十一ノ十二 「池内よしみ 三」
合宿所の敷地内には裏手に芝生の広場と雑木林もあって、そこでバーベキューやキャンプ実習も出来るようになっている。
花田高と安川高校の合同練習は十六時頃に終了し、夕食のバーベキューのために全員広場に集まっていた。
会場の設営や料理の下ごしらえは安川高校の父母会が済ませてくれていたおかげで、生徒がやることはあまりない。卒部生が付き添って炭を熾しているグループがいくつかあるくらいで、他の生徒は思い思いに過ごしている。
両校の部員と卒部生や顧問も揃っているため、人数は百二十人を超えている。それだけの人数でバーベキューをするとなると注意する点も多そうだけれど、安川高校は毎年ここでバーベキューをしているらしく、父母会と卒部生の手際が良いおかげで特に問題も起きていなかった。
一時間もしないうちに準備は完了して、バーベキューが始まる。
はじめに鬼頭と安川高校の父母会長からの挨拶があったくらいで、後はもう自由だった。
グリルで焼かれる肉や野菜以外にも様々なおかずが揃っていて、両校の部員は垣根なく混じり合って食事を楽しんでいる。
よしみは他の子達のようにはしゃぐ気にはなれなくて、レジャーシートの一つに座って、ちまちまと肉をつまんでいた。
合同練習の最後に聴いた美鈴のソロが、忘れられないのだ。
良い焼き加減で取ったはずの肉も、ゆっくりと食べていたせいで冷めている。少し硬くなったそれを口に放り込んで噛みしめていると、頭上に人影が差した。
「よしみ先輩、隣良いですか?」
皿とコップを持った、真澄だった。久也もいる。
「良いよ」
「失礼します」
真澄が隣に腰を下ろす。
「モッチー先輩も」
自分の隣の地面を叩いて、真澄が言った。
久也が遠慮がちに腰を下ろす。
「お肉、美味しいですね」
「そうだね、真澄ちゃん」
「食べるかなと思って、新しいの取ってきました。野菜もありますよ」
差し出された皿を眺めて、焼き目のついたカボチャを一つ、箸で取り上げた。
「ありがと」
「はい」
笑いかけてくる真澄に笑みを返し、かぼちゃを一口齧った。香ばしさと甘さとが口に広がり、肉の脂を流してくれる。
三人は特に会話をするでもなく、食事を続けた。肉、野菜、肉、おかず。無言で、箸を進める。
周りのレジャーシートでは他の部員達が賑やかに話しているけれど、それが余計に三人の間に流れる沈黙を強調してくる。
「よしみ先輩、元気ないですか?」
不意に、久也が言った。
「ちょ、ちょっとモッチー先輩。直球すぎ……」
「だって」
「良いよ、真澄ちゃん」
真澄がバツの悪そうな顔をして、俯く。
「別に、元気はあるよ」
「ほんとですか? 何か合同練習の後くらいから、大人しいなと」
「それは」
久也も、意外と人を見ているらしい。
「……二人も美鈴ちゃんのソロ、聴いたでしょ」
一瞬の間があって、二人が頷く。
「凄かったよね」
「……化物ですね、あのソロは」
久也が言った。
「あれを聴いたら、ちょっとね。あのソロを超えないと、私達は東海大会にも行けないのかもって思っちゃって」
「よしみ先輩」
「今日の演奏、確実にうちより安川の方が良かった。県大会までに覆せるレベルじゃない、と思う。今年は光陽高校が出てこないとはいっても、他にも凄い学校は沢山ある。東海大会への代表枠は多くないし……このままじゃ、うちはまずい」
吹奏楽のコンクールでは、三年連続で全国大会へ出ると次の年は参加できない三出制度がある。花田高の前顧問である王子が率いている光陽高校は、去年全国大会に出場したことで、三年連続となった。
それで、今年はコンクールに出てこない。
「二人にも、ごめんね」
「え?」
「私がちゃんとソロを吹けてれば、迷惑をかけずに済んだのに。合奏だって、もっと……」
「先輩のせいじゃないですよ」
久也が言った。
「俺が下手だからです。よしみ先輩が吹けなくても、俺が完璧に吹けてれば良い話なんです。なのに、俺がいつまでも吹けないから合奏も停滞してるんだ」
「それは……違うよ。モッチーは頑張ってる」
「頑張ってても、結果が出なきゃ同じです」
隣のレジャーシートに座っていた安川高校の部員達が、楽し気な笑い声をあげた。一瞬そちらに目を向けて、また、よしみは手元に目を落とす。
「私は」
呟いた。
「私は、自分が嫌だよ。私のせいで、モッチーと真澄ちゃんまで苦しめてる。皆にも迷惑をかけてる」
中学生の時もそうだった。
よしみのせいで、中学三年生のコンクールは終わった。
よしみという存在が、部にとって邪魔なのだ。よしみがいなければ、違う未来になっていた。今も、違う道になっていたはずだ。
よしみが他人の人生まで狂わせている。
「自分を、責めないでください、よしみ先輩」
真澄が言った。その声が震えている気がして、横顔に目をやった。涙が、目尻に溜まっている。
「私は迷惑だなんて思ったことも、苦しいと思ったこともありません。むしろ、私は何も出来ない自分が情けないです」
その言葉に、よしみは何も返せなかった。
久也と真澄が離れていった後も、よしみはレジャーシートに座っていた。
いつの間にか隣のレジャーシートで固まっていた安川高校の部員もいなくなって、一人になっている。
食べ終えた皿は、肉の脂で汚れている。脇にそれを置いて、よしみはシートに寝転がった。
視界いっぱいに、赤と青のグラデーションになった夕空が映り込む。白い雲に赤い雲、陰になった雲。
綺麗だ、とよしみは思った。
目を閉じて深呼吸をすると、緑の爽やかな香りが胸一杯に入り込んでくる。
合宿所は山の方にあるから空気が綺麗なのだろう。
目を閉じたまま、聞こえてくる様々な音に意識を向けた。
両校の生徒の華やかな談笑の声に、ラジカセから流れてくるゆったりとした音楽。ボール遊びでもしているのか、球を弾く音も聞こえてくる。
そのうちに、草を踏みしめる音が近づいてきて、よしみのそばで止まった。
薄目を開けると、安川高校の美鈴が立っていた。
「美鈴ちゃん」
「やっほー、隣良い?」
「うん、どうぞ」
身体を起こして、美鈴を見る。
見たことのないジャージを着ていた。胸元に縫われた校章の刺繍は、安川高校のものではない。
「それ、中学のジャージ?」
「あは、そうそう。うちの女子は中学のジャージ着てくるのが何か恒例で。ダサいでしょ」
「ははは」
「まー動きやすいけどね」
「三年前のでしょ。物持ち良いんだねえ」
「この日のためだけに残してる感じだよ」
よしみは中学の頃のものは苦い思い出しかなくて、全て捨ててしまっていた。
「焼肉いっぱい食べた、美鈴ちゃん?」
「食べた食べたー。お腹いっぱい」
美鈴が腹をさすりながら、満面の笑みを浮かべる。
「それよりさっ、今日の私のソロ、どうだった? 私的には、手ごたえあったんだよねー」
「うん、凄く良かったよ。モッチーと真澄ちゃんも唸ってた」
あのソロはよしみのトラウマの原因となったソロだっただけに、平静を保ったまま聴けるのか不安だった。けれど、美鈴の演奏はそんな不安も忘れてしまうほどに見事だった。
「でしょでしょ。あのフレーズ、どうも私に合ってるみたいで。すっごい吹きやすいんだよね」
「ああ……そういうの、あるよね。得意なフレーズとか、得意な曲調とか」
「そうそう。はー、よしみちゃんに聴いてほしかったから、披露出来て良かったよ」
に、と笑いかけられ、よしみも曖昧に笑った。
美鈴は自分に自信があるのだ。よしみとは違う。
自分に対する信頼が、美鈴の神懸かったソロを生み出しているのだろう。
「でさ、よしみちゃんは?」
「え?」
「よしみちゃんは、なんでソロ吹かなかったの?」
問いかけに、どくん、と心臓が音を立てた。
「私、てっきりよしみちゃんがソロ吹くんだと思ってた。モッチー君だったからびっくりしたよ」
「……うん」
「なんで? オーディションで負けたの?」
「そうじゃないよ」
「私の聴いてる感じだと、よしみちゃんとモッチー君の差ってかなりあるけど。てか、私とよしみちゃんってほとんど同じくらいの力量じゃない? なのになんでよしみちゃん吹いてないのか、すごい気になった」
「同じくらいじゃないよ。美鈴ちゃんの方が、ずっと上手い」
「そう? 変わらない気がするなあ、私は。てか、オーディションで負けたんじゃないなら、何?」
「……えーっと」
美鈴が、怪訝そうな顔をする。
「話しにくいこと?」
「そう、だね」
「悩み?」
「そんな、とこ」
「……んー、そっかあ」
言って、美鈴が腕を組んだ。
少しの沈黙の後、美鈴が口を開いた。
「……それって、よしみちゃん他の人には相談してる?」
「え?」
「誰かに打ち明けてる?」
首を横に振って答える。
「なら、話したほうが良いよ。自分だけで悩んでると苦しいだけじゃん」
美鈴の顔を見る。
「同校の子に話せないなら、私に話しなよ。他校の人間の方が話しやすいんじゃない? それに同じユーフォニアムだし」
好奇心とか興味本位で言っているのではないと、その表情が語っている。
「せっかく、こうしてゆっくり話せるんだもん。聞かせてよ。ね?」
美鈴の声色がよしみを気遣うようなものに感じられる。いつも無邪気な様子で我が道を行く美鈴にも、こういう一面があるのか、とよしみは思った。
確かに部員には話しにくい内容だけれど、他校生の美鈴になら、話しても良いかもしれない。
ちょうど周りに人もいないし、他の人に聞かれる心配はなかった。
よしみは意を決して、美鈴の方に身体を向けて口を開いた。
「実は、私、中三の時のコンクールで『海の男達の歌』をやったの」
「えっ、そうなの?」
「うん。ソロも任されてた。でも……本番で吹けなかったんだ。プレッシャーとかに負けて、一音も出せなかった」
「え……」
「私のせいで、コンクールは地区大会で終わっちゃった。当然、部員にも責められて、恨まれて……それが原因だと思うんだけど、コンクールのソロってなると、全然吹けなくなっちゃった。他の演奏会なら大丈夫なのに。『たなばた』のソロも、駄目。まともに吹けなくて……それでモッチーが代わりに吹いてくれてる」
「そういうことだったんだね」
「私……モッチーに甘えてる。私が吹かなきゃいけないのに、逃げてるんだ。また皆に迷惑かけたらどうしよう、また吹けなかったらどうしようって不安で……」
「よしみちゃん」
「ほんとはね、モッチーにはまだ荷が重いソロなの。頑張って練習してくれてるけど、『たなばた』はモッチーとは相性が良くない。だから、私がやらなきゃなのに……私が、駄目だかっ!?」
いきなり、美鈴の両手がよしみの頬を挟んできた。驚いて、言葉が途切れる。
「自分を駄目だって言っちゃ、駄目なんだよ、よしみちゃん」
「で、でも」
口を挟まれているせいで、上手く発音できない。
「最近、よしみちゃんの音、暗いなぁって思ってたんだよね。やっと理由が分かったよ」
「う」
「自分を責めて、それでも満足できなくて落ち込んでた。だから音に覇気が無くなってたんだ」
美鈴は、気づいていたのか。
「合同バンドが始まった頃はさぁ、よしみちゃんのこと、うわぁめちゃくちゃ上手い子が来たなぁって思ってたんだよね。でも、さわやかフェスティバルの後くらいからかなあ。音が悪くなってきて、どうしたのかなって思ってた」
「……うん」
「それで?」
よしみの頬から手を離して、美鈴が言った。
「それで、って?」
「聞いてると、よしみちゃんの気持ちが分からないんだよね。よしみちゃんはソロを吹かなきゃいけないって言ってるけどさ、本当はソロを吹きたいの? 吹きたくないの?」
聞かれて、言葉に詰まる。
「吹かなきゃいけない、とかじゃなくてさ。よしみちゃんはどうしたいの?」
「私、は……」
「うん」
「私が吹くと……また、同じことが起きるかも……」
「ちーがーう!」
大きな声を出されて、びくりと跳ねた。
「よしみちゃんが吹いた結果何が起きるかなんて、どうでも良いの。よしみちゃんがソロを吹きたいのかを私は聞いてるの! イエスオアノー!?」
勢いよく指を突き付けられて、よしみは思わず頷いていた。
「……イエス」
美鈴が笑った。
「それで良いんだよ。吹きたいなら、吹けば良い!」
美鈴が立ち上がった。手を取られ、よしみも立たされる。
「私はソロって、その他の部分と何も変わらない曲の一部だと思ってる」
美鈴が言った。
「ソロに必要なのは、私とユーフォニアムが出す音だけ。間違えたらどうしようとか良い演奏をしなきゃとか、そういう思考は自分が表れすぎている証拠。そんな思考は要らないんだよ。自分が人からどう見られるかなんてどうでも良くて、ただ、そこにある音楽を表現するために私はいると思ってる」
「そこにある音楽を、表現するため……」
「うん。不安や怖いって気持ちを持ってたら良い演奏が出来るわけじゃないでしょ。なら、そんな気持ちは要らない。でしょ?」
頷きで答える。
美鈴が大きく両腕を広げた。
「音を外したら良い演奏じゃないなんて、誰が決めた? 私達が、私達自身で良い演奏だと思えば、自然とそれは良い演奏になっていくんだよ。間違えたからって、私達は死ぬわけじゃないんだもん、でんと構えて吹けば良い!」
満面の笑みを、美鈴が浮かべた。
風が吹いて、美鈴の髪がふわふわと踊る。
よしみはその美鈴の姿を、呆然として眺めていた。
「そんな風に、考えたことも無かった」
「そう?」
美鈴が首をかしげる。
「皆さ、ソロを特別視しすぎてる思うんだよね。ソロだって曲の一部なんだよ。特別なものじゃない。私達は自分の出来る演奏以上のことはやれないんだもん。開き直っちゃえば良い! 花田高にとって、『たなばた』を完成させるためにはよしみちゃんのソロが必要なんだよね? なら、堂々と吹いちゃえば良いんだよ。よしみちゃんはよしみちゃんの最善を尽くす代わりに、他の子も自分の最善を尽くす。ただそれだけ、でしょ?」
「そう、なのかな」
「そうなんだよ」
グリルの傍で歓声が上がった。
勇一が大口を開けて肉をかきこんでいる。それを見て、両校の男子部員が笑っているようだ。
「よしみちゃんさ」
「うん?」
「花田の人達と、話した?」
「え?」
「他の人達は、よしみちゃんがソロを吹くことについてどう思ってるの?」
「聞いたこと、ない」
「中学の時の部員と、今の部員。全然違う人達なんでしょ」
「……うん」
「中学の時の部員はよしみちゃんを恨んだかもしれない。でも、花田の人達もそうなの? よしみちゃんが失敗したら、恨むような人達なの?」
「っ……」
「ちゃんと、部員と話したほうが良いと思うな」
くるりと、美鈴が背を向ける。
「よしみちゃんのソロ、楽しみにしてるね。県大会、お互いに勝ち上がろう」
自信に満ち溢れたその言葉に、よしみは小さく頷くことしか出来なかった。




