十一ノ十八 「もう一人の……」
一昨年この広場に来た時には、こんな鳥居は無かったはずだ、と万里は思った。
それ以前に、先ほど石の階段を上ってきた時にも、鳥居の存在に気がつかなかった。
「さっきまで、あった?」
万里が言うと、コウキが首を振った。
「俺、着いた時に広場全体見回したけど、気がつかんかったよ」
コウキもそうなら、間違いないだろう。
突然現れた石の鳥居。傍に近づいて、二人で眺める。
万里が背をかがめてやっと通れるくらいの小ささだ。いつ作られたものなのか、ところどころ石が欠けていて古びた印象を受ける。神額には、日本語でも図形でもない、見たこともない文字が書かれている。
鳥居から発せられる不思議な気配に、背筋がぞくりとした。ただの石の塊のはずのに、まるで意思を持っているかのような生命力を感じさせる。
「誰もいなくなってる」
「え?」
「さっきまで、人がいたのに」
コウキに言われて広場を見渡すと、ベンチに座っていたカップルや景色を眺めていた老人が、いつの間にかいなくなっている。
万里達の横を通って、石の階段を下りていったのだろうか。いや、それなら足音で気がついたはずだ。
何か、普通ではない。
言いようのない不安が万里の胸に湧き上がった。
コウキは腕を組んで、考え込んでいる。
心細さを感じて、自然と万里はコウキに近寄っていた。腕に触れると、コウキがこちらを向いて笑いかけてくる。
「まあ、心配しなくて大丈夫だと思う。こういうの心当たりあるから」
「心当たり?」
「うん、多分だけど……危ないことはないと思う」
そう言って、コウキが鳥居に近づく。
「あ、コウキ君……」
コウキが身をかがめ、鳥居をくぐる。
「!?」
万里は、自分の目を疑った。
コウキが鳥居をくぐった瞬間、空間が波紋のように歪んだのだ。そして、コウキの身体が吸い込まれるように消えていた。
唖然として、声も出なかった。
見間違いではない。
コウキの姿が、どこにもない。
波紋のように揺れていた空間はすでに元通りになり、向こうの景色が見えている。
「っ……コウキ君!」
返事はない。
「コウキ君! どこ!?」
激しい動悸に、胸を抑える。
コウキは、どうなったのだ。どこへ行ったのだ。
何が起きているのだ。
頭は混乱し、思考がぐちゃぐちゃになる。
その場に崩れ落ちそうになった時、再び鳥居の空間が波打った。
「やっぱりだ」
声がして、はっとした。
揺れる空間から、消えたはずのコウキが現れた。
「こ、コウキ君!」
「これ、ゲートみたいなものだね」
自分の身体を見回しながら、コウキが言った。
「鳥居をくぐったら、こことは違う空間、みたいなところに出た」
「どういう、こと?」
「場所は同じ広場だったけど……全く違う景色だった」
言っている意味が分からず、万里は顔をしかめた。
「コウキ君、身体は何ともないの?」
「ん、ああ。平気。鳥居をくぐる時に何か変な感触あったけど、特に異常ないね」
「コウキ君がくぐる時、なんか、景色が揺れてた」
「景色が?」
「波打って、ぐにゃって」
コウキが首をかしげる。
「通る時には気がつかなかったな」
万里にしか、見えていなかったのか。
「何にせよ、この鳥居は普通の人には見えないやつだね」
「どういうこと?」
「口で説明するより、くぐってみるのが早いと思う」
そう言って、コウキが再びくぐろうとする。
「ま、待って!」
「ん?」
「平気なの? 危ないかも、しれないよ」
人の姿が消えたり、空間が歪んだり。そんなこと、普通ではあり得ない。異常事態だ。
いくらコウキの言葉だからといって、信じて良いのか。
そもそも、コウキはなぜ平然としているのだ。
戸惑う万里に気がついたのか、コウキがくぐるのをやめて、そばに来る。
「この鳥居、ここに来た時は見えなかったよね」
言われて、万里は頷いた。
「なのに、急に見えるようになった。そして、他の人はいなくなった」
「……うん」
「なら、この鳥居は俺達のために現れたんだと思う」
「私達の、ために?」
「ああ」
「なんで?」
「それは……分からないけど、でも通ってみて分かった。危なくはなかった」
コウキが真っすぐに見つめてくる。
「鳥居って、神域と人域を隔てる門の役割だって言うじゃん。これは、実際に門として機能してるんだろうな。こっち側とあっち側を繋ぐ門、みたいな」
「門」
「そう。だから、この鳥居をくぐると別の空間に出たのかも」
にわかには信じがたい話である。そんなのは空想の世界の話だ。
けれど、万里は確かにこの目で、コウキが消えるところを見てしまっていた。
嘘だと思いたいのに、現実がそれを許さない。
「正直、もう一回向こうの景色が見たい。めちゃくちゃ綺麗だったし、橋本さんにも見て欲しい、かな。でも……橋本さんが嫌ならもう入るのはやめとくよ。神社に戻ろう」
コウキが言った。
先ほど、コウキは鳥居をくぐってどこかへ消えた。そして、無事に戻ってきた。
危険はないというコウキの言葉は、本当なのかもしれない。
コウキの様子にも、変わりはない。
だからといって安心して良いのか。
短時間なら大丈夫でも、長時間いたら何かが起きるかもしれないのだ。
頭はずっと警告を発している。
けれど、同時に好奇心も刺激されている。
この先に、何があるのか。
鳥居が万里とコウキの前に現れた意味は、何なのか。
しばらく、二人で立ち尽くしていた。
コウキは万里の言葉を待って、黙っている。
下の神社からかすかに聞こえてくる祭囃子の音が、場違いに明るい雰囲気を引き連れてくる。
神社の方では、何も知らない人達が屋台を巡るのを楽しんでいるのだろう。
万里とコウキだけが、不思議なことに巻き込まれている。
向こうの景色が綺麗だった、とコウキは言った。
どんな光景なのだろう。ここをくぐれば、万里もそれが見られるのか。
コウキは、まだ待っている。
やがて、万里は自分の中の好奇心に負けた。
不安はあるけれど、行ってみたい、と思った。
固く結んでいた唇を、ゆっくりと解く。
「……行ってみる」
コウキが目を見開く。
「ホントに? 大丈夫?」
頷く。
「無理、してないか?」
「……うん」
「……分かった」
コウキが頷き、万里の手を握ってくる。
「こうしてれば、少しは安心できる?」
「……うん」
万里は手を繋がれても、どきどきしたり喜んでいる余裕はなかった。
コウキの言う通りなら、これから鳥居をくぐって、どこかへ跳ばされるのである。
コウキの手を強く握り、身体を寄せる。
「行くよ」
そう言って、コウキが足を踏み出した。万里も離れないように歩きだす。
鳥居に近づき身をかがめた。頭が鳥居をくぐる瞬間、万里は強く目を瞑った。
全身に柔らかなものが当たる感覚があったけれど、その感覚は一瞬のことで、すぐになくなった。
コウキの足が止まった。
「橋本さん、目開けて」
言われて恐る恐る目を開く。
そこは、広場のままだった。何も、変わっていない。
安堵して息を吐こうとすると、コウキが握っている手を軽く振った。
「上、見て」
「上?」
コウキは空いている方の手で空を指している。
万里は言われるがまま顔をあげた。そして、言葉を失った。
そこに広がっていた光景が。自分の目に映っているものが。
万里には到底信じられなかった。
自分のギャップを引き寄せる体質があの鳥居を呼び寄せたのだろうか、とコウキは思った。
それとも、あの鳥居は常にあそこにあって、それが見えるようになったのか。
いずれにしても、鳥居をくぐった後のこの広場は、先ほどまでの広場とは確実に別の場所だった。
ぱっと見は同じだ。だが、空が違う。
空に浮かんでいるあれは、何だろうか。
小さな気球かランタンのようなものが無数に浮かんでいる。うっすらとした橙色の灯りを放つそれは、暗い夜空を照らしている。
「綺麗」
コウキにしがみついていた万里が呟いた。
アジアの、どこの国だったか。こんな風に灯りを飛ばして空を彩るイベントをしている国があると、以前の時間軸でやっていた旅番組で観たことがある。ただ、あれはテレビ越しの映像で、そういう国もあるのかと思う程度で感動もなかった。
けれど、今目の前に広がっているのは、本物の光景だった。
空を覆う無数の灯りが、コウキの胸を高揚させる。
「橋本さん、見える?」
「え?」
「灯りの、もっと上」
万里と繋いでいる手とは反対の手で、空を指さす。無数の灯りの、更に上空には、黒い何かが飛んでいた。
はじめ、それは飛行船か何かだと思ったが、違った。
灯りに照らされた巨大な影の正体は、鯨だった。そうとしか、言いようがなかった。
だが、海の鯨とは、明確に姿が異なっている。海の鯨は、前びれ二本と尾びれしかないのに対して、あの鯨は、前びれが四本だ。尾びれも海の鯨の形状とは異なり、まるで金魚のくじゃく尾のように広がっている。
「な、に、あれ」
万里がとぎれとぎれに言った。それから強く自分の目を擦り、また空を見上げて、ぽかんと口を開けている。
「やべーな、これは」
コウキは、笑うことしか出来なかった。
「すげえよ」
美しいという、単純だが明快な言葉が最適な光景だった。神秘的で、目が離せなくなる。
まるで異世界にでも来たかのようだ。
空を飛ぶ鯨の存在が、ここは不思議な店の店主や元子が言う半歩ズレた場所なのだろうということを実感させる。
二人で黙って空を眺めていると 突然、鯨が鳴いた。
テレビのドキュメンタリー番組で聞いたことのある鯨の声に、そっくりだった。
空気を震わすようなその声に、万里の顔に笑みが浮かぶ。
「これ、現実?」
「ああ、二人で見てるんだから、そうだろ」
「そう、だよね」
鯨はゆったりとした速度で飛んでいる。
どれくらい経っただろうか、鯨の姿が遠くへ行き見えなくなった頃、コウキは万里に声をかけた。
「あれは聞こえる、橋本さん?」
「え?」
「神社の方から」
ずっと、鳥居をくぐる前まで聞こえていた祭囃子とは違う奇妙な音色が、かすかに聞こえてきていた。
笛のような軽やかな音と、鈴のような澄んだ音。騒がしい祭囃子とは正反対の、静かで心地良い音楽だ。
「聞こえる……何の音楽だろう」
「分からないけど、神社に行ってみようよ」
「……うん」
歩き出そうとしたところで、一度、万里が後ろを振り返った。くぐる前と変わらない姿で佇んでいる鳥居を、じっと眺めている。
まだ少し不安なのかもしれない。
それも当然だろう。コウキも全く不安がないかといえば嘘になる。
ただ、何となく危険はない場所なのだろうという想いもあった。確信があるわけではないが、そう感じるのだ。
万里の手をちょっと強く握ってこちらに向かせ、微笑みかけた。
「行こう」
「うん」
密着したまま、二人で石の階段を下りていく。
本当は勘違いさせないためにも、あまり万里の身体には触れないほうが良い。だが、こういう状況である以上、少しでも安心させるためにも手は繋いだままでいるべきだと思った。
長い階段を下りて、一番下に着く。
それから周りを見回して、コウキは感嘆の声を漏らした。
「これは」
神社のそばは、一目で見て人間ではないと分かる生き物で溢れていた。
万里も驚いていて、声を出すのも忘れている。
二人で、神社に足を踏み入れる。
先程まで並んでいた屋台は一つもなくなっていて、代わりに木製や竹製の屋台が連なっている。ござのようなものを敷いているだけのところもあった。
読めない文字が書かれた屋台では、人間ではない生き物達が、形容し難い食べ物や工芸品のようなものを売っている。
「キャハハ」
「!?」
急にした声に驚いて、足元を見た。
いつの間にか赤子のような背丈の、古びた防空頭巾と着物を身に着けた女の子が万里のそばに立っていた。
一見人間のように見えるが、額から突き出ている小さな角が、女の子がそうではない存在であると物語っている。
「人間だー!」
頭巾を被った女の子は万里を指さして笑うと、神社の奥へ駆けていった。
呆然とそれを見送り、万里が小さく口を開く。
「……今の子、角が、生えてた」
「……ああ」
鬼とか、そういう類だろうか。元子に聞けば分かるかもしれないが、試しにとポケットから取り出した携帯の画面は、予想通り電波が届いていないことを示している。
二人のそばを通る生き物達は、興味深そうにコウキと万里を眺めていく。
全員、見た目はばらばらだ。ただ、凶暴そうな者は特に見当たらない。
「女の子が騒いでるから急いで来てみれば、驚いた。まさかコウキ君と万里ちゃんがいるなんて」
聞き覚えのある声がして、コウキは横を見た。
そこにいたのは、髪をおろして黒縁眼鏡を外した元子だった。
「元子さん!?」
「やあ」
「なんでここに?」
「それはこっちの台詞だよ。どうやってここに来たの?」
元子の姿を、上から下まで眺めまわす。
おかしな所は、ない。話し方も様子もコウキの知っている元子そのままだ。
本物、か。
「じろじろ見ないでよ」
「ごめん……驚いて」
元子が肩をすくめる。
「で、どうやってここへ?」
「あ、ああ、石階段の上の広場に鳥居があって、それをくぐったらここに」
「鳥居?」
「うん。広場に入った時には無かったのに、突然現れて」
「へえ……」
元子が口元に手をあてて、考えるような仕草を見せる。
ここで元子に会うとは思わなかった。
だが、幸運だ。元子がいるのなら確実に安全な場所ということだし、ここがどういう所なのかも分かるかもしれない。
「……門が見えた? 何故? コウキ君の力によるもの? でもそれだけで……」
ぶつぶつと元子が呟いている。
万里と顔を見合わせ、そっと耳打ちした。
「元子さんがいるなら、ここは安全だよ」
「どうして?」
「元子さんは、こういうのに詳しいから」
言って良いことなのかは分からないが、姿を見せたということは大丈夫だろう。
状況を飲み込めていない万里は曖昧に頷いて、元子に視線を向けた。
「万里ちゃん」
「っ、はい」
「ちょっと失礼するよ」
元子が万里に近づき、点検するかのように身体を触りながら眺めだした。足先から頭まで舐めるように見て、最後に、万里の目をじっと見つめる。
「……万里ちゃん、こういう不思議なことに遭遇したのって、初めて?」
「え、う、うん」
「本当に? 今まで、不思議なものを見たことってない? 例えば、幽霊とか」
「幽霊?」
「心霊写真でも良いよ」
「え、あ……それなら」
「ある?」
万里が頷いた。
「中学の時の修学旅行の写真で、私が映ってる写真が何枚か変になってたことがある」
「他には、何か変わった体験はない?」
「え、と……」
何かを思いだそうとしているのか、万里が眉を寄せる。
元子は何を確かめようとしているのだろう、とコウキは思った。
コウキではなく万里に原因がある、とでも言うのか。
「あ」
しばらくして、万里が小さく声を上げた。
「何か思いだした?」
「あの、すっごく小さい頃のことだけど」
「うん」
「……私の、妄想かもしれないけど」
「大丈夫、信じるから」
「……私にしか見えない友達が、いたことがある」
ぴくりと、元子の表情が動く。
「周りの子に聞いても誰も知らないっていうのに、この神社で遊んでると、いつの間にか皆に混ざってる子がいた」
「いつ頃の話?」
「小学生低学年の頃」
「その子は、今は?」
「分からない。そのうち、私にも見えなくなっちゃったから……」
「そう」
頷いて、元子が万里から離れた。
「やっぱり……万里ちゃんもギャップなんだ」
「は!?」
コウキは思わず声をあげていた。
「先天的なものか後天的なものかは分からないし、力も弱いけど、きっとそう」
元子は冗談を言っている顔ではない。
「あ、あの、ギャップ、って?」
不安げに、万里が見上げてくる。
だが、問いかけられてもコウキは答えられなかった。
万里も、ギャップである。
唐突に告げられたその事実に、言葉を失っていたのだ。




