六 「二人のコウキ」
目の前に広がっている光景が夢なのだと、美奈にはすぐに分かった。
笑顔のコウキが立っていて、その隣には、険しい表情のコウキもいる。
コウキが二人いるなど、夢でしかあり得ないだろう。
笑顔のコウキは、背筋も伸びて、柔らかな表情だ。
もう一人のコウキは、猫背気味で、顔に影が差している。
二人は同じ姿形をしているのに、まるで雰囲気が違う。
そうか、と美奈は思った。
笑顔のコウキは、美奈の記憶の中のコウキなのだ。いつも優しくて、心地良い時間を与えてくれた、美奈が恋をしたコウキだ。
もう一人のコウキは、それ以前のコウキだろう。
「何で、変わったの?」
美奈は言った。
「さあ」
笑顔のコウキが答えた。
「いつ、変わったの?」
「さあ」
険しい表情のコウキが答えた。
「……同じだな」
二人のコウキが、口を揃えて言った。
「何が、同じ?」
「俺と、君が」
「……どういう意味?」
問いかけて、実際に自分が口にしたのだ、と美奈は認識した。
目が覚めていた。
薄暗い自分の部屋だ。
枕もとで、規則正しく音を立てている時計に目をやる。うっすらと見える時計の針は、零時頃を指している。
ほんの一瞬の夢だと思っていたのに、眠ってからかなり時間が経っていた。
美奈は時計から目を離し、枕に頭を戻した。
息を吐いて、天井を見上げる。
小学六年生の夏休みに入るまで、コウキは笑顔を浮かべることが少なかった。
よく他の男の子に馬鹿にされると、激怒して喧嘩をしていた。怒るコウキを面白がって、男の子達がコウキを挑発していたのだ。
それは、軽いいじめのようなものではあっただろう。
だが、コウキは自分がいじめられていながら、一方で他者をいじめてもいた。相手は、クラスメイトの喜美子だ。
喜美子は、同じ服を何日も着てくるとか、汚れが目立つとか、そういうことが多い子だった。
それで、男の子も女の子も喜美子を避け、陰で嗤っていた。コウキもその一人で、喜美子はクラスで一人ぼっちだった。
美奈は、それを見て見ぬ振りをしていた。自分もいじめられるかもしれない不安もあって、助けられなかったのだ。
今思えば、美奈もいじめに加担していたようなものである。
そんな喜美子に救いの手を差し伸べたのは、コウキだった。
夏休みが明けて始業式の日、コウキが喜美子に謝罪をしているところを目撃した。コウキは、喜美子にいじめをなくすことを誓い、その約束の通りに、クラス内からいじめをなくした。
同時に周りに好かれるようになり、コウキは、クラスの中心人物になっていった。
夏休み前と夏休み後で、コウキは変わった。
昨日の夏祭りで会ったコウキは、まだ変わる前だったということだ。
つまり、あと二週間程の間にコウキに何かがあって、まるで正反対の性格になるのだ。
一体、コウキに何が起きるのだろう、と美奈は思った。
不思議な店の主である元子は、この時間軸は以前の時間軸と似ていて、美奈の行動次第で未来が変わっていくと言っていた。
ならば、このまま始業式までコウキと接触せず、未来に大きな変化が起きないように気をつけていれば、コウキはかつてと同じように何らかの経験をして、性格が大きく変わるのではないか。
すでに、かつてとかなり違う行動をとっているし、夏祭りでコウキとも会ってしまったから、確実にその何らかの出来事が起きるかは分からない。
それでも、あの優しかったコウキに、もう一度会ってみたい気はある。
もし二学期から、またあの優しいコウキに会えるのだとしたら。
かつて叶わなかった恋も、やり直せるのではないか。
「……なんて」
呟いて、自嘲の笑みを浮かべた。
相手は小学六年生で、美奈は二十八歳である。
たとえコウキがかつて好きだった男の子だとしても、今の美奈からすればこどもだ。
前と同じようにまた恋をするなど、無理だろう。
「寝よう」
呟いて、美奈は目を閉じた。
中学三年生の時、美奈はコウキに別れを告げた。あの時、美奈の恋は終わったのだ。最初で最後の恋だった。
もう、美奈が誰かに恋をすることなど起きないだろう。
母親と友人がそばにいる。
今は、それで良いのだ。
眠りについた美奈が次に見た夢には、コウキは出てこなかった。
学校の図書室は、夏休みの間は週に一度だけ開かれて、自由に貸し出しが可能になる。プール開放に比べて利用者は少ないが、それでも一人二人はこどもの姿がある。
美奈も家での暇つぶし用に、いくつか借りようと思って訪れていた。
ゆっくりとした足取りで、棚を眺めていく。
図書室といっても、あまり本は多くない。小説、伝記、雑学。ジャンルごとに分けられているが、どれも児童向けだ。
めぼしい本は、以前の時間軸で読んでしまっているから、あまり借りられそうなものは無い。
「あてが外れたなあ」
適当に一冊手に取り、本の中から貸出カードを取り出す。
昔はこうやって本の中に貸出カードが入っていて、これと図書室に用意されている自分専用のカードに名前を書いて借りていたものだ。
公共の図書館などはバーコード式が普及して廃れていったから、懐かしい仕組みである。
「あれ」
貸出欄を眺めると、一番上にコウキの名前があった。というよりも、コウキの名前しか書かれていない。
「コウキ君も、これ借りたんだ」
小さな男の子が、自分の前に現れた妖精と一緒に、不思議な異世界へ飛ばされて冒険をする話だ。
シリーズ化されていて四巻ほど出ているが、それほど有名な作品ではないから、コウキも読んでいるのが意外だった。
そういえば、と美奈は思った。
コウキは本をよく読む子だった。以前の時間軸では、二学期以降、仲良くなったコウキと、よく図書室で会っていた。
二人だけの時間で、それが美奈とっては、一番楽しい時間だった。
「懐かしいな」
貸出カードを眺めて、くすりと笑う。
受付へ持って行って、貸出カードと自分用のカードに名前を書いていく。書き終えたそれをクリップでまとめて、受付に置かれている箱の中へと入れた。
読み終えたら、コウキにこの本の話を振ってみようか。もしコウキがあの優しいコウキに変わっていたら。きっと楽しく話せるだろう。
そんなことを考えながら、美奈は出入口へ向かい、扉に手をかけようとした。だが、その瞬間、勝手に扉が開いた。
廊下側から、誰かが開けたのだった。
下半身が目に映り、男の子だと瞬時に悟る。目線を上げ、相手の顔を見た瞬間、美奈は小さく声を上げた。
「……コウキ君」
「あ」
こちらに気づいたコウキが、目を逸らす。
しまった、と美奈は思った。
始業式までは、もうコウキと接触しない方が良いと思っていたのに、早速会ってしまった。
すぐに立ち去らなくては。
「ご、ごめんね。どくよ」
コウキの脇を抜けて、図書室を出る。
通り過ぎる時、コウキの目線が美奈の手元に向いた。
「あれ……その本」
コウキが指を指す。
「あ、うん。今借りた」
「……面白いぞ、それ」
「そうなんだ」
「俺以外に読む人、いたんだ」
「あんまり、有名な作品じゃないよね」
「俺は好きだけどな」
「そっか。また読んだら感想言うね」
「え……あ、ああ」
「ごめん、私もう行くね」
「ああ」
「またね」
ちょっと手を振って、図書室を離れる。
油断していた。まさかコウキも図書室に来るとは思いもしていなかった。
少し会話してしまったが、未来に影響はあったのだろうか。
出来れば、コウキには、あの優しいコウキになってほしい。
何がきっかけで、コウキが変わることになるのか分からない。美奈の行動が、その邪魔になる可能性が無いとは言い切れない以上、夏休みが明けるまで、もう学校へは来ないほうが良いかもしれない。
歩きながら、手に持った本を眺める。
コウキの表情は、夏祭りで会った時と同じく険しかった。本を見て自分から話しかけてきてくれたが、やはり、どこか雰囲気が違った。
話し方まで、記憶の中のコウキとは違う気がする。
「あと二週間、か」
生徒玄関から外へ出る。
運動場を突っ切る時、一度振り向いて校舎を見上げた。二階の端の、図書室。
開かれた窓からは、本棚を見上げているコウキの姿が見えた。
仕事の激務でばててました。
遅くなってしまい、申し訳ありません。
また更新頑張っていきます。




