十一ノ一 「トランペットパートの朝」
翌日から、すぐに泉に出された課題に取り掛かった。
コウキの個人練習の配分は、大体基礎練習が七割に曲練習が三割だ。レッスンを受ける前の基礎練習は簡単なリップスラーと音階が中心だったが、泉の楽譜を貰ってからはリップスラーの比率が増えている。
金管楽器は唇の振動によって音が出る楽器で、リップスラーとは名前の通り、指を使わずに唇や息で音程を変化させる奏法だ。このリップスラーが滑らかに吹けると、それだけ金管楽器の技量は向上していく。
実際、泉のレッスンが始まってから二週間が経っているが、その効果を感じ始めていた。
わずかずつでも、奏法に安定感が増してきているのだ。
複雑なパターンのリップスラーを吹けるようになってきたことで、唇などの身体のコントロールが良くなっているのだろう。
一通り課題のリップスラーをやってから、もう一枚の楽譜を取り出した。
必殺のテーマである。
高校野球の応援でよく演奏される曲で、最初にトランペットのソロがある。
コウキは、前の時間軸でも野球応援に行ったことは無かったから、実際に吹くのは初めてだった。
メトロノームを鳴らし、まず吹いてみる。
音の高さはそれほどでもないが、フレーズの奏で方はやや難しさを感じるソロだ。
伴奏もなくトランペット一本で吹くところだから、さらりと吹いてしまうよりは、自分の感覚でたっぷりと抑揚をつけて吹いても良さそうではある。
泉は、球場で吹いているつもりで練習しろ、と言っていた。
味方を鼓舞するような演奏が、応援では求められるだろう。ならば、球場に轟くような迫力のある音が良いか。
ぶつぶつと呟きながら、楽譜を眺める。
曲を練習する前は、必ずこうするようにしていた。まず一度吹いて、曲の雰囲気を知る。それからどういう風に奏でるか想像を膨らませ、イメージが形作られたところで、吹きながら調整していく。
そうすることで、より自分の吹きたい音楽が明確になっていく。
「……ようございます、コウキ先輩」
とん、と肩を叩かれて、反射的に身体が跳ねた。
横に、莉子とみかが立っていた。
「びっくりした。二人とも、いたのか」
「挨拶しましたけど、集中してたみたいで聞こえなかったんですね」
みかが笑って言った。
「ごめん、おはよう」
「おはようございます。相変わらず、朝早いですね」
「ん、まあ癖だな。それに、早く来ると人が少なくて集中できるし」
「私達も今日は早く来たつもりだったんですけど……先輩、何時から来てたんですか?」
「六時くらいか?」
「えっ、一時間も前じゃないですか」
「学校あった時は、いつもそれくらいだったからな」
「凄いなあ」
みかが、感心したように息を吐いた。
「……コウキ先輩、今吹いてたの、必殺のテーマですか?」
莉子が言った。
「ん、そうだよ」
「野球部の応援、今年あるんですか?」
「いや、これはレッスンの先生から、課題として出されたから練習してたんだ」
「必殺が、課題?」
「そう。ソロを吹くのに必要なことを知るために、って」
「へえ」
莉子が、楽譜を覗き込んでくる。
「野球応援、したいのか、莉子ちゃん?」
「え、あ……まあ、やってみたいなあとは思ってました」
「なら野球部に勝ってもらわないとな」
「そうですね。でも、うちってあんまり強くないですよね」
「まあ、そうだなあ。ここ数年間は、二回戦にすら進めてないみたいだな」
がっくりと、莉子が肩を落とす。
その背中をつつきながら、みかがくすりと笑った。
「莉子は野球部に好きな人がいるんですよ」
途端に、莉子の顔が赤く茹で上がる。
「なっ、ち、違う! 適当言わないでよ、みか!」
「あれ~、おかしいなあ? 違ったっけ?」
「違うよ!」
「え~」
莉子とみかがじゃれ合うのを、コウキは微笑みながら眺めた。
「……仲良いな、二人は」
「良くないです! 知りません、こんな子」
莉子が鼻を鳴らして、背中を向ける。
「照れてるんです、莉子は」
「うるさい!」
「はいはい。コウキ先輩の邪魔になるから、そろそろ向こう行きましょうねえ、莉子ちゃん」
「っもう! こどもみたいに扱わないでよ!」
「じゃあ先輩、練習頑張ってください」
「二人もな」
鼻息荒い莉子の背中を、みかが押しながら部屋を出ていった。
あの二人はよほど気が合うのか、かなり仲が良い。昼食も、いつも一緒に食べていたはずだ。
指導相手の多いコウキに気を遣っているのかもしれないが、みかは最近コウキに練習を見てもらわずに、莉子と一緒に練習している姿も見かける。
同期で教え合うことで学べるものもあるし、莉子の技術力なら充分みかの指導を出来ると判断して、コウキは二人のことを見守っていた。
楽譜に視線を戻し、練習を再開する。
三十分ほど、必殺のテーマを練習した。吹き方や抑揚のつけ方を変えつつ、イメージに近づくよう、調整していく。
だが、いきなり思うように吹けるわけではない。
それについては、徐々に理想の演奏に仕上げていけば良いだろう。
少し休憩をしようと総合学習室へ向かうと、逸乃が机の上に腰かけながら携帯を眺めていた。
「逸乃先輩、おはようございます」
「お、コウキ君。おはよ」
「朝に弱い逸乃先輩が、珍しく今日は早いですね」
「一言余計だぞ」
睨まれて、コウキは肩をすくめた。
「てかコウキ君、何で必殺のテーマ吹いてるの?」
「あぁ、レッスンで課題として出されたんです」
「へえ? 変わった課題だね」
「ソロを吹けるようになるための課題みたいです」
「ソロを?」
「はい。俺も、ソロがばんばん吹ける奏者になりたいなって」
「今でも、吹けてるじゃん」
「全然ですよ。逸乃先輩と月音さんに比べたら。俺も二人みたいに吹けるようになりたいんです。それに、今、二人に敵わないってことは、来年のトランペットパートはソロの質が落ちるってことでもありますから」
「なるほどねえ」
手に持っていた折りたたみ式の携帯を閉じて、逸乃が微笑んだ。
「先を見て動いてる後輩がいると、嬉しいよ。来年も我らがトランペットパートは安泰だね」
「だと良いですが」
「それで、どう、レッスンの先生は? 良い感じの人?」
「ん、そうですね、俺には合ってるなと思います」
「泉先生だよね」
「です」
「ふーむ、コウキ君がソロを狙ってるなら、私も頑張らなきゃ。『たなばた』のソロも、月音に取られたし」
「先輩と月音さん、どっちも良いソロでしたけどね」
「うん。私もそう思う。だから次は私が吹くよ」
「自信満々ですね」
「そりゃあ、ね。私は花田のトップだよ?」
「そうでした」
顔を見合わせて、笑いあう。
去年の夏頃までの逸乃は、自分の腕に悩みを抱えていて、壁を突き抜けられずにくすぶっていた。その影響でスランプにも陥り、一時は思い通りに吹けなくなったりもした。
それを克服できたのは、楽しく吹くという原点を思い出したからだ。
逸乃は、スランプを脱してから急激に成長していった。
その過程で、トップ奏者としての自信も確立されたのだろう。
月音という並び立つ存在が現れても、逸乃は揺るがなかった。
今の逸乃は、以前の時間軸の逸乃とはまるで違う。正真正銘の花田のトップだ。
「そういえば、橋本さんも逸乃先輩と同じ先生に習いだしたんですよね?」
「うん。万里ちゃんがプロのレッスン受けたいって言うから、私が紹介した」
「初心者から始めて、一年でもうプロのレッスンも受けるようになって……橋本さん、凄いなあ」
「ほんとね。まあ、それだけオーディションで落ちたのが悔しかったんじゃないかな」
逸乃が窓際に移動して、生徒棟の方を眺めた。
今日は夏休みの課外があるのか、二、三年生の進学クラスの教室は窓が開いている。
「橋本さんは、十分メンバーになれる実力でしたけどね。たまたま今年の選曲の関係で、トランペットの枠が減ったから外れちゃっただけで」
「まあね。でもオーディションの結果は関係なく、プロの指導を受けるのは良いことだよ。間違いなく力が伸びるし。それにほら、花田って金管セクションのプロレッスンってないじゃん。木管は蜂谷先生のがあるのに」
「はい」
「だから花田って意外とプロと接する機会って少なくて、もったいないよ。プロと会うと、受ける刺激の量が違うし。他の子にも、出来ればレッスン受けて欲しいよね」
「そうですねえ。丘先生は金管セクションにもプロを呼びたいみたいですけど、中々良いあてがないみたいですね」
「全体指導が出来る人は、そういないもんね」
「そうそう……お、噂をすれば」
廊下の方に目をやると、万里が階段から姿を現した。隣には、心菜もいる。
こちらに気がついた二人が、手を振りながら近づいてくる。
「どうしたんですか!? 逸乃先輩がもういるなんて!」
逸乃が眉をぴくぴくと動かしながら、引きつった笑みを浮かべる。
「どういう意味かな、心菜ちゃん?」
「だって、逸乃先輩はいつもギリギリに来るイメージだから!」
「私だってたまには早く来ますぅ。悪いんですかぁ?」
「雪が降っちゃうかも!?」
「~っ、このぉ!」
逸乃が心菜に抱きついて、暴れ出した。横腹をくすぐられた心菜が笑い声を上げ、それを見て万里が笑っている。
「橋本さんは、この時間に来るの珍しいね」
「あ、うん。ちょっと寝坊しちゃった。コウキ君は、やっぱり早いね」
部員の中で、朝練に積極的でいつも早く来るのは、万里、智美、ひまり、星子、ひなた、海くらいだ。他の部員は早い時もあれば遅い時もあったりとまちまちである。
コウキが知る限り、万里がこの時間に来るのは久しぶりだった。
「なんか表情が疲れてない、橋本さん?」
「寝不足、かな。昨日、レッスンで貰った曲の指練習とかしてたら、寝るの遅くなっちゃって」
「熱心だね」
「もっと上手くなりたいから」
そう言って微笑んだ万里の笑顔は力強く、鬱屈とした暗さを感じさせないものだった。
メンバー外となった時に落ち込んでいた様子は、もう万里のどこにも見当たらない。
「さて、じゃ、せっかく早く来たから練習するかな」
心菜を解放して、逸乃が言った。身体をまさぐられて笑い苦しんでいた心菜は、息を荒くして地面にへたり込んでいる。
「心菜ちゃん……立てる?」
「は、はい……」
「行こ」
万里が手を貸し、心菜が立ち上がる。そのまま二人は部室へ移動していった。
今の二人を見ていると、オーディションの時にぶつかりあいがあったとは思えない。結果に関しては、互いに思うところはあったはずだが、それも乗り越えたということだろう、とコウキは思った。
「まったく……何してんすか、逸乃先輩」
「生意気な後輩をちょっとこらしめたのさ」
「月音さんかっての」
「月音ほどじゃないよ。月音のはもっと」
「私が何ー?」
「ひっ」
「おわっ!?」
月音の不意打ちの声に驚いて、コウキは大きく飛び退った。
いつの間にか、後ろに立たれていた。逸乃と二人して、全く気が付かなかった。
「月音さん!?」
「あっ!?」
次の瞬間には、逸乃の身体に、月音が絡みついていた。
「私はもっと、何だって、逸乃?」
月音の手が、逸乃の身体をまさぐっていく。
「んっ……やぁ……!?」
逸乃の顔がみるみる赤くなっていき、吐息が熱を帯びだす。
大事な部分には触れていないのに、何故こうもなまめかしい雰囲気になるのだろう。
逸乃の弱いところを、的確に月音の手が撫でていく。その度に逸乃の口からは声が漏れ、熱っぽさが増していった。
「月音さん……周りに人いるんですよ?」
「んー、でも逸乃がやってほしそうだったからさ。ね、逸乃?」
「っ!?」
耳元で月音にささやかれ、逸乃の身体がびくりと震える。
これは、まずいだろう、とコウキは思った。
総合学習室にいた他の部員達も、ある者は興味深々といった様子で、ある者は困惑した表情で、逸乃と月音を見ている。
ため息をついて、コウキは無理やり月音を逸乃から引きはがした。
「もう終わり!」
「あっ、まだ途中だったのに」
「何が途中ですか。月音さんのは冗談になってないですよ」
先ほどの地面にへたりこんでいた心菜の様子が、まだ可愛く思えてくる。
逸乃は、完全にやられていた。
「じゃあ……次はコウキ君?」
瞳を輝かせながら小首をかしげる月音の頭に、コウキは軽く手刀を落とした。
カエルの鳴き声のような潰れた声が、月音の喉から飛び出る。
「何すんのー」
「何が、じゃあ、ないんだよ。アホなこと言ってないで練習しますよ」
「アホって言うなぁ」
月音が頭をさすりながら、唇を尖らせる。
騒がしい朝だが、トランペットパートは大体いつもこんな調子だった。
全員仲が良いからこそなのかもしれないが、ツッコミ役がコウキしかいないのでは、忙しすぎて疲れるではないか、とコウキは肩を落とした。




