十一ノ九 「優柔不断」
ドライヤーの風が吹きおこる音と、女子部員の黄色い声。風呂場から流れ込んでくる蒸気に扇風機の涼しい風。
脱衣所の雰囲気が、万里は嫌いではなかった。
親に連れられて、幼い頃に何度か銭湯へ行ったことがあり、その頃の懐かしさを思い出して楽しくなる。
風呂上りの牛乳が、ちょっとした贅沢で好きだった。
「今日の練習疲れたねー」
「ほんとー。ご飯入らなかったし」
「ね、智美ちゃん。最近山田君とどうなの。上手くいってる?」
「は、何でここで山田が出てくるの?」
「奈美、スタイル良いね」
「えっ」
「私も結構自信あるんだけどなあ。奈美には負けるわ」
思い思いの話をする部員達。
花田の部員は、練習中は別人のように集中した顔つきになる。けれど、練習が終われば皆、普通の高校生だ。
学校での愚痴や、恋愛の話、昨日見たテレビ番組の話。他の部活動の子達と変わらない話題で盛り上がる。
脱衣籠の前で髪を拭きながら、万里は周りの声をぼんやりと聞いていた。
「そういえばさぁ、合宿の次の日って休みじゃん」
「だね」
「夏祭り、ひなたは行く?」
「あー、その日かあ。絵里は?」
「ひなたが用事ないなら一緒に行こうよ」
「お、良いねぇ。なら他の子も誘おうよ」
「よっし」
合宿の翌日は、八月一日だ。
その日は週末のコンクール県大会を万全の状態で迎えるために、疲れを取る最後の休日としてまるまる休みになっている。
夕方頃から、花田町で一番大きい神社で夏祭りが行われる。三河地区の祭りといえば岡崎市の花火祭りや安城市の七夕祭りが有名だけれど、花田町の夏祭りも、規模は小さくても毎年それなりの人で賑わうのだ。
万里も家が近所だから、中学生までは友人と毎年遊びに行っていた。
「万里」
いつの間にか万里の左隣に、裸の美喜がいた。
「あんたは夏祭り行くの?」
前も隠さず、タオルで頭を拭いている。
「行かないよ。誰とも約束してないし」
「私は、勇一と行く」
「わあ、良いなあ。デートだね」
「……まあ」
少し頬を染めながら、美喜が頷く。
去年、美喜と勇一は交際を始めた。部内で公になっているカップルといえば、美喜と勇一、摩耶と正孝くらいで、後は特にいない。ホルンの武夫と園未はそういう仲なのではないか、と噂されることもあるけれど、万里が見ている感じでは、恋人という雰囲気ではない。
美喜と勇一の相性は良いようで、今も熱い仲を保っている。さすがに二人ともリーダーだけあって、部活動の最中にだらしないところを見せたりはしないけれど、帰りはいつも手を繋いで帰っているのを、万里は知っていた。
「でさ、あんたも予定ないなら行かない?」
「私も?」
「三木も誘って」
「えっ!?」
「四人だと露骨だから、咲ともう一人くらい入れて」
コウキと、夏祭り。境内を並んで歩く姿を想像して、頬が熱くなった。
「で、でも、コウキ君、来てくれるかな」
タオルを頭にまき、美喜が下着を履いていく。
「勇一から誘ってもらうから、多分来てくれると思う。予定無ければ」
「そ、そっか」
「そろそろ、あんたも動かなきゃ。今朝のバスだって、三木の隣は市川さんが座ってたんだよ」
「嘘!?」
「ほんとだよー、席近かったから、私見たもん」
「咲」
万里の右隣に、咲がいた。風呂場から出てきたばかりなのか、身体から湯気を放っている。
「コウキ君と幸ちゃん、仲良さそうだった」
万里は最前列でみかと座っていたから、後ろの様子は全く気付いていなかった。
幸とコウキが。
ずきん、と胸に痛みが走る。
「思うんだけど、多分部内に幸ちゃんを応援してる子、結構いるんだよね」
「そう、なの?」
「うん。万里のことを応援してくれてる子もいるけど、なんか幸ちゃん派が多い気がする」
咲とは、以前まではちゃん付けで呼び合っていたけれど、いつ頃からか呼び捨てになっていた。
「あんたを応援してくれてるのは、ほとんど金管の子だよ」
「そう、なんだ」
美喜がじろりと睨んできて、ため息をついた。
「意味、分かってる? 三木と市川さんをくっつけようとする人が多いってことなんだよ? 月音先輩は勝手にどんどんアタックしてるけど、市川さんまで周りのアシスト受けてガンガン行くようになったら、あんた、勝てるの?」
「か、勝つとかそういうのじゃ……」
「何言ってんの、あほ」
寝間着のティーシャツと短パンを着た美喜が、脇腹をつついてくる。
くすぐったさで、身をよじった。
「三木と付き合いたいんじゃないの?」
「それ、は……」
「はっきりしないなあ。とにかく、行くでしょ、夏祭り?」
「私も行くよ、万里。もう一人くらい男の子いたほうが良いと思うし、モッチー誘ってみる。ね、行こうよ、万里」
美喜と咲は、万里のために動こうとしてくれている。
勿論、コウキと夏祭りに行けるなら、そんなに嬉しいことはない。コウキと出会ってもう一年以上になるのに、まだコウキとちゃんと遊んだことは、一度もなかったのだ。
本当に遊べたら、かなり関係を前進させられるだろう。
「……うん。二人とも、ありがとう」
「よし、じゃあ勇一に三木を誘うように言っておくから」
「分かった」
コウキと夏祭り。本当に、行けるのだろうか。
三人で話し込んでいるうちに、脱衣所の人の数は、随分と減っていた。
男子の大部屋は洋室だった。ベッドが六つ壁の左右に並んでいるだけの質素な造りで、コウキのベッドは一番窓際の一つだ。もう一つは、純也が占領している。
夕食も入浴も終わり、自由時間だった。
先ほどまで談話室でリーダー会議をしていたところで、それが済んでから、部屋に戻ってきた。
コントラバスの太郎に、相談したいことがある、と言われていたのだ。
「それで、相談って?」
コウキの一つ隣のベッドの上に、太郎が正座している。陸の使っているベッドだが、今室内にはコウキと太郎だけだった。
「は、はい、実は……」
そこで口ごもり、下を向く。
太郎はあまり自己主張の強い子ではなく、そういう子は部内の男子の中では珍しかった。
体格が大きいわりに大人しくて、話しかけても反応が薄く、まだコウキもそれほど太郎と親しくなれている気はしていない。
前の時間軸でも花田高にいた一人だが、当時も、あまり親しくなかった。
とはいえ、こうして相談してきたということは、それなりに信頼されているのかもしれない。
「話しにくいのか?」
「は、はい……」
「……なんだ、恋愛の話とか?」
びくりと、太郎の身体が反応する。図星だったようだ。
「誰にも言ったりしないよ。信頼してくれてるから、俺に相談してきたんだろ? 言ってみろよ」
太郎と目が合う。
気弱そうな目だ。もっと自信を持ってしっかりとした表情をすれば、体格の良さもあってそれなりに女の子からの需要はありそうな気がするのに、もったいない。
しばらくして、太郎が口を開いた。
「実は自分……市川先輩が、好きなんです」
「……お」
意外な名前が出てきて、言葉に詰まった。
「……そうか」
「もっと、市川先輩と仲良くなりたいんですけど……どう接して良いか分からないんです」
それを、自分に聞くのか、とコウキは思った。
太郎は、幸がコウキを好いているということを知らないのか。
「自分、人前だと思ってることが言えなくて……市川先輩とも……コウキ先輩なら、女の人とも楽しそうにお話されてるので、何か、会話術のようなものを教えてもらえないかと思いまして……」
「ん、そうか」
何と答えれば良いのだろう、とコウキは思った。
ここで相談に乗るのは簡単だ。だが、それで後から幸のコウキへの好意を太郎が知ったとしたら、太郎はコウキへ怒りを覚えるのではないか。
また、幸の想いが自分に向いていると知っていながら、太郎の恋を応援するのも、ちょっと人としてまずい気がする。もし太郎を応援して上手く幸の心を射止めたとしても、後でコウキが助けていた事実が幸に知られたら、今度は幸が傷つくだろう。
よりにもよって、幸に関する相談とは思いもしなかった。
だが、考えてみれば幸が太郎に声をかけている姿は、たまに見かけていた。あまり女性慣れしていないであろう太郎からすれば、それだけで好きになってしまうのも分からないでもない。
幸は男の子に勘違いをさせやすい、という話は聞いている。実際、コウキも幸の時々見せる積極性には心を乱されるのだ。
「あの、コウキ先輩」
呼びかけられて、はっとした。
「ああ」
「大丈夫ですか」
「ああ、うん。いや……あのな」
「?」
太郎が首をかしげる。
「あー……」
誤魔化したり隠すことは、後々を考えたときに良くない。
真剣に太郎と向き合うのなら、事実を告げるしかないだろう。
「アドバイスは、してあげられる。ただ、市川さんはな、その……好きな人が……いるんだよ」
太郎の目が見開かれる。
ぽっかりと開いて固まった口が、太郎の内心を表しているようで、心苦しい。
「その……相手がさ……た、多分、俺、なんだ」
「え……」
相談相手として選んだ人間が、好きな人の好きな人だった。そんな事実が判明したら、一体どんな気持ちになるのか。
まともに、太郎の顔を見られない。
「告白されたわけじゃない。でも、そうだって話は、聞いているんだ。だから……正直に言った……」
太郎の返事はない。
「隠して、太郎の助けをして、それで後から太郎と市川さんがその事実を知ったら、きっと二人とも嫌だったと思うんだ。だから、今言った。言っておかないと、駄目だと思った」
沈黙。長い、沈黙。
空調の低く唸るような音だけが部屋に響いていて、息苦しい。
「そう、だったんですね」
小さく、太郎が呟いた。
「幸先輩は……コウキ先輩を……」
「……うん」
「コウキ先輩は」
太郎が言った。
「先輩は、どうなんですか」
「え?」
「幸先輩のこと、好き……なんですか?」
どきりとした。
「俺は……」
今朝のバスでの出来事が、頭に思い浮かぶ。
美知留と東中のことで話すはずが、早々に美知留が眠ってしまって、隣にいた幸と話すことになった。
話しているうちに、不意打ちで手を繋がれた。
とろんとして、少しだけ潤んだ瞳。薄く桃色に染まった頬。絡み合った指に、もたれかかってきた幸の、さらさらとした細めの髪。
全てが、生々しく思いだされる。
バスが合宿所に着いた時、幸は言った。
「手、離したくない」
その言葉に、コウキの胸はおかしくなりそうだった。
「はあ……」
思わず、頭を抱える。
「こ、コウキ先輩?」
太郎に声をかけられても、頭を上げる気にもならない。
「はあ……」
ため息が、勝手に口から漏れていく。
情けない。情けなくて、自分が嫌になる。
自分の優柔不断さを、コウキは心の中で罵った。




