十一ノ三 「特別」
洋子は自宅の玄関ポーチに座って、空を見上げていた。日は落ちて暗くなり、半分に欠けた月が浮かんでいる。町の明るさのせいか、星はよく見えない。
夜でも気温は下がらず、生ぬるい空気が身体にまとわりついてくるけれど、火照った身体にはそれでも充分だった。
昨日の地区大会の興奮が、まだ冷めていなかった。
音楽室で繰り返してきた練習と、何かが違った。
自分達の演奏に、震えたのだ。
演奏後に舞台からはける時、洋子の手は痺れていた。
あの感覚が、今も残っている。
実力以上の演奏だった、と思う。
それは洋子以外の部員も感じていたのだろう。会場から帰るバスの中で、誰もが顔を火照らせ、上ずった声で喜びを叫んでいた。
東中は、県大会へ進んだ。
ずっと地区大会どまりの学校だったのに、ついに壁を越えたのである。
全国大会へ行く。その目標に、一歩近づいた。
自転車の走る音が聞こえてきた。
月から視線を外して、立ち上がる。
すぐに、一台の自転車が家の前で止まった。
「洋子ちゃん」
「コウキ君っ」
「お待たせ」
「ううん、来てくれてありがとう、コウキ君」
「洋子ちゃんに呼ばれたら、来るさ」
コウキには、県大会に進めたことは昨日のうちにメールで伝えていた。けれど、直接会って話したかった。
コウキもコンクールを控えて忙しい時期だから、迷惑になると分かっていても、会いたいという気持ちを抑えられなかった。
「お家の中には上がれないんだけど、ごめんね」
「良いよ。この時間じゃ迷惑になっちゃうし。洋子ちゃんは、外に出てて大丈夫なの?」
「うん。敷地から出なければ良いって言ってくれた。ね、ポーチに座ろ?」
「ああ」
二人で、玄関ポーチの段差に腰かける。
「メールでも言ったけど……県大会進出、おめでとう」
「えへへ、ありがと」
「二位だったって?」
「うん。一位にはなれなかったけど、でも県大会には出られる」
「やったな」
「他の子もね、皆本気で東海大会に行こうとしてるよ。今日の合奏も気合が入ってて、凄く良かったもん。まだ時間はあるから、もっと良くするんだ」
「そっか」
コウキが、にこりと微笑んだ。
「花田高は、もうすぐ合宿なんだよね」
「ああ。二十九日から、三日間ね」
「良いなあ。私も合宿ってしてみたい」
「ずっと仲間と一緒にいられるから、楽しいよ。練習はキツイけどね」
「三日間練習漬け?」
「夜にレクリエーションがあったりはするけど、基本はね」
「凄いなあ」
「今年は安川高校との合同練習もあるから、例年より内容が濃いんだ」
「でも、コンクール間近に他校と合わせる時間って、もったいなくないの? 自分達だけで練習したほうが良いような気がするけど」
「合宿の目的は、部員の団結力の強化と、学校での練習とは違う気づきを得ることだから、安川との練習も何かを掴むきっかけになるかもしれないんだよ」
「へえ~」
去年、東中も花田高と合同練習をした。部員も顧問の山田も、そこで様々な学びを得た。
確かに、合同練習は自分達だけでの練習では得られない刺激がある。
「花田は……今のままじゃ全国に行けないかもしれないんだ」
「え」
「自由曲の一番大切なソロが、上手くいってない。このままだと、東海大会も危ない。だから、ソロ奏者の人達にも何かを掴んでほしい。安川との練習も、そのきっかけになるかも」
「自由曲って、『たなばた』だよね。大切なソロって、アルトサックスとユーフォニアムのソロのこと?」
「そう。サックスは問題ないんだけど……ユーフォニアムがな。今は俺の同期の男の子が吹いてる。毎日一緒に練習しててさ、どんどん良くなってはいる。でも、花田が全国に行くためには、三年の先輩のソロが必要だ。あの曲に合うのは、先輩の音なんだよ」
花田高のユーフォニアムパートは三人いたはずだ。全員、合同バンドに参加している。三年生というと、あの人か、と洋子は思った。
「その先輩の名前、何だっけ」
「池内よしみ先輩」
「池内先輩、は何でソロを吹かないの?」
「吹かないんじゃなくて、吹けないんだ。中学の時に、大きな失敗をしたみたいで」
「そう、なんだ」
「コンクールのソロがトラウマみたいになってるんだろうな。普段の演奏会ではソロを吹ける人だから。まあ……色々動いてみるよ。何とか克服してもらえるように」
「解決、すると良いね」
「うん」
東中よりはるかに優れた演奏を奏でる花田高でも、何かしらの問題を抱えている。
きっと、どこの学校もそうなのだろう。
迷ったり苦しんだりしながら、それでももがいて全国大会を目指す。もがき続けて、立ち止まらなかった学校が、全国という最高の舞台に立てるのかもしれない。
コウキが頑張ろうとしているのだ。洋子も、県大会までに出来ることを考えてみよう、と思った。
自分の演奏は勿論、部員の心のケアにも気を配ったほうが良いだろう。華も顧問の山田も、演奏面の対処で忙しい。二人が見れない部分は、洋子が支えるのだ。
「今日は急に呼ばれてびっくりしたけど、直接おめでとうを言えて良かった」
コウキが言った。
「洋子ちゃんの顔も見れたし」
「夜遅いのにわがまま言って呼びつけて、ごめんなさい。コウキ君に迷惑かけないって決めてたんだけど……どうしても直接祝って欲しくなっちゃったんだ」
「良いって」
コウキが頭を撫でてくる。
コウキに撫でてもらうのは、久しぶりだった。くすぐったいような痺れるような、甘い感覚が頭から全身に広がる。
「会えて良かったよ」
「ほんと?」
「ああ。ありがとな、呼んでくれて」
「……良かったぁ。いきなりだったから嫌がられちゃうかも、ってちょっと不安だったんだ」
「嫌なわけないだろ。洋子ちゃんの顔を見たら、疲れが吹き飛んだよ」
「わ、私も。コウキ君と会えて元気出た」
「なら良かった」
顔を見合わせて、笑いあう。
この時間が、ずっと続けば良いのに、と洋子は思った。
コウキと会える時間は限られている。なのに、やっと会えても、その時間は一瞬で過ぎてしまう。
ずっと一緒にいられたら、どんなに幸せだろう。
今まで、会えていない間のコウキがどうしているのか、なるべく考えないようにしていた。考えると、どうしても不安な気持ちが沸き上がってしまうからだ。
花田高には魅力的な人が大勢いる。その中にはコウキを好いている人が何人もいるだろう。少なくともトランペットの山口月音は確実にコウキを好いている。
月音は合同バンドの時でも、周りの目を気にせずコウキに近づいているのだ。そして、コウキがそれを嫌がっているようにも見えなかった。
ほとんど会えない洋子と、いつもそばにいる月音。どちらに心を動かされるかは、考えればすぐに分かる。
今日はコウキに会いたかった。それは、本心である。
同時に、少しでもコウキの中に自分という存在を残しておきたい、という思惑もあった。
忘れられないように、まだ、大切に想っていてもらえるように、と。
そうすれば、コウキは洋子を待っていてくれるだろうと、淡い期待をして。
ずるい女だ。
コウキは、そんなずるい人間はきっと嫌いだろう。だから、こんな気持ちはコウキには言えない。
高校生になるまでコウキの返事を聞くのは待つ、と約束した。その約束も、破りたくない。
今すぐ好きだと言いたい。何度だって、伝えたい。
けれど今、その言葉を口にしても、コウキを縛る鎖にしかならないだろう。
だから心の奥底に押し留める。コウキに受け取ってもらえるようになるまで。
隣で空を見上げているコウキの横顔を、ちらりと見た。
まつげが、女の子のように長い、と洋子は思った。
さらさらとした髪は、手入れをしているわけではなさそうなのにとても艶やかで、玄関灯に照らされて輝いている。
「ん、何?」
「ううん、何でもない」
コウキから視線を外して、月に目をやった。
元から、洋子は他の女の子よりも不利なのは分かっていた。
コウキとは二歳も離れているから、中学校も高校も一年しか一緒にいられないのだ。
残りの二年間は離れ離れで、その間、コウキのそばには何人も女の子が近づいてくる。
コウキがその中の誰かに惹かれてしまっても、洋子には止めようがない。
結局、考えるだけ無駄なのだ。ただ自分の心が不安や嫉妬で乱されるだけで、何の意味もない。
たとえコウキが誰を好きになってしまったとしても、関係ない。
洋子に振り向いてもらえるように、努力するだけだ。
「コウキ君」
「何?」
「また、呼んだら会ってくれないかな。夜に、ちょっとだけでも良いから」
くすりと、コウキが笑った。
「何でそんな遠慮がちに言うんだよ」
「だって、迷惑かなって」
「まあ……他の子に呼ばれたら、行かないかもな。でも、洋子ちゃんは特別。いつでも呼んでくれれば、行くよ」
「ほんと?」
「ああ」
「……えへへ」
特別だと、言ってもらえる。その特別が、どういう意味なのかは分からない。
それでも、今は良かった。
コウキにとって、他の女の子とは違う存在でいられている。
それだけで、嬉しい。




