七 「変わりたい」
「皆さん、良い夏休みを過ごせましたか。私はこの夏……」
校長の話が始まって、美奈は、思わずあくびをした。
今まで通った、どの学校の校長も話が長かったが、彼は特別そうだった記憶がある。
教師が大勢の前で話をする機会など、そうそうあるものではない。人に聞かせる話術を、身に着ける機会を得ないまま昇進してしまうから、そうなるのだろう。
眠りかけているのか、斜め前に立つ女の子の頭が不規則に揺れている。今にもがくんと体勢を崩しそうだ。
他にも、ちらほらとそういう様子の子が見える。
壇上から見ていて、校長は気がつかないのだろうか、と美奈は思った。
夏休みが明け、始業式だった。
この時間軸に渡ってきてから、ひと月以上が経つ。
今までで、一番楽しい夏休みだったと言えるだろう。以前は休みだろうと関係なく勉強に費やしていたから、誰かと心行くまで遊んだ経験は、初めてのことだった。
二学期からも、密かに楽しみにしている。
また小学生の授業を受けるのは、退屈極まりないが、前の時間軸で出来なかったことを、全力で楽しむ良い機会でもある。
それに、コウキはどうなったのかも、気になっていた。
今朝登校してきた時、すでに教室にいたコウキの様子を観察した。
コウキは自分の席に座って考えごとをしていたから、観察しているだけでは、変わったのか変わっていないのか、よく分からなかった。
前の時間軸では、終礼の後に、解散した教室で喜美子に謝罪していた。この時間軸でもそれが起きるなら、終礼の後のはずだ。
できれば、それを確かめたい。
もし、コウキが前の時間軸のように変わっていたら。
それで、自分はどうしたいのだろう。
斜め前に立っていた女の子が、ついに体勢を崩して倒れかける。
慌てて姿勢を正した彼女を見て、周りの子はくすくすと笑っていた。
始業式の後、教室に戻ってきた四組は、担任の遠藤から明日以降の予定などの説明を受けた。
遠藤の話は、校長に比べて短くて助かる。おかげでチャイムが鳴ると同時に、四組は解散になった。
「美奈ちゃーん、ばいばーい」
クラスメイトの奈々と亜衣が、美奈の前を通り過ぎていく。
「ばいばい」
二人に手を振り、美奈もランドセルを背負った。
ちらりと、教室の隅に目を向ける。喜美子が、自分の席に座ったまま、うつむいている。
喜美子は、いつも誰よりも遅くに教室を出る。目立つ行動をして、クラスメイトから何かされるのを避けるためだろう。
まだ、コウキも教室内にいる。
もし前の時間軸と同じことが起きるのだとすれば、コウキと喜美子が二人になる必要がある。
二人から視線を外し、美奈は教室を出た。廊下の離れたところで、四組の教室からクラスメイトが全員出てくるのを待つ。
最後の一人が出たのを確認して、四組の前に戻った。
中から、話し声が聞こえてくる。
「……ただ、福田さんをいじめていたのは、間違いだったと気づいたんだ。もう俺、福田さんをいじめたくないし、福田さんとも普通に接したい。だから、謝りたくて。本当にごめん」
どくん、と心臓が音を立てた。
扉に身を隠しながら、そっと教室を覗く。
コウキが、喜美子の前に立って、頭を下げていた。
前と同じだ、と美奈は思った。
「……三木君が謝ってきても、他の人は私をいじめるから、変わらないよ」
喜美子が言った。
「俺がいる前で、そういう奴がいたら、止める」
「出来ないよ……そんなの」
「いや、やるよ。いじめとか、もう嫌なんだ。俺がするのだけじゃなくて、他の子がするのを黙って見てるのも。そんなことで、許してもらえるとは思ってない。けど、俺がしたいからする。それだけ、伝えたかった。じゃあ、また」
はっとした。
コウキが出てくる。
慌てて、隣の三組の教室に入って、扉の裏に隠れた。
コウキが、廊下を歩く音が聞こえてくる。
「何してんの、大むっ」
怪訝そうな顔をしながら近づいてきた友達の口を、咄嗟に塞ぐ。気づかれてしまっただろうか。
そっと、廊下に目をやる。
コウキは、こちらを振り向くことはなく、そのまま階段の方へと姿を消した。
息を吐き、友達の口から手を離す。
「もう、急に何ー?」
「ごめんね」
「何、なんか隠れてたの、大村さん」
「あ、うん、ちょっと」
「三木?」
「あ、えーと、そういうわけじゃ」
友達が首を傾げる。
前の時間軸でも、こうして隠れたのだ、と美奈は思った。
冷静に考えれば、隠れる必要などないのに、何故かそうしてしまった。
「邪魔しちゃってごめんね」
「いや、良いけど」
「もう帰る。ばいばい」
「え、うん」
友達に手を振り、三組の教室を出て、階段へ向かう。
手すりから身を乗り出して下を覗いたが、もうコウキの姿は見えない。
美奈は手すりを握る手に、力を込めた。
心臓が、激しく音を立てている。
やはり、この二週間でコウキに何かあったのだ。それで、コウキは変わった。
だから、何がどうということもない。
ただ言い表しようのない感情が、美奈の胸の中にはあった。
翌日から始まった授業に、美奈はうんざりした。
国語の授業は教科書にひらがなが多く読みづらいし、算数の授業は基礎の基礎過ぎるし、これから半年間、こういう授業が続くのだという事実に、ため息をつかずにはいられなかった。
覚悟していたことではあるが、想像以上につまらない。といって、授業中に別のことをするのも良くない。
結局、ノートの端に落書きをしながら、時間が過ぎるのを耐えるしかなかった。
放課になって、引き出しの道具箱に教科書をしまおうとして、借りていた図書室の本に目がいった。
取り出して、表紙を眺める。
返却期限は今日だ。
男の子と妖精の冒険譚で、児童向けの本特有の読みづらさはあったが、意外に面白かった。四巻までは図書室にあったから、返却のついでに、二巻を借りても良いかもしれない。
コウキには、読んだ感想を伝える約束もしている。後で、機会をみて話しかけてもみようか、と美奈は思った。
時計に目をやる。
次は理科の授業で、理科室に移動だから、今から図書室へ行く時間は無い。昼放課に行くしかないだろう。
「美奈ちゃん、教室移動しよー」
そばに来たクラスメイトが言った。
「うん」
道具箱に本を仕舞い、理科の用具を持って席を立つ。
理科室は職員棟にあるから、移動に時間がかかる。チャイムが鳴るまでに席に着いていないと怒られるため、ほとんどのクラスメイトが、すでに移動を開始している。
美奈もクラスメイトと一緒に、理科室へと向かった。
その後、理科室で行われた授業は、国語や算数、社会といった授業に比べれば、まだまともなほうだった。
理科では実験をするから、多少は楽しめる。やっている内容はこども向けにしても、黒板の内容を書き写すだけの授業より、ずっと良い。
実験を繰り返しているうちに、もうチャイムが鳴って、授業が終わった。
小学校の授業は、四十五分間と短めなのは助かる。
次は給食だ。
美奈が進学した中学校では昼食は弁当制だったから、給食を食べるのは十六年ぶりとなる。
実は、密かに楽しみにしていたことの一つでもある。
今日の献立は、あらかじめメニュー表を見て確かめてあった。カレー、うどん、いちごクレープ。小学生が飛びあがって喜ぶ、人気メニューの日だ。
立ち上がろうとして、扉の方に目をやると、一斉に理科室を出て行こうとするクラスメイト達で、出入口が詰まっていた。
少し間を置いて、人が減るのを待った方が良いか。
椅子に再び座り、視線をさ迷わせる。すると、コウキも同じように席に座って、入り口の混雑を避けていることに、気がついた。
一人で、窓の外をぼんやりと眺めている。
話しかける良い機会だ、と美奈は思った。
立ち上がってコウキに近づき、そっと肩に触れる。
振り返ったコウキが、にこりと笑いかけてくる。
「大村さん。どうした?」
「あの本、読んだよ、コウキ君」
「あの本?」
「少年マモルと妖精ベリー」
「うわっ、懐かしい題名!」
「懐かしい?」
「あ、いや何でも。ごめん、それであの本がどうしたの?」
「え、読んだら感想言うねって約束してたから」
「約束……?」
コウキが考え込むような顔になる。
まさか、忘れたのだろうか、と美奈は思った。
数秒してから、はっとした表情をコウキが見せた。
「ああ、図書室でした約束ね」
「そう。良かった、忘れたのかと思った」
「ごめん、ちょっと混乱してた」
頬をかきながら、コウキが曖昧な笑いを浮かべる。
「どうだった? 面白かったでしょ?」
「うん、こども向けのわりに、意外と楽しめた」
「こども向けって、俺らもこどもじゃん」
「あ、うん、まあそうなんだけど」
「何巻まで読んだ?」
「一巻まで。昼放課に二巻を借りに行こうかなって」
「マジ? 俺も昼放課に図書室行こうと思ってたから、なら一緒に行く?」
「え」
「授業が退屈だからさ、何か本でも読んで時間潰そうかと思って、借りに行くんだ。あ、一緒に行くの、嫌なら良いけど」
美奈は慌てて首を振った。
「行く」
「そか。じゃあ、給食の後の掃除が終わったら、声かける」
「うん」
「てかさ、一学期まで大村さんとこんなに話したことないよね」
「あ、そう、だね……確かに」
「なんか、俺の思ってた大村さんのイメージと違うな」
どきりとした。
怪しまれたのだろうか。
「……変?」
「いや、変じゃないけど、大村さんから話しかけてくれたの、記憶の中だと初めてかなって」
「ああ……そう、かも」
「意外と話しやすい子だね、大村さん」
「それは」
中身が、大人の美奈だからだ。
以前の美奈なら、自分から仲良くない男の子に話しかけたり出来なかったし、今のように、平然と会話をすることも出来なかった。
「てか、俺のこと下の名前で呼んでくれるなら、俺も美奈ちゃんって呼んで良い?」
「えっ!?」
「駄目?」
「あ、いや、駄目じゃない、よ」
「ほんと。ならこれから美奈ちゃんで」
に、とコウキが笑った。
眩しい笑顔だ。
美奈も、小さく微笑み返した。
「コウキ君、夏祭りの時より話しやすくなったね」
「夏祭り……あ、ああ、夏祭りね。そう、かな?」
「うん。あれから、何かあった? 雰囲気、がらっと変わった」
「あー、まあ色々と……」
気まずそうに、コウキが目を逸らす。
聞かれたくないことなのだろうか、と美奈は思った。
前の時間軸でも、詳しく事情を教えてもらってはいなかった。
「……あのさ、コウキ君」
「うん?」
「……昨日、喜美子ちゃんに謝ってた、よね」
「え」
コウキの目が見開かれる。
「見てたの?」
「……うん」
沈黙。
言わないほうが、良かっただろうか。
しばらくしてから、コウキが口を開いた。
「まあ……そう、謝ってた。いじめも無くすって伝えたくて」
「凄い……よね。ちゃんと謝れるって」
「いや……そんなことないよ。そもそも、いじめをしてたこと自体、最低なんだし」
「それは……」
「俺がしてたのは、謝って許されることじゃない。凄くなんかない」
扉の方に目をやると、喜美子が、最後尾で理科室を出て行くところだった。
うつむきがちに歩いている。
前の時間軸で、もし美奈が勇気を出して、もっと早くに喜美子に声をかけていたら。
そうしたら、喜美子はああして一人でいることはなかったのではないか、と美奈は思った。
自分の保身のために、美奈は、喜美子を見捨てていた。他の子のように直接いじめたりはしなくても、間接的には喜美子を傷つけていた、と言える。
コウキが助けなかったら、喜美子はきっと卒業するまで、いじめられ続けていただろう。
「私は」
美奈は呟いた。
「私は、それでも凄いと思う。だって、私も同じだから。喜美子ちゃんがいじめられてるのを、見ない振りをしてた。私もいじめの対象になりたくなくて、逃げてた」
「美奈ちゃん」
「私も……いじめに加担してたようなものだよ。でも、そんな自分を変えられなかった。だから、自分の間違いを認めてやり直そうとしてるコウキ君は、私は凄い、と思う」
コウキが見つめてくる。美奈も、じっと見つめ返した。
「……ありがとう。そういう風に言ってもらえると、嬉しいよ」
コウキが立ちあがる。
「教室、戻ろうか」
「……うん」
「美奈ちゃん、さっき俺のことを変わったって言ったけど、美奈ちゃんこそ変わった気がする」
「え」
「夏休み、何かあった?」
聞かれて、返事に困った。本当のことは、言えるわけがない。
しばらく黙り込んでいると、コウキが小さく笑った。
「言いたくないことは言わなくて良いよ。行こう。今日カレーだぜ」
歩き出したコウキの後についていく。
「……コウキ君」
「ん?」
「喜美子ちゃんのいじめをなくす、って言ってたよね」
「ああ」
「それ、私も手伝って良いかな?」
「え」
「私も、変わりたい。いじめを見ない振りをする、卑怯な人間のままでいたくない」
「美奈ちゃん」
「駄目、かな。私一人じゃ……どうやっていじめを無くせば良いのかも、喜美子ちゃんを助ければ良いのかも分からない。だから、コウキ君のを手伝わせてほしい」
かつて、コウキは、一人で喜美子へのいじめを無くしてみせた。喜美子だけではない。他のクラスでいじめられていた子も、コウキは助けていた。
周りを巻き込んで、一人ずつ味方にしていった。
一度は大人を経験した美奈でも、あの頃のコウキのように、上手く動ける気はしない。所詮、美奈は人と大して関わらないまま生きてきた人間だ。
だが、コウキの手助けをすることくらいなら、出来る。
この時間軸に渡ってきて、母や祖母、智美のことを大切にすると決めた。それが、美奈にとっては重要だった。
だが、それだけでは駄目な気もしていた。
美奈は、未来の出来事を知っているのだ。その力を、誰かを助けることに使うべきではないか、とも考えていた。
コウキに力を貸せば、少しは役に立てるのではないか。
「俺だって、上手くやれるか分かんないよ?」
「大丈夫、コウキ君は、上手くやれるから」
「言い切るね」
「私は信じてるもん」
「信じてる、か」
コウキが、やわらかく笑った。
「じゃあ、手伝ってもらおうかな。正直、ありがたいよ。味方がいたほうが動きやすくなると思ってたから。それが女の子なら、なおさらね」
「! うん」
「手伝ってもらうからには、失敗して美奈ちゃんまでいじめられるようなことにならないよう、気を付けるから」
何故だろう。
コウキは、十六歳も年下のこどものはずなのに、話していると、まるでそんな気がしない。
コウキが大人びているからなのか、それとも美奈自身が、この身体の持ち主だった、こどもの美奈の感覚に引きずられているからなのか。
不思議な感覚だ。
廊下を歩いていると、給食室からの良い匂いが漂ってきた。
懐かしいカレーの匂いだ、と美奈は思った。




