十一ノ序 「ソロに必要な華やかさ」
「次、ハープ下ろすから男子集まって!」
楽器係の文の声に、東中の男子部員達が返事をする。
トラックの中に数人が入り、巨大な箱を持ちあげた。
「ぶつけないようにね」
「はい!」
繊細な楽器であるハープは、運搬するためにはハードケースに入れる必要がある。楽器とケースを合わせると百キロ近くにもなり、数人で抱えることでやっと持ち運べる重さだ。
吹奏楽部は大型楽器が多いため、意外と力も要る部活動である。こういう時、男子がいると助かるのだった。
ハープの後も、次から次にトラックから楽器が運び出されていく。
洋子も文と一緒に楽器係を任されていて、部員に指示を出していた。
「舞台裏に持って行ったら、史君の指示に従ってね」
打楽器の小物を受け渡した後輩に伝えると、その後輩は元気な返事をしてトラックから出ていった。
東中の楽器係は、大抵打楽器パートが担っている。使用する打楽器の種類が多く、それはパートでしか把握出来ないため、打楽器パートが兼任したほうが管理がしやすいからだ。
洋子は補佐で、文が楽器係の長だった。
演奏前にどこかにぶつけて壊れたりしたら冗談では済まされないため、楽器の運搬は慎重さが求められる。部員の気を引き締めるには、力強い指示が必要で、それは洋子や史よりも、気が強い文が最適だった。
「これで最後」
大型の鍵盤打楽器であるマリンバを部員に運び出させ、文が息を吐いた。
「忘れ物ないね、洋子ちゃん」
「ばっちり」
「いよいよ、だね」
「うん」
トラックの中は少しだけ薄暗く、蒸し暑い。
額に浮いた汗をハンカチで拭って、洋子は荷台の外に目を向けた。
市民会館の、楽器搬入口。コンクリート製の空間の正面には、少しだけ開かれた巨大な扉があり、その内部は舞台裏に繋がっている。
ここを利用するのは何度目だろう、と洋子は思った。
吹奏楽コンクールの地区大会。
その、当日である。
七月はあっという間に過ぎていった。毎日、コンクールの練習だった。
オーディションもあった。東中のオーディションは最初の一回のみで、そこで十名ほどの部員がメンバー外となったため、今年のコンクールには彼女達は出ないことが確定している。
出られない本番を外から応援する彼女達の気持ちは、どのようなものだったのか。
経験したことのない洋子には、彼女達にどんな言葉をかけて良いのか分からなかった。
メンバー内では、演奏についての意見の対立で喧嘩も起きた。
練習の厳しさに泣く子や逃げ出す子もいた。
騒ぎの無い日が無かった、と言っても良い。
それら全てが、頑張ってきて良かったね、と笑って言えるようになるかどうかは、今日の結果で決まる。
東中の全ての打楽器類が舞台裏へ運び込まれ、巨大な扉が静かに閉められた。
トラックの付近に残っていた部員で、運転手に礼をする。
「ありがとうございました!」
「頑張ってください」
運転手が帽子を脱いで、笑顔で言った。
それに返事をし、トラックが去っていくのを見送る。次の団体が搬入口を使うため、トラックは一旦離れるのだ。
「では、管楽器の人達は、ロビーの方に移動して華ちゃんの指示に従ってください。こっちに戻ってこようとしてる子がいたら、声をかけて搬入が終わったことを報せてください」
「はい!」
部員に指示を出し、洋子は文と一緒に舞台裏に入った。
まだ史達打楽器パートが準備をしているから、その手伝いをしなくてはならない。
不意に、制服のポケットに入れていた携帯が震えたことに気がついた。
「すぐ行くから先に行ってて、文ちゃん」
「はーい」
舞台裏の人目につかない幕の陰に移動し、携帯を取り出す。画面には、コウキの名前が表示されていた。
慌てて、メール画面を開く。
『洋子ちゃん、おはよう
もうすぐ本番だろうからこのメール見る時間無いかもだけど
頑張って!
応援してる』
頭の中で読み上げた文面が、コウキの声で再生される。
コウキは今日は大切なレッスンの日だと言っていた。忙しいだろうに、合間に送ってきてくれたのだろう、と洋子は思った。
自然と、笑みが浮かぶ。
本当は校則で携帯は持っていてはいけない。けれど、もしかしたらコウキがメールをくれるかもしれない、という期待もあって持ってきてしまっていた。
部員をまとめる副部長という立場なのに良くないことだとは思ったが、どうしても、コウキからのメールが欲しかった。
「良かった」
呟いて携帯の電源を落とし、ポケットに仕舞う。
わずかに胸にあった不安も、コウキのメールを読んで消し飛んだ。
もう大丈夫だ。
洋子にとって、他の誰の励ましの言葉よりも、コウキの言葉が力となる。
拍手が鳴って、アナウンスが入った。出演順一番の学校の演奏が始まる。
地区大会の開始である。
幕の裏から出て、洋子は史達のもとへ向かった。
打楽器の準備を終わらせて、管楽器の子達に合流しなくてはならない。
東中の出演順は十番だから、すぐに出番は来る。
反響板の向こうで、朝一番の一発目とは思えないような快音が放たれた。滑らかに奏でられる課題曲が、技術力の高さを感じさせる。
コンクールの出演順一番とは、最も嫌われる順番だった。朝の早い時間が演奏時間となるため、調子が整わないうちに本番を迎えることになるし、その日の基準として各学校の演奏と比較されやすくなる。
一番になるということは、よほどの実力を示さなくては県大会に進出するのが難しい、ということだ。
「凄いな」
洋子は呟いた。
一番目のハンデを感じさせないような演奏である。
東中は、この学校にも負けられないのだ、と洋子は思った。
自然と、握っている手に力が入っていた。
『おはよう、コウキ君
皆で県大会に行けるように、がんばるね
コウキ君もレッスン、がんばって!
メールありがとう』
洋子から返ってきたメールを見て、コウキは微笑んだ。
時間的に、今は一番目の学校が演奏している頃だろう。洋子は打楽器パートだから、舞台裏で準備をしているのかもしれない。
一昨日、録音した通し演奏を洋子と華が持ってきてくれて、聴かせてもらった。
それはちょっと驚くような演奏で、これが東中か、というのがコウキの感想だった。
一言で言えば、まとまりのある演奏、である。
粒の揃った音の連続に明快なダイナミクス、表情の豊かなソロと伴奏。言葉にすれば簡単でも、それを五十人が演奏で実現するのは至難の業だ。
今年の中学校部門は、強豪の海原中がシード権を得ているため、地区大会には出てこない。県大会への枠は二枠だが、それを考えれば、東中にも十分可能性はある。
「頑張れよ」
呟いて、携帯を仕舞う。
それからしばらくして、部屋の扉を開けて男が入ってきた。
立ち上がって、出迎える。
「待たせたね、三木君」
「いえ」
「はい、お茶」
持ってきた盆の上の湯飲みを、男が手渡してくる。
それを受け取り、一口飲む。熱すぎず、飲みやすい茶である。
男が隣の椅子に腰かけると、ふう、と息を吐き出した。
「今日で二回目だね。前回出した課題は、練習してきた?」
「はい、毎日やってます、泉先生」
「うん。じゃあ、早速やろうか。お茶は、そこのテーブルに置いといて良いから」
頷いて、湯飲みを脇のテーブルに置く。
膝の上のトランペットを手に持って、構えた。
「楽譜の一番上からね。テンポはフリーで」
「分かりました」
コウキは深く息を吸って、音を出した。指を使わず、倍音を用いて音を変化させていく。吹きながら、滑らかで音色が安定した状態であるかに注意を払う、
目の前の譜面台には、一枚の楽譜が置いてあった。泉がくれた、リップスラーの様々なリズムパターンが記されたものだ。
今まで吹いたことのないような、一息で長く吹くパターンが多かった。
泉の指示通り、パターンを上から順番に吹いていく。
三つ目のパターンを吹いたところで、泉の手が演奏を止めてきた。
「うん。うん、良いね。一息で滑らかに二オクターブのリップスラーが出来るようになってる」
「こういうパターンのリップスラーは、今までやってきてなかったので、集中的に練習しました」
「うん。トランペットの演奏においては、一息でニオクターブ以上の音程差を、スムーズな息の流れで吹けることが重要だってのは、前回教えたね」
「はい」
「これからもそこを基本として大切にしよう。リップスラーでも良いし、音階でも半音階でも、何でも良い。どの音もクリアにひっかかりなく吹けること。それを、一音ずつ確実に音域を上げていく。これを繰り返していくと、どんな音も綺麗に吹けるよ」
「はい」
泉は、コウキが七月から習うことになったプロのトランペット奏者だ。
レッスンを中心に活動していて、口コミで生徒を集めている評判の良い人である。
まだ若く三十代だが、実力は高い。ふくよかな体格をしていて、その身体から発せられる音の圧は、今まで身近にいたどのトランペット奏者よりも強く、身体に響いてくる。
コウキは安川高校のトランペットのパートリーダーに紹介してもらったおかげで、レッスンを受けられることになった。
「じゃあ、別パターンのリップスラーと、簡単な練習曲も渡しておくから、これは次回の課題ね」
泉がファイルから楽譜を取り出し、手渡してきた。
そこに記された見覚えのあるフレーズに、コウキは首をかしげる。
「……これ、必殺のテーマですか?」
「そうそう! 高校野球の応援でよく聴くよね」
「ですね」
「野球部にとって重要な、ここぞという場面。自分達のスタンドから、球場を盛り上げるこのトランペットソロが響き渡る。想像するだけでもカッコいいよね」
「確かに」
「ソロ奏者に求められるのは、そういうここぞって場面での華やかさだよ。三木君が球場でそれを吹いてるつもりになって練習してみて」
「分かりました」
「それじゃ、『たなばた』のソロも見ようか」
「お願いします」
ソロを任せられる奏者になりたい。
それがコウキの今の目標で、泉には前回会った時に伝えてあった。
これまでは、バンドの一奏者としての最適な演奏を求めて努力してきた。
自分の音の良さは活かしながらも、他者と溶け合う演奏をする。バンドで吹くにはそういう合わせる力が必須で、好き勝手に吹いているだけでは、決してバンドとして良い演奏にはならないからだ。
だが、最近ではコウキも逸乃や月音のようにソロを吹きたいと思うようになってきた。それも、コンクールのような大きな舞台で、だ。
自分の演奏を、もっと聴いてほしい。そういう欲が出てきた。
「このユーフォとサックスの後のトランペットソロは、華やかとはちょっと違うよね。長さも四小節だけだし。でも、こういう短く静かなソロでも、存在感は要るんだ」
「はい」
「吹いてみて」
頷いて、楽器を構える。
泉が指を鳴らしながら、腕を振った。それに合わせて、ソロを奏でる。
「うん。うん。悪くないよ。でもね、うーん、その演奏だと。三木君じゃなくても良いよね、っていう感想かな」
「……はい」
「決して悪い演奏じゃないけど、華がない。華やかな音っていうのとはまた意味が違うんだけど……難しいよね」
「はあ……」
「まあ、これから少しずつ身に着けていこう。全国大会のオーディションまでには、吹けるような形にしたいね」
「吹けるように、なるでしょうか」
全国大会のオーディションは東海大会の一週間後、九月の上旬に行われる。
それまでは泉のレッスンは二週に一回受けられるよう頼んであるから、後三回だ。その三回で、何かを掴みたい。
「それは、分からない。成長の速度は人それぞれだからね。まあ、焦らずやっていこう。焦ると、良くないからね」
泉の柔らかな微笑に、コウキは頷きを返すしかなかった。




