十一ノ十四 「コウキと月音 二」
元子とみかが寝静まったのは、就寝時間を大分過ぎた頃だった。
布団をめくって、息を吐き出した。
冷房で冷やされた空気が全身に触れてきて、生き返る心地だ。布団の中は、とにかく暑かった。せっかく入浴したというのに、全身が滝を打ったように汗をかいてしまっている。服も濡れていて、冷たい。
みかの枕元の明かりが点きっぱなしで、部屋の様子が見える。横に目をやると、月音も全身を汗で濡らしていた。薄手のティーシャツだからか、身体にしっとりと張り付き、それが余計に身体の線を強調して、なまめかしさを醸し出している。
「スリルあったね」
くすりと笑う月音。
コウキは、思わず顔を背けた。
今の月音は、危険だ。このまま隣にいてはまずい。音を立てないように、ベッドから降りようとする。
「待って」
手を掴まれて、引き戻された。体勢を崩して、ベッドに倒れこむ。
「行っちゃやだ」
目の前に月音の顔があった。すかさず、両腕がコウキの首に回される。
「ここにいて?」
月音の甘く誘惑するような声。耳が、ぞわりとする。
心臓は、もう限界だった。布団にもぐりこんだ時から、ずっと早いままだ。
暑さと、疲労と、月音の誘惑とが同時に襲い掛かり続けて、コウキの理性は崩壊寸前になっている。
「コウキ君」
月音の頬は、これまでにないほど火照り、目はとろんとして、薄く艶やかな唇は悩ましそうに開かれている。あまりにも熱っぽく色香を漂わせるその表情から、コウキは、目を離せなくなった。
月音の視線が一瞬、コウキの唇へ向けられる。それだけで、言葉を交わさなくても月音の求めていることが分かった。
首に回されていた腕に力を込められて、顔が近づく。
「……っ、駄目だ」
吐息がかかりそうな距離になった時、最後の理性を振り絞って、顔を逸らした。
月音の腕に込められた力が、止まる。
「なんで?」
「駄目だろ、こんな」
「私は、駄目じゃないよ」
「二人が起きるだろ」
「大きな音を立てなければ大丈夫だよ。二人とも、一度寝ると朝まで起きないって言ってたもん」
「そういう問題じゃ……」
「……私のこと、嫌い?」
はっとした。
月音の顔を見る。
「だから……拒むの?」
唇を噛む。
「……そうじゃ、ない」
「なら……良いじゃん」
その短い言葉が、コウキを激しく揺さぶる。
今まで、月音の誘惑に耐えてきた。学校でも、帰り道でも、イベントの時でも、この合宿でも。耐えて耐えて、耐え続けてきた。
いつだって、月音は魅力的だった。その月音に迫られて耐えることに、どれだけの苦労があったか。
部員が周りにいた。学生指揮者として、皆を引っ張る立場にあった。大勢がコウキの言動を見定めようとしていた。軽率な行動をすれば、部の調和を乱すことになりかねなかった。
だから、自分を律して部員の手本であり続けようとしてきたし、そのためには、月音の誘惑もはねのけなければならなかった。
それに、洋子もいた。
コウキにとって、一番大切な子だった。そして、好きだった。
月音の誘惑に乗るということは、待ってくれている洋子を裏切るということだ。
それは、したくなかった。
なのに、今は、月音にくぎ付けになっている。
長時間に及んだ布団の中での潜伏で、思考も鈍っている。
「ね、コウキ君」
月音の声。
「立場とか他の人のことは、忘れて。今だけで良い……今だけ、私のこと見てよ。明日から、また元に戻って良いから」
コウキの心を見透かしているかのような、月音の甘いささやき。
それが最後で、そして、限界だった。
いつからだっただろうか。
月音のことは、気がついた時には好きになっていた。洋子のこともすでに好きだったのに、だ。
彼女の溢れんばかりの好意を受け続けているうちに、どうしようもなく惹かれてしまった。
好きなら、問題ないではないか。心の中で、誰かが言った。
好きな子とこういうことになって、何が悪い。不可抗力でこの状況になっただけだ。元子もみかも、眠っている。月音の言う通りなら、もう起きることはない。
誰も見ていない。知られることもない。
道徳が、何だ。好きな子がここまで誘ってくれている。それで良いではないか。
心の中の誰かは、誘惑の言葉を挙げ連ねる。
それに抗えるだけの理性は、もう失っていた。
月音が、無防備な姿を晒して、自分を求めている。
以前に逸乃が、月音は魔性の女だと評したが、それは大げさではなかった。
この姿を前にして、耐えられるはずもなかった。
手で、月音の頬に触れた。吸い付きそうな肌触りだ。
月音が、甘える猫のように、表情をとろけさせる。その仕草が、更にコウキの心をくすぐる。月音の腰に手を添え、少し自分の傍へ引き寄せると、ぴくりと反応し、唇をきゅっと結んだ。
視線が絡み合う。察した月音が、目を閉じる。
そして、二人の唇は、静かに重ねられた。
丘の部屋は三人部屋で小さいが、今夜宿泊する卒部生は十人もいないため、余裕で入ることができた。
合宿の夜は卒部生達と酒を飲むのも、丘の楽しみの一つだ。
さすがに未成年に飲ませることはないが、こうして飲み物を酌み交わしながら話すと、彼らの知らなかった一面も見えてくる。
今まで指導してきた生徒は、丘にとっては全員大切な子達だ。一番初めに指導した学年の生徒ですら、今でも全員の名前と顔が一致する。
彼らが花田で得た部活動の経験を元に、社会で活躍している。その話を聞くのが、何よりも楽しい。
年月が経って、部に顔を見せなくなった卒部生も大勢いる。
それでも、彼らはどこかでたくましく生きているのだろうと思うと、心配はない。
「丘先生、今年のバンドは先生的には、手ごたえありですか?」
四年前の卒部生の男が、丘のコップに酒を注ぎながら言った。
毎年、合宿と定期演奏会には手伝いに来てくれる子だ。
「そうですね、全体的に高いレベルにあります」
「なら、今年こそは全国大会?」
「それは……ソロ次第、でしょうか」
今年の三年生は、黄金世代と言っても良いほど、粒ぞろいである。
ひまりは恐らく、高校生のオーボエ奏者の中では群を抜いている。逸乃と月音はそれぞれがトップ奏者になれる実力を備えているし、アルトサックスの正孝も同様だ。摩耶は全ての打楽器を丘の要求するレベルで演奏出来る。
そして、よしみだ。特別、ユーフォニアム奏者として抜きんでているわけではないが、彼女の音はユーフォニアムの理想の音をしている。
豊かに響いて、太く輝く音。彼女の演奏の最大の魅力だ。
他の三年生も平均以上のレベルを備え、それぞれがどこの高校にいたとしても、充分やっていけるだけの力を持っている。これだけの奏者が一学年に揃っているというのは、今までになかった。
一、二年生にも、優秀な生徒が多い。バンドとしては、良い状態なのである。
だからこそ、問題はソロだ。
「アルトサックスとユーフォニアムのソロ。これが、花田の演奏の出来を左右するでしょう」
「『たなばた』ですか」
「ええ。本当に素晴らしいソロというものは、他の奏者の心をも引っ張り上げます。奏者同士が影響を与え合って、その時にしか生まれない最高の演奏を作り出すのです。ソロはそういう力がある、特別なもの。私はそう思っています」
「今回は、ユーフォは二年生が吹いてましたね」
「ええ。肝心の池内が、ソロを吹けずにいましてね」
全国大会へ進めるかは、よしみがソロを乗り越えられるかにかかっている。
久也のソロも悪くはない。だが、心を震わせる演奏にはなりえないし、奏者の心を引っ張り上げるソロにもなりえない。
去年、ひまりの代奏として吹いた星子のソロ。あれが丘の理想のソロだ。
星子の演奏が他の奏者の気持ちをも引っ張り上げ、かつてないほどの名演を生んだ。
よしみと正孝にもそれが可能だ、と丘は読んでいる。あの二人なら、息を呑むソロを奏でられるはずだ。
「こればかりは、池内自身が乗り越える問題です。私達に出来ることはありません」
合宿の間に、解決したかった。
安川高校との合同練習もそのきっかけになればとは思ったが、よしみの心にどう影響したかは、分からない。
「まずは、県大会ですね」
奏馬が言った。
「ええ」
「光陽高校が出てこないんですよね、確か」
「そうです。三出の影響ですね」
「そして鳴聖女子が復活ですか」
「……はい」
吹奏楽コンクールには三出制度というものがあり、全国大会に三年連続で出場すると、翌年は参加資格が無くなる。
光陽高校は今年がその年で、鳴聖女子は去年がそうだった。全部員が女子生徒とは思えない力強い演奏が特徴で、全国大会の常連校である。
県大会は二日に分けて行われ、選ばれた学校が翌週に代表選考会を行う。そこで東海大会の大編成部門に進む学校と小編成部門に進む学校が決まるのだ。
大編成の枠は、今年は六つ。安川高校と聖鳴女子以外の学校にも優れた演奏をするところは多い以上、油断や慢心は禁物である。
「そういえば、北高はどうなんですか? 最近、良い噂を聞きませんが」
奏馬の向かいに座っていた晴子が言った。
丘は、思わず顔をしかめていた。
「北高は……残念ながら県大会までが限界でしょう。以前の先生の指導を受けていた二、三年生のおかげで、地区大会を突破する余力は残っていたようですが、東海大会はとても無理だと思います」
「やっぱり、顧問が変わったからですか? 女の人らしいですが」
「そうですね。部活動より学業を優先させようとする人のようです。北高は、進学校ですから。合同バンドも北高校の生徒は全員抜けてしまいました」
地区大会はぎりぎりのところで代表になったと聞いている。
「顧問次第で、バンドの力量は大きく変わります。北高校はこれからは低迷していく一方でしょう」
この地区で安川高校と花田高と北高校の三強と呼ばれた時代は、終わった。
他校との交流は生徒にとって大きな刺激となる。お互いに高め合うことで、この地区の吹奏楽は更に盛り上がることになるはずだった。だから、できれば北高校との交流も続けたかった。
北高校の生徒達も、合同バンドを辞めたくはなかっただろう。
顧問の独裁運営が、優れた部を壊すこともある。
「ですから、私は佐原先生には期待しているのですよ」
話を振られた涼子が、目を見開いて声を上げた。
「私は花田高に勤めて十年以上です。いつ、異動になってもおかしくない。その時、生徒と新しい顧問を繋ぐのは佐原先生の役目です。顧問の独裁運営にならないよう、橋渡しとなってほしい」
「わ、私ですか。でも、私は指揮も出来ませんし、音楽のことも……」
「どうですか、これから、学んでいきませんか?」
「えっ!?」
「今まで佐原先生には裏方をやってもらっていましたが、指揮も覚えれば前に立てます。生徒との交流も、深くなるでしょう。佐原先生にやる気があれば、お教えします」
佐原の目が揺れる。
「良いじゃないですか、涼子先生! 涼子先生の指揮で、演奏してみたかったなあ」
奏馬にべったりとくっついていた都が、無邪気な顔をして言った。
この二人は、いつのまにか交際していたのだろうか。現役だった時は、そんな様子はなかった。しかし、都の反対側には岬がいて、岬も奏馬にくっついている。
奏馬はそれを平然と受け入れているが、一体、この三人はどういう関係なのだろう。
「いやぁ~、私なんかが指揮したら、とてもとても……」
佐原が言った。
「卑下するのは良くありませんよ、佐原先生。誰だって初めは初心者です。やるから上達するのです」
「う、は、はい……丘先生」
「まあ、慌てることはありません。興味があればいつでもおっしゃってください」
「分かり、ました」
頷いて、ビールの缶を手に取る。佐原の前に差し出すと、コップを持ちあげて頭を下げてきた。
黄金色の液体が、泡と共に佐原のコップに満ちていく。
部活動は、様々なことが同時に進行していく。一つひとつを平行して進めなければ、いずれ部の運営は滞ってしまう。
佐原のこともそうだし、リーダー決めも、そう遠くない時期になってきている。
やることは山積みだ、と丘は思った。




