十一ノ八 「一音の価値」
万里が割り当てられた部屋は、三人部屋だった。
室長の理絵は先に副部長の仕事があると言って、制服から着替えずに荷物だけを置いて部屋から出ていった。後で着替えるのだろう。
もう一人のバリトンサックスの山崎にいなは、入り口に一番近いベッドの上で寝ころんでいる。部屋に入った時に、ベッドで寝るのは生まれて初めてだと興奮していた。
ひとまずにいなはそのままにして、背を向けて制服のスカートを脱ぐ。
合宿内では自由な恰好をして良いことになっているため、家から持ってきたジャージに履き替え、上も同じものに替えた。
合宿所の各部屋は空調が整っているから、場所によっては寒いところもある。ジャージなら、下にティーシャツを着ていれば温度に合わせて調節が出来る。
どうせ他の部員も洒落た格好をするわけではないのだから、気にすることもない。
着替え終えたところで、にいなのほうを振り返る。
「にいなちゃん」
「はい?」
「にいなちゃんは、着替えずに練習に行く? 帰りも制服着るんだし、あんまり汚さないほうが良いと思うけど」
にいなは、あ、と言って、慌ててベッドから起き上がった。
「それもそうですね! すぐ着替えます!」
言いながら、制服を脱ぎ始める。万里が見ていても、恥ずかしがる様子もない。
下着姿になったにいなは、手早く鞄からティーシャツと短パンを取り出して、着替えた。
「じゃあ、講義堂行こっか」
「はーい!」
扉を出ようとしたところで、ちょうど理絵が戻ってきた。
「二人とも、講義堂行く?」
「はい」
「じゃあ、鍵は私がしとく」
「ありがとうございます、理絵先輩」
頭を下げ、にいなと部屋を出た。
合宿所の宿泊棟は一文字の形をしていて、階の移動は廊下の中央にある一つの階段で行い、本棟との移動は一階の渡り廊下で行うようになっている。
花田高は宿泊棟の三階をまるまる借りている。通路の左右には部屋の扉が規則正しく並んでいて、万里達の部屋は廊下北端の東側の部屋だった。
「今日私を教えてくれる人って、どんな人ですか、万里先輩」
通路を歩きながら、にいなが言った。
階段まで移動し、下りていく。
「岬先輩っていう、去年卒業したテナーサックスの先輩だよ」
「怖い人ですか?」
「ううん、優しいよ。ちっこくて可愛いし」
にいながほっとした表情を見せ、胸を撫でる。
「卒部生の先輩に会うの、初めてだから緊張します」
「岬先輩達の代は良い人ばっかりだけど、その上の代は、怖い人が多いみたい」
「ええ……」
逸乃の代もまこの代も、上の代と諍いがあって部員が減った、という話は去年聞かされていた。
前回の合宿や定期演奏会の時に、上の代の人達とは会っている。噂通りの、強烈な人達だった。今回の合宿でも、数名は宿泊までして練習に付き添ってくれるのだという。
「でも、今日私達を見てくれるのは岬先輩の代だから、大丈夫だよ」
合宿の間、コンクールのメンバーから外れた七人は、基礎合奏の時以外は本棟の一階にある講義堂での練習には参加せず、二階の会議室で個人練習をすることになっている。
その間、卒部生が個別に練習を見てくれるのだ。
万里は一年生のホルンの落合あさかと一緒に、奏馬が見てくれることになっている。
まこがみかにつきっきりになるためだ。
個人的には、その方がありがたかった。奏馬は学生指導者だった人で、今は音楽大学に進学して活躍しているトップレベルの奏者だ。その奏馬から学ぶことは多いだろう。
一階に着き、通路の北にある渡り廊下へ向かう。
「来るときも気になってたけど、ここ、何の部屋ですか?」
通路の北端の大部屋を覗き込んで、にいなが言った。
「談話室だね。夜は就寝時間までここで過ごす子が多いよ」
「へぇ~」
渡り廊下を通って本棟に移る。トイレの前を抜ける時に、中から出てきた安川高校の生徒と出くわした。
「こんにちは!」
「こんにちは」
互いに頭を下げ、すれ違う。
今日から三日間、安川高校のコンクールチームもこの施設で合宿をしているのだ。本棟の南端にある講義堂は花田高が使い、北端にある体育館は安川高校が使用する。
狭い施設だから、この三日間、安川高校の生徒とすれ違うことは多くなるだろう。
すでに安川高校の練習は始まっているらしく、閉め切られた体育館の中からは、楽器の音が聞こえてきていた。
「明日のバーベキュー、楽しみですね、万里先輩」
二日目の夜は、安川高校と合同でバーベキューをすることになっている。
「そうだね。にいなちゃん、お肉好き?」
「大好きです! 山盛り食べたいですぅ」
涎を垂らしそうなだらしない顔をするにいなを見て、万里はくすりと笑った。
深刻そうな様子が全くないところを見ると、にいなはコンクールのメンバーになれなかったことを、それほど気に病んでいないのかもしれない。
万里は、違う。心の中は焦りでいっぱいだ。
東海大会からは、何としてもメンバーになりたい。けれど、今はコンクール曲の合奏に参加出来ないため、丘の求めている演奏がどういうものか、自分で考えて練習しなくてはならない。
これまでの学校での練習でもそうだったから、すでにメンバーの人達とは曲の理解度で差をつけられている。
その差を、少しでも埋めなくてはならない。
この合宿は、そのための貴重な時間だ。
講義堂に向かう途中で、ロビーに座っている人達が目に入った。
丘と涼子と、奏馬達卒部生だ。
「にいなちゃん、先に講義堂入ってて。先輩に挨拶してくる」
「分かりました~」
にいなと別れ、奏馬のそばへ近づく。
「奏馬先輩」
万里に気がついた奏馬が、笑顔になる。
「おお、万里ちゃん。久しぶり」
「お久しぶりです。今日から三日間、個人練習の指導よろしくお願いします」
奏馬が頷く。
「よろしく。オーディションの件は、聞いたよ。残念だったな」
「いえ……まだチャンスはありますから、諦めていません」
「うん。頑張って」
「はい。それで、練習についてなんですが」
「分かってるよ。万里ちゃんは、基礎練習よりもコンクール曲を教える方が良いよな?」
「はい。一人だと限界があって……」
「大変だよな、一人で曲の練習は。三日間しかないけど、俺も出来るだけのことは教えるから」
「お願いします」
奏馬に会うのは数か月ぶりだ。たった数ヶ月でも、高校生だった頃よりぐんと大人びて見える。どこか貫禄のようなものも感じさせるのは、万里の気のせいだろうか。
「橋本。パートから、曲の注意点などはちゃんと聞いていますか?」
丘が言った。
「はい。合奏の後にいつも逸乃先輩が教えてくれます」
「なら良いでしょう。あとは、貴方がどこまでそれを突き詰めて吹けるようにするか、です」
「分かっています」
頷いて、丘は万里から視線を外した。
「じゃあ、万里ちゃん、また後でな」
「はい、奏馬先輩」
奏馬達に頭を下げて、万里はその場を離れた。
講義堂の重たい扉に手をかけ、力をこめて開ける。中に入ると、部員達が合奏のセッティングをしている最中だった。
大原だいごが花田高に進学したのは、たまたまだった。
中学三年生の時の担任にちょうど良い学力の高校を教えてもらって、その中で一番近かったのが花田高だったから選んだ。理由は、それだけだ。
部活動に所属するつもりも、初めはなかった。
生徒玄関の前で吹奏楽部が体験会を開いていて、そこで純也に捕まってドラムを叩かされた。
そして、純也に才能があると言われた。
今思えば、上手く乗せられたのだ。
何となく入ってみるかという気になって、友人の海老原まさきと一緒に入部して、二人とも打楽器パートに配属された。
初めは、ひたすら基礎打ちだった。
テンポを一定に保ち、様々なリズムパターンが叩けるようになるまで、とにかくスティックで基礎打ちをする日々。
退屈だった。
コウキが指導する初心者合奏は、少しだけ楽しかった。上手く叩けないだいごにも、コウキは丁寧に教えてくれて、少しは合奏も楽しいと思えたのだ。
初心者合奏が無くなると、本格的な曲の練習が始まった。
それまでスティックでの練習しかしていなかったのに、バチを使う鍵盤打楽器やシンバル、バスドラムといった、触ったこともなかった楽器をやらされるようになった。
どの楽器もそれぞれ奏法が違って、覚えるのが大変だった。
練習は、きつかった。
朝から晩までひたすら、土日も休み無しで演奏し続けた。
友人と遊ぶ暇など、ありはしない。誘いがあっても、断って練習に参加していた。ずる休みをすれば、摩耶や純也にどんな顔をされるか分からなかったからだ。
こんなはずではなかった。
適当に高校生活を終わらせて、就職して金を稼いで好きなことをする。それが、だいごの人生設計だったのだ。
適当に、どころか、濃厚な高校生活になっている。
合宿などというものまであって、こうして今、眠たくなるような練習を何時間も続けている。
丘の指示が管楽器の部員達に飛び、丘の納得がいくまで、繰り返し同じところを演奏する。その間、打楽器は休みだった。
どうせ参加するのなら、演奏していたい。
今は、演奏時間よりも待機時間の方が長くなっている。
退屈だ。
だいごは、自由曲の『たなばた』で、クラッシュシンバルを任されている。
金属で出来た薄い板状の楽器で、一枚ずつ手に持って打ち合わせることで音を鳴らす。その音量が、とにかく大きい。
はじめのうち、だいごの鳴らすシンバルの音は、騒音だった。
自分でもそう思ったのだから、他の部員達も同じことを思っていただろう。
摩耶が丁寧に叩き方を教えてくれたが、見本として演奏する摩耶の音とだいごの音では、何かが違った。
同じものを使って鳴らしているのに、何故こうも違うのか。
考えても、分からなかった。
「では、もう一度全員でグロッケンソロから。曲調の切り替わるところです。意識して」
「はい!」
慌てて、だいごは立ち上がった。
丘の指揮で、演奏が始まる。
グロッケンを叩く摩耶のソロが静かな中間部の終わりを告げ、ひまりのオーボエがそれを結ぶ。
千奈のスネアドラムが曲調の転換を報せるリズムを打ち鳴らし、それに合わせてだいごもシンバルを奏でた。細かく連打し、大きく放つ。摩耶に教わった通り、身体にシンバルを当てて、振動を止める。
最初の頃よりは、かなりまともに鳴らせるようになってきている。
金管楽器群によるベルトーン風のフレーズに打楽器パートが応え、木管を中心とする連符へと流れを渡し、クライマックスへと移り行く。
前半部で奏でた主題が戻ってくるその直前、だいごのシンバルが効果的に打ち鳴らされる。
「ストップ!」
丘が手を止め、音がぴたりと消える。
丘の目が、だいごに向いた。
「クラッシュシンバルはそこの一発、何よりも大事だといつも言っていますね?」
「はい」
「今の一発、自分でどうでしたか」
問われて、だいごは返答に困った。
求められている返事は、分かっている。
「良い音では、無かったです」
「もし、その音が本番で鳴ったら?」
「……取り返しが、つきません」
丘が頷いた。
「分かっているのなら、集中しなさい。いつも言っているように、シンバルという楽器はたった一音で、その演奏を名演にすることも出来れば、最悪の演奏にすることも出来るのです。そんな楽器は、他にありません。この編成に組み込まれている楽器の中で、最も一音の価値が大きいのがあなたのそのシンバルですよ。常に最高の一音を追求しなさい」
「……はい」
初心者のだいごには、無茶な要求だ。
自分の鳴らす音に納得がいっていないのに、最高の一音など出せるはずもない。それなら、摩耶が叩いた方が良い。
「もう一度同じところから」
「はい!」
演奏は繰り返され、また、同じところで止まった。
丘が、厳しい目つきを向けてくる。
「大原、叩いてみなさい」
「は、はい」
言われた通り、一発鳴らす。
「それが、あなたの最高の音ですか?」
「……いえ」
丘の眉が、ぴくりと動いた。
「先ほど私が言ったことは、理解出来ていましたか?」
「はい」
「ならば、なぜ、二度も音を外すのですか」
知るか、と口に出しそうになって、だいごは堪えた。
そんな口をきけば、後で純也に叱られる。
答えずに俯いていると、丘がため息をついた。
「ちょうど良い時間ですから、午前の合奏はここまでにして、午後から続きをやりましょう。星野と織田は、大原の奏法のチェックをしておくように」
「分かりました」
「では、終わります」
「起立!ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
講義堂内に張りつめていた空気が緩み、部員達の声や楽器の音が騒がしさを生み出す。
隣でスネアドラムを叩いていた千奈が、大きく伸びをして息を吐き出した。
ぽん、と肩を叩かれて、振り返る。
純也が立っている。
「気に病むな、だいご。まだ時間はあるからよ。飯食ったら練習しようぜ」
「……はい」
なぜ、自分はここにいるのだろう。
なぜ、やりたくもないことをやっているのだろう。
この世の中には、自分でなくても出来ることが山ほどある。
シンバルを鳴らすのが、それだ。
代わりはいる。だいごでなければならないわけではない。
なぜ、自分はここにいるのだろう。
だいごの頭の中に、同じことが繰り返し浮かんでは消えていった。




