十一ノ十三 「コウキと月音」
安川高校とのバーベキューが終わった後は入浴で、それも済ませて、コウキは談話室にいた。
周りには寝間着を身にまとった花田高生が大勢いて、ソファや椅子に座ってくつろいでいる。
つい先ほどまでは、部屋の一角を陣取って、リーダーで会議をしていたところだ。
安川高校の部員の姿がないのは、ちょうど入浴時間だからだろう。
もう少しすると、彼らもやってきて談話室は人で溢れかえる。そうなればくつろぐどころではないし、早めに部屋に戻ろうか、とコウキは思っていた。
「ん?」
不意に、ポケットに入れていた携帯が、メールの受信を報せる音を立てた。
携帯を取り出して画面を開くと、差出人は、月音だった。
『コウキ君、今談話室?』
ボタンを押して、返事を打っていく。
『そうですよ』
周りを見回しても月音の姿は無い。リーダー会議の後、部屋に戻ったのかもしれない。
また、メールが届いた。
『今時間あるなら、上に来てくれない?
話したいことあるんだ~』
『分かりました』
携帯を仕舞い、立ち上がる。
「どっか行くのか?」
隣に座っていた勇一が言った。
「ああ、ちょっと上行くよ」
「うーい」
席を立ち、談話室を出る。
中央の階段を上って三階に着くと、階段の踊り場で、月音が待っていた。
「やっほー、コウキ君」
「お疲れ様です」
「忙しくなかった?」
「大丈夫ですよ、雑談してただけですし」
「良かった。今日全然話せなかったからさぁ、二人で話したかったんだ」
「いつでも話せるじゃないですか」
「そんなことないよ。私だって、少しは遠慮してるもん」
「何を?」
「ほんとはね、部活中はずっとコウキ君のそばにいたいけど、それじゃ邪魔になるでしょ? 今日のバーベキューだって、コウキ君、安川の人達と話し込んでたし」
東中時代の同期の陽介と、部長の畑中修斗と話していたのだ。
「だから、私がそばにいちゃ駄目かなって。ちゃんとコウキ君のタイミングが良い時以外、そばにいないようにしてるんだよ」
「……それは、知ってますけど」
はたから見ると、月音はいつもコウキのそばにいるように見えるだろう。だが実際は、コウキが忙しい時は決してそばに来ない。
それが、月音なりの気の使い方なのだということは分かっていた。
「だから、こういう時くらいゆっくり話したいの」
上目遣いに微笑みかけられて、頬が熱くなる。
「……まあ、分かりました」
「へへ、やった」
「でさー」
廊下から、扉が開閉する音と話し声が聞こえてきた。
足音がこちらへ向かってくる。
「……だから恋愛嫌いなんだって、メイちゃん」
「へー、でもそれは、嫌いになっても仕方ないね」
姿を現したのは、一年生の双子の睦美と七海だった。
こちらに気づき、二人が足を止める。
「あっ、こんばんは」
「こんばんは」
頭を下げられて、軽く手をあげて答える。
睦美と七海は、ぱっと見では瓜二つだ。いつもは髪型や雰囲気で判断しているが、今は二人とも髪を下ろしているため、一瞬どちらがどちらか、分からなかった。
確か、睦美が姉で七海が妹だったはずだ。性格的には七海のほうが行動的で睦美を引っ張っている印象だが、こういう時にきちんと挨拶をするのは睦美の方だ。七海は睦美に合わせて頭を下げるだけである。
ならば、先に頭を下げたのが睦美だろう。
顔を上げた時、七海が好奇の目を見せたことに、コウキは気がついた。それは一瞬のことで、二人はそのまま無言で通り過ぎ、階段を下りていく。
二人の足音が完全に聞こえなくなるまで、何となくコウキも月音も黙っていた。
「……なんか、嫌な目」
月音も、気づいていたらしい。
「まあ、こんなとこで二人で話してたら仕方ないでしょ」
月音の頬が膨らむ。
「邪魔されずに落ち着いて話したいから、あっち行こ、コウキ君」
手を掴まれ、歩きだす。廊下は静かで、時々各部屋の扉の向こうから、くぐもったような話し声が聞こえてくる程度だ。
三一二号室の前で、月音は止まった。扉の取っ手に手をかけ、開けようとする。
「ちょちょ、ここ月音さんの部屋じゃん」
「そうだよ?」
「駄目でしょ、入ったら」
「なんで?」
「女の子の部屋に男が入るのは、まずいって」
「まだ就寝時間じゃないから、大丈夫だよ」
「そういう問題じゃなくて」
「でも他に二人で話せる場所ないもん」
「てか、中に誰もいないんですか?」
「うん。元子ちゃんとみかちゃんは談話室。いいから入って。二人が戻ってくるまでに出ていけば良いじゃん」
「いや……」
「お願い、コウキ君」
月音が、腕に身体を密着させてくる。柔らかな感触とねだるような瞳に、コウキは喉を詰まらせた。
「少しだけで良いから」
そう言って、月音が扉を開ける。くん、と絶妙な力で腕を引っ張られ、部屋に引き込まれる。それを、コウキは拒めなかった。
部屋の中は、女の子特有の甘い香りが、かすかに漂っている。明かりは、窓の外から入る月の光だけだ。
月音が扉の鍵をかけた音で、はっとした。
警告が、頭に流れる。
「やっぱ駄目だ。ここ、元子さんとみかちゃんも使ってるんだから、俺が入ってちゃまずい」
言って、扉の鍵に手をかけようとする。その手を、月音の両手が抑えた。
「分かってる。分かってるけど、コウキ君といたいから」
心臓が、早鐘を打つように鳴り続けている。
良くないことをしている。早く、ここから出なくては。
他に誰もいない密室で、月音と二人。その状況も、危険だ。
頭の中では、警告が繰り返されている。
「お願い、見つかったら私が無理やり連れ込んだことにするから。ここにいて」
月音の潤んだ瞳と、風呂あがりの水気を含んだような鼻をくすぐる香り。それに、柔らかな手の感触。
流されそうになる心に喝を入れて、もう一度扉の鍵に手を伸ばした、その時だった。
扉の取っ手が勝手に動き、音を立てた。
「あれ、鍵がかかってる」
元子の声だ。
「やばい……!」
月音があわあわと慌てだす。
「もう戻ってきたの……!?」
扉を叩く音。
「月音先輩、中にいますか?」
「どうしよう……!?」
月音が目を丸くしている。
「っ……布団に隠れる……!」
「わ、私のベッド、一番奥……!」
すかさず、コウキはカーテンを閉めて部屋を暗くし、月音の布団にもぐりこんだ。
膨らみでばれないように、なるべく身体を平らにする。
「ごめんね、今開ける」
月音の声が聞こえて、鍵を開ける音がした。
扉が開き、足音が中へ入ってくる。
「真っ暗だ。寝てたんですか、月音先輩」
みかの声だ。
「う、うん、ちょっと疲れて」
「起こしちゃいました? すみません」
「良いよ。私も鍵かけちゃってた、ごめんね。それより、もう談話室には行かないの?」
「安川の人が増えてきたんで、落ち着けなくて」
元子が言った。
隣のベッドが軋む音がした。みかか、元子か。
「電気点けて良いですか?」
「あ、ご、ごめん、眩しいとちょっと」
「なら、離れてるみかちゃんのベッドの明かりだけならどうですか?」
「う、うん。それくらいなら」
「じゃあ、みかちゃん、点けてくれる?」
「はーい」
話の内容的に、元子が中央のベッドで、みかが入り口側を使っているのだろう。
部屋を出ていくには、二人の前を通らなければならない。二人が起きているうちは、ここに留まるしかないのか。
息をひそめていると、突然、布団がまくられた。
「よいしょ」
月音だった。素早く、布団の中に身体を滑り込ませてくる。
コウキは、平らにしていた身体を動かし、月音が入れる隙間を作った。
元子とみかの反応はない。気づかれては、いないらしい。
見つかったのかと思ったではないか。緊張で、心臓が痛い。
あまり身体を動かすわけにもいかず、自然と月音の身体と密着していた。
「でね、みかちゃん。私的には、蜀よりも呉が熱いの。親子三代で国の礎を築いたところとか、壮大な物語性を感じない?」
「えー、やっぱり蜀ですよ! 諸葛亮の天才ぶりで一大国家になるのがイイんじゃないですかぁ!」
「……ミーハーだね、みかちゃん」
三国志の話か。そういえば、元子は三国志の大ファンだった、とコウキは思った。
わずかに、月音が身じろぎをする。
「あ、うるさいですか、月音先輩」
「う、ううん、そんなことないよ。気にせず話してて」
「すみません」
「私は寝るね。見回り来たら対応お願いしても良い?」
「分かりました、おやすみなさい」
「おやすみ」
それで、元子とみかは、会話に戻った。二人とも、三国志の話に夢中になっている。
このまま、就寝まで気づかれなければ何とかなるが、見回りの時にコウキがいなかったら、部屋の子達が探し始めるかもしれない。そうなれば、終わりだ。
コウキは慎重に身体を動かして、ポケットから携帯を取り出した。
部屋員の陸に、誤魔化してもらえるようにメールを打つ。
『ごめん、ちょっと用事があって見回りまでに戻れないかも。口裏合わせてもらえない?』
すぐに、陸から返事が返ってくる。
『誰かと隠れて会うの?』
鋭い、とコウキは思った。
『そういうんじゃないけど、お願い』
『ま、コウキ君の頼みなら何でも聞くよ
任せて
その代わり後で事情を教えてね』
礼のメールを打ち、携帯を仕舞う。
もし陸が同室ではなかったら、詰んでいただろう。陸は、何だかんだといってもコウキの味方をしてくれる子だ。
安堵して息を吐いていると、月音が寝返りを打ってこちらを向いた。胸の辺りが顔の正面に来て、鼓動が更に早くなる。
不意に、頭に触れられて、コウキは身を固くした。
月音の手が、優しく、髪を撫でてくる。
なぜこんなことになったのか。部屋に招かれた時に、もっとはっきりと断るべきだった。こうなる可能性は予想出来たはずなのに、足を踏み入れてしまった。
もし、こんなところを部員に見られたら、話はすぐに広まって、部の雰囲気は最悪になるだろう。そうなれば、コンクールにも影響する。
軽率な行動をした自分を、コウキは心の中で罵った。
相変わらず、月音はコウキの頭を撫でている。
やがて、その手が下に移動し、頬をそっとさすられた。その感触に、ぞくり、と全身が震える。
布団から顔を覗かせると、月音が、今まで見たこともないような艶めかしい表情をしていた。薄暗くてはっきりとは分からないが、平静さを失っている顔だ、とコウキは思った。
しかし、コウキ自身も、本当はどうにかなりそうだった。女の子と長い時間密着し続けるのは、生まれてはじめてのことなのだ。
布団の中は蒸れてしまって暑く、コウキも月音も汗をかきはじめている。触れ合う肌は、濡れてぴたりと張りつくし、滑らかな月音の肌とわずかでも擦れる度に、意識がそちらへ持っていかれる。
月音の甘い香りと汗ばんだ香りも、脳を刺激してくる。
気を紛らわそうと、懸命に余所事を頭に思い浮かべた。
月音とコウキの精神年齢の差は、十以上もあるのだ。ここで自分が抑えなければ、人として駄目だ。良いように惑わされている場合ではない。
だが、そんなコウキの想いとは反対に、月音はますます大胆になりだしている。元子とみかが話に夢中になっているせいも、あるのかもしれない。
熱さを感じる月音の指先が、耳の下を抜けて、首を撫でる。そこは、コウキの弱い箇所だった。電気のようなものが全身を駆け抜けて、声が出そうになる。
暗い布団の中にいるせいか、視覚以外の神経が、研ぎ澄まされている。
いくら自分を抑えようとしても、月音がそれを許さない。
このままでは、限界を超えてしまいそうだった。
突然、部屋の扉が叩かれた。
びくりと、月音の手が止まる。
「見回りです」
摩耶の声だ。
扉が開く音がした。
「あれ、元子ちゃん」
「月音先輩、疲れて寝ちゃいました」
「そうなんだ。三人とも揃ってる?」
「はい」
「じゃあ、もうすぐ就寝時間だから、おやすみね」
「おやすみなさい、摩耶先輩」
静かに扉が閉まる。
摩耶の部屋は、廊下の一番北だ。そこから順番に見回りに来るはずで、南側にあるこの部屋まで来たということは、コウキの部屋も確認済みだろう。
陸は、きちんと口裏を合わせてくれたらしい。
「それで、結局みかちゃんは誰が一番好きなの? 諸葛亮?」
「いえ、趙雲です! あの強さはたまらないですっ」
「強さで言うなら、孫策でしょ」
「孫策はすぐ死んじゃったじゃないですか。趙雲は強いだけじゃなくて、忠義に厚いところもかっこいいんです」
「ふーん。みかちゃんとはとことん意見が合わないね」
「元子先輩も『真・三国乱舞Ⅴ』やれば、絶対趙雲好きになりますよ。もはや趙雲が主人公みたいな扱いなんですから!」
「うち、ゲーム機ないし」
「なら今度遊びに来てください! お兄ちゃんが持ってるんで、一緒にやりましょうよ!」
「孫策は? 孫策は出てこないの?」
「出てくるし、キャラクターとして使えますよ!」
「へえ……なら、一回くらいは……」
元子とみかの話は止まらない。普段はあまり人と会話しない元子も、三国志の話をする時は、饒舌になるらしい。
意識を二人の会話に向けて、気を紛らわせようとする。
頼むから、早く寝てくれ、とコウキは心の中で願い続けた。




