ったままだった修斗が、陽介の傍に椅子を持ってきて、腰を下ろした。
腕を組み、真っすぐに陽介を見つめてくる。
「鬼頭先生には怒られると思って、話していない」
「なぜですか?」
「本番中に鬼頭先生が倒れたら、斎藤先生が出てくることはできないだろう?」
「それは……確かに」
「だからといって演奏を止めたら、俺達のコンクールは終わる。それだけは阻止する必要がある。だから……もしそんな状況になれば、一番指揮台に近い俺が指揮を振る」
「鬼頭先生は、どうするんですか?」
「そこで、陽介。お前だ」
「俺?」
自分を指さして、陽介は首を傾げた。
「お前は、最前列の一番左の席だ」
「はい」
「もし鬼頭先生が振れなくなったら、お前が鬼頭先生を舞台裏まで運んでくれ」
その言葉に、心臓が急激に動きを早めた。
「その心構えを、お前にしておいてほしい」
「そんな無茶な」
「部のためだ」
「っ……」
「最悪の状況は想定しておく必要がある。実際に起きることなどまずないとは思うが、起きないとも言い切れない。鬼頭先生は無理をされているからな。だから、事情を知っている俺とお前だけが、当日動く準備だけはしておくんだ」
気がつくと、拳を強く握りしめていた。
「頼むぞ、陽介」
断るという選択肢は、陽介には無い。
頷くことしか、陽介には出来なかった。
「あくまで最悪の想定だから、それほど身構えないで良いからな」
修斗の手が、陽介の肩に置かれる。
「……はい」
自分の声が少しだけ震えている、と陽介は思った。




