十一ノ五 「海と真二」
「部訓の意味?」
構えていたトランペットを下げ、莉子が首を傾げた。
海は頷いて、音楽室の壁に掲げられた部訓に目をやる。
「咲先輩に、部訓の意味が分かれば今の部のことも分かるようになる、って言われて」
「そう言えば、丘先生にも考えろって言われたね」
「莉子も忘れてた?」
「うん。すっかり」
「まあ、そうだよね」
入部してからの三ヶ月間、部は常に忙しい状態にあった。その忙しさの中でまともに考えていた一年生など、きっといないだろう。
窓の外に目をやると、灰色の雲と無数の雨粒が、町をどんよりとした色に染めている。
気分の滅入る天気だ、と海は思った。
東海地方の梅雨明けは、もう少し遅れるのだという。
「調和、かあ。ハーモニーのこと、だよね」
「普通に考えるならね。でも、そんな単純な意味かな」
「調和ったって……他に意味ある?」
布でトランペットを磨きながら、莉子が言った。
莉子の楽器は学校の備品だ。その割に傷も少なく綺麗なボディをしているのは、花田の楽器の管理が良いからなのだろう。海の使っているホルンも、塗装の剥げやへこみは無く吹きやすい楽器だ。
「ねえ真二君」
莉子に呼ばれて、トロンボーンの席に座っていた同期の真二がこちらを向いた。
「何?」
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、入部した時に丘先生に、部訓の意味を考えろ、って言われたの覚えてる?」
真二が怪訝な顔をする。少し上の方に視線を送って、思い出すような仕草を見せ、それから、ああ、と短く言った。
「そういえば言ってたな」
「ちぇっ、真二君も考えてなかったか」
「何だよ、それがどうした?」
「海が、咲先輩から部訓の意味を考えてみなって言われたんだって」
真二がこちらを向いてきて、視線が合う。
「そうなのか?」
「……ええ」
短く答える。
真二は中央中の出身だ。あまり、関わりたくない相手である。
「調和、なあ。皆で仲良くやりましょう、とか?」
「……そんなわけないでしょ」
「何で分かるんだよ、莉子」
「全国目指してる部活が、そんなぬるい意味の部訓を掲げるわけないじゃん」
「んじゃ、知らん」
「ちょっと、ちゃんと考えてよ」
「めんどいから任せた。俺は練習したい」
「もう!」
莉子が、鼻息を荒くする。
「……もういいよ、莉子。先生に言われた課題も真面目にやれない人は、ほっとこ」
「む……」
「たとえ答えが見つかっても、内藤君には教えてあげないから」
「ちょ、ちょっと、海」
「ふん。別に聞きたくないな」
真二が言った。
「それに、今分かったぜ。少なくとも北川のその態度は、あの部訓に込められた意味とは真逆だ、ってな」
「……は? どういう意味?」
「さあな。自分で考えろよ」
「何それ。意味分からないんだけど」
「そういう態度だって言ってんだよ」
「ちょ、ちょっと、二人ともどうしたの、急に」
莉子が慌てた様子で、間に割り込んでくる。
海は真二を見ていたくなくて、視線を外した。
やはり、中央中生はいけ好かない子ばかりだ。ちょっと上手いからといって、それを鼻にかけている。
「……何、二人って仲悪いの?」
「別に」
「ええ」
海と真二の声が重なる。
「あら、別に、なんて。私はあなたと仲良くなった覚えはないけど?」
「何勘違いしてんだ、北川。俺は仲が良いなんて一言も言ってないね。別にってのは、仲良くも悪くもない、無関係な人間だって意味だぜ」
頬がひきつる感覚がした。頭が熱くなり、腹の底に怒りが湧いてくる。
「もういい!」
海は立ち上がり、莉子と真二に背を向けた。
真二のそばに、一秒でも長く居たくない。
「海!」
莉子の呼ぶ声を無視して、海は音楽室を出た。
足早に、廊下を歩く。
「何よ、あいつ……!」
真二は嫌な奴だ。人を怒らせて楽しむなんて、相当な性格の悪さである。
だから中央中生は嫌いなのだ。
「ふん! あんな奴!」
「おお、どうした、海ちゃん」
「っ!?」
びくりとして、足を止めた。
部室をちょうど通り過ぎようとしたところで、入り口にコウキが立っていた。
「コウキ先輩」
「何かあったのか?」
「べ、別に何でもないです」
「そうか? ぷりぷりしてるように見えるけど」
「ぷ……!? し、してません!」
「ほんとに?」
「はい! してないです、全く、これっぽっちも、全然! 私は至って冷静です!」
「そっか」
コウキが苦笑して、身体を横にずらす。
「んじゃあ……とりあえず中に入りなよ。話聞いたげるから」
「え、い、良いです! 私の問題ですから」
「まあまあ。何か力になれることもあるかもだろ? さ、入って入って」
さりげなく背中に手を当てられ、中へと引き入れられる。
爽やかに笑いながらそうされると、断りづらい。
仕方なく、海は部室の中へと入った。
奥の机のパソコンで、副部長の勇一と理絵が何か作業をしているのが目に入る。
「で、どんな問題があったって?」
コウキが言った。
「え、っと」
「話しづらい?」
「……いえ」
隠すようなやましいことがあったわけではない。悪いのは、真二だ。
いっそ、理絵もいることだし聞かせたほうが良いかもしれない、と海は思った。
そうすれば、理絵から真二に注意が行くかもしれない。ああいう人間は、上級生の言葉に弱そうだ。
「部訓の意味を、考えてたんです。咲先輩に言われて思い出して」
「へえ」
「だから莉子と内藤君と考えてたんですけど、それでちょっと」
「真二と何かあった?」
「はい。内藤君が真面目に考えようとしないから、放っておこうとしたんです。そうしたら、私の態度は部訓とは真逆だ、って挑発されました。それで怒れて」
ふーん、とコウキが言った。
「まあ、一方から話を聞くだけでは何とも言えないから、真二にも聞いてみないとだけど……ところで、海ちゃんは真二のこと嫌い?」
「はいっ、嫌いです」
即答して、そっぽを向く。
「何で嫌いなの?」
「だって自分の腕を鼻にかけてていけ好かないですし、人のことを怒らせてくるし……」
先ほどのことを思いだして、また腹が立ってくる。
「とにかく嫌な奴なんです」
「そっか。まあ、そうすぐには人と分かり合うのは難しいよな」
「一生分かり合える気がしません、内藤君とは」
「そこまで?」
「はい!」
コウキが難しそうな顔をして、腕を組む。
「……んー、もしそうなら、海ちゃんはきっと部訓の意味をずっと理解できないままだろうなあ」
「え」
「部訓の意味は、他の人とちゃんと接してみようとしなきゃ分からないことだよ。丘先生も入部説明会の時に言ってただろ、音楽だけでなく人としての生き方も学んでいこうという意味が込められてる、って」
「……あ」
コウキの言葉を聞いた瞬間、頭の中に入部説明会の日の記憶が浮かんできた。
丘が黒板の前に立って、一年生に向けて話していた。確かにあの時、丘はそう言っていた。
「覚えてる?」
「はい」
「別に仲良くなれとか話を合わせろとは言わないさ。でも、考えが違う人間とだってお互いを尊重しあうことは出来るはずだろ?」
「それは……」
「人と真剣に向き合うことで初めて見えてくることもある。その辺、意識して真二とも向き合ってみな」
肩に手を置かれ、海は小さく頷いた。
「なんだ、北川さんは部訓の意味について考えてるのか」
「あ、はい、勇一先輩」
「海ちゃん、偉いじゃん。今年の一年生からは部訓の話題が全然上がらないから、皆忘れてるのかと思ってた」
理絵が言った。
「いえ……私も、咲先輩に言われるまで忘れてましたから……」
「それでも、偉いよ。答え、見つかると良いね」
「ありがとう、ございます」
「慌てずゆっくり考えてみなよ、海ちゃん。困った時は先輩達に聞いてみれば、答えは教えてくれなくてもヒントはくれるかもよ」
「分かりました、コウキ先輩」
「期待してるよ」
期待、という言葉に、海の胸が躍った。
コウキに期待されている。それは、ちょっとした自慢になることだ。
「頑張ります」
「ああ」
海がはじめに部訓の答えにたどり着いたら、上級生にも一目置かれるようになるかもしれない。もしそうなれば、部長に立候補するのに有利になる可能性は高いだろう。
花田高では多数決でリーダーが決まるらしいから、上級生から認められることは必須の条件なのだ。
真二と関わるのは出来れば避けたいけれど、それが答えを見つけるのに必要だというのなら、やるしかない。
とはいえ、つい先ほど喧嘩したばかりだから、仲直りをするのは容易ではない。
こちらから謝罪すれば話は早いだろうけれど、それは少し癪だ。
何とかして、向こうから謝罪してくるような形を作れないだろうか、と海は思った。




