三の一 「奈々の悩み」
始業式の日に奈々の相談を受けてから、一週間が経った。
新入生も入学してきて、校内は賑やかだ。
授業も通常通り行われるようになり、またいつもの日々が始まっている。
給食を食べ終え、昼清掃の時間。ゴミ出し係として、外のゴミ捨て場に向かうところだった。一組の拓也もゴミ出し係なので、昼清掃の時間は、いつも拓也と歩いている。
「なあ」
「うん?」
呆けた顔をしている拓也。今日は、奈々のことで、探りを入れてみるつもりだった。
「始業式の日さぁ、奈々さんと仲良くしてたじゃん」
「仲良く? 俺殴られたけど」
「それは、スキンシップみたいなもんだって……」
「馬鹿って言われたぞ」
「うーん……それは、奈々さんと遊んだのに買い物に付き合っただけ、なんて言ったからだろ」
拓也はよく分かっていない様子で、首を捻っている。
「女の子と一対一でどこか行ったら、それは遊んだってことになるじゃん」
「そういうもんか」
完全に納得したわけではなさそうだが、理解しようと何度も頷いている。
「で、奈々さんのことはどう思うの?」
変に遠回しに聞いても拓也にはわからないだろうと思い、直球で聞くことにした。直球でも、変に勘づくことも拓也ならない。
「どう、とは?」
「好きとか嫌いとか仲良くしたいとか」
質問に、拓也は顔をしかめ、唸りだした。
拓也は、普段からあまり深く考えて人と接していないように見える。基本誰とでも仲良くなっているし、好きとか嫌いとか、感情で付き合う相手を選んでいないような感じがする。
それだけに、突然こういう質問をされても、ぱっとは答えられないのだろう。
廊下や階段を箒で掃いている生徒を避けながら、一階へと下りていく。ゴミ捨て場はグラウンド横にある。
三年の教室からだと、ゆっくり歩けば往復で十五分ほどはかかる。
「まあ……嫌いじゃないよ。女子の中では話すほうかな」
歯切れの悪い感じだ。微妙な評価だが、今の拓也からするとかなり良い方か、とコウキは思った。
少なくとも、他の女の子よりは一歩前という感じだ。
「じゃあ、例えば奈々さんと付き合うとかは?」
眉をおかしな形につりあげて、拓也がこちらを向く。
怪訝そうにコウキの全身を見て、
「付き合うって……ないでしょ。好き同士でするもんじゃん。俺達そういうのじゃないし」
と言った。
やはり、奈々の気持ちには全く気付いていない。
「奈々さんだって、拓也のこと、そう悪く思ってないと思うけど?」
「殴ってくるのに!?」
「いや、それは……」
返事に困った。
奈々は冗談でも、手が出る。彼女なりの無意識のスキンシップの一つなのだろうが、拓也にそれは逆効果らしい。
後で、伝えたほうがいいだろう。
それにしても、かなり鈍すぎる。将来は大丈夫かと心配になるレベルだ。
前の時間軸では、中学校を卒業した後は、拓也とほとんど会わなくなった。違う高校に進学して、時間が合わなくなったのだ。だから、その後で彼女ができたのかも知らないのだが、今の様子からすると、一生独身のまま生きていく男になりそうだ、という気もする。
拓也自身がそれで平気なら何も問題はないのだが、いざ大人になって恋人がほしいと思うようになった時、恋愛に対して免疫が無いと、うまくやっていけないだろう。
コウキが心配しても仕方の無いことではあるが、大切な友達なのだ。関われている今のうちに、恋愛に対して前向きになってくれたらとは思う。
この時間軸に戻ってきてから、他人におせっかいを焼くようになってしまった。あまり出過ぎたことをしても、その人のためにならないと分かっている。だから、求められれば協力するくらいにしてはいるが、つい、こうしたらどうか、ああしたらどうか、とアドバイスしたくなる。
限られた若い時間を、有効に使ってほしいと思ってしまうのだ。
何気なく過ごすうちに、後悔が積み重なったりする。せっかくの人生を、そうして悔いながら生きるのは、もったいない。
コウキが今こうしてこどもに戻って生きているのは、自分のためだけでなく、他の人にもより良い人生を送ってほしいという思いもあっての事だった。
「まあいいや。じゃあ、拓也ももし良い子がいたら、付き合っても良いかなとは思うわけ?」
「何なんだよ、変な質問ばっかして」
「いや興味があって。もう中三だぞ? そろそろ拓也も考えないのかなぁと」
「それを言うならコウキもじゃん」
「いやまあ、俺は良いの」
「んだよそれ……」
文句を言いながらも、拓也はまた考え出した。聞けば律儀に答えてくれる。拓也はそういうやつだ。
髪をくしゃくしゃにかきながら、答えを搾りだそうとしている。
「んー……まあ、仮にそんな子がいれば、アリかもな」
その言葉が意外だった。
「へえ。前は付き合うとかありえないみたいに言ってたじゃん。変わったんだ」
「ははっ。まあどうせいないからな、そんな子」
「いやいや、意外と近くにいるかもよ」
「どうかな。女子を良いと思った事が無いから、分かんねえや」
話しているうちにゴミ捨て場に到着した。係にゴミ箱を渡し、空になったゴミ箱を受け取る。
これで教室に戻れば掃除の時間が終わるので、楽な仕事だ。夏場は若干臭ったりする時もあるが、困るのはその程度なので、掃除の分担としては人気の仕事である。
拓也もゴミ箱を受け取ったので、また教室に向かって歩き出す。
「じゃあ今の時点で、一緒にいて楽だなって思える子とか、思い浮かんだりする?」
「うん? うーん……特に」
一階の職員室の窓を拭いていた友人に声をかけられて、拓也が手を上げて返事をした。
その様子を眺めながら、これはかなり難しそうだ、とコウキは思った。
奈々を悪くは思っていないようだが、現時点では特別良いとも思っていない。まず奈々を女の子として意識するようになるまでが、かなり大変だろう。意識するようになれば、後は簡単とも言えるが、その壁は高い。
奈々に限らず、他の女の子でも拓也を落とすのは至難の業だろう。
これ以上聞いてもあまり成果はでないと思い、質問を切り上げた。
ひとまず、奈々が付き合える可能性が無いわけではないと分かったし、奈々の協力をするのは問題なさそうだ。
出来ることから、一つずつやっていくのが確実だろう。拓也相手に、いきなりポンと恋人関係になろうと思っても、無理だ。長期戦を覚悟したほうが良い。
「という感じです」
放課後、部活動が始まる前に、奈々に拓也との会話の要点を伝えた。
教室にはすでに人はほとんどおらず、コウキと奈々を除いて、数人がたむろしているだけだ。黒板の前で授業の内容を復習していて、こちらには見向きもしていない。
一応、奈々があまり他の人に聞かれたくないというので、彼らに聞こえないよう小声で会話をしていた。
報告を聞いた奈々は、机に突っ伏して頭を抱えながら、じたばたとしている。
「うう~!」
「あんま、拓也を殴んないほうがいいね」
ばんっと机を叩いて顔を上げ、涙目を向けてくる。
大きな音に、何事かと黒板の前にいたクラスメイトがこちらを見た。手で、何でもない、と示す。
「分かってるけどっ!! つい、恥ずかしかったりとかで、出ちゃうんだよ……」
どんどんと声がしぼんでいく。喋り終えて、また机に頭を落とした。
奈々が本気で殴ったりしていないことは、拓也も分かっているだろう。ただそれが、あまり良くないほうのではあるが、一種の愛情表現だとは、分かっていないと思う。
「ボディタッチはあれからどうなの?」
「してるよ。挨拶する時とか、ちょっと触れたり。すっごい緊張するけど」
「成果は?」
「あるのかないのかわかんない……」
ひときわ大きなため息が奈々の口から洩れる。
そうすぐに、拓也が奈々を意識するようになるはずもない。簡単に女の子に靡くようなら、すでに彼女の一人でも出来ているだろう。
「まあ……まだ一週間だし、地道にやっていくしかない」
「うん……」
といっても、コウキも、奈々がどうすれば拓也に振り向いてもらえるようになるのか、全く見当もついていない。
恋愛に興味のある、年頃の男の子であれば、ボディタッチをされたりわざわざ違うクラスなのに挨拶されたりすれば、勘違いしたり、もしかして、と浮かれたりもするだろう。
だが拓也は、サッカーとゲームに夢中で、女の子に全く興味がない男だ。普通にしているだけでは、突破口もつかめない。
「積極的に行ってみたら? 拓也はぐいぐい来られても嫌がるタイプじゃないし」
「一緒に下校したり?」
「そう。 あんまり直接伝える感じじゃなく、好きってオーラを出しながら接していけば、また変わってくるかもよ」
「うん……やってみる」
「それくらいしか言えないけど、また、相談のるよ」
「ありがと。三木君」
手を振って、教室を出た。
そろそろ部活動の時間だ。来週は、新入生の部活動説明会がある。コウキは新入生の前でアンサンブルを披露する役があり、その練習をしなくてはならない。部活動説明会の成功の可否によって、新入部員の数も決まる。重要な仕事だ。
洋子も、東中に入学していた。以前聞いていた通り、吹奏楽部に入るのだという。やりたい楽器はまだはっきりとは決まっていないらしい。
仲の良い洋子が吹奏楽部に入ってくれたら、随分と過ごしやすくなる。楽しみだ。
どの楽器に配属されたとしても、面倒を見てあげたい。吹奏楽を、楽しいと思ってもらえるように。
階段を下ろうとしたところで、下からやってきた智美とばったり出くわした。部活動の前だからか、体操着に着替えている。
目が合って、一瞬お互いに立ち止まった。
「……お疲れ、ばいばい」
軽く手を上げて、反応を見る。
「あ……うん、じゃあね」
ちょっと頷いただけで、智美はそのまま横を抜けて、階段を上って行った。
二年生までは、すれ違っても、たまに挨拶をする程度だった。同じクラスになって一週間。挨拶くらいは普通に出来るようになった。
ただ、せっかく同じ教室にずっといるのに、接し方が分からなくて、まだそこから進展していない。
相変わらず、智美の気持ちは読めない。挨拶を返してくれるのだから、嫌われてはいないだろうとは思うのだが。
「おっ、三木君! 急がんと!」
後ろから、チューバの同期の萌が走ってきた。そのまま、一緒に部室へ向かう。
萌とは、すっかり仲の良い友達になっていた。彼女がコウキを異性としてではなく、ただの友達として見てくれるおかげだ。変に気を使って接する必要がなく、拓也や洋子とはまた違う気楽さがある。
よく考えたら、気を許せる女の子の友達は、萌が初めてかもしれない。他の女の子達には、どうしても遠慮する部分はある。
萌は、いつも笑顔でいるし、一緒にいるとこちらまで明るい気持ちになってくる子だ。
「アンサンブル、いけそうかなあ?」
萌が言った。
「うん、個人的には良いと思う」
萌も一緒に部活動説明会でアンサンブルを披露する。いわゆる金管八重奏というやつで、トランペットが三人、トロンボーンが二人、ホルンが一人、ユーフォニアムが一人、チューバが一人の合計八人で演奏する。
アンサンブルは、指揮者やメトロノームも使わずに、全員の感覚を合わせて吹く。呼吸やテンポ感、ハーモニー。合わせる部分は数多くあり、そのどれか一つでも崩れたら台無しになる。
たった八人だから、実質全員がソロ奏者のようなものだ。ミスをすれば目立つし、誰か一人が崩れたら、演奏全体が崩壊する危険もある。反対に、ぴたりとはまれば、うっとりとするような素晴らしい演奏になる。
このアンサンブルで、新入生の気持ちを惹きつける必要がある。
曲目は堅苦しいものよりも、新入生に馴染みのある曲のほうが良いだろうと、顧問の山田が編曲した、人気の歌手の歌を演奏することになっている。
萌は中学校からチューバを始めたが、今ではすっかり主戦力となっている。萌の安定した低音があるおかげで、演奏のしやすさが段違いだ。
小柄なのに、見事にチューバを吹きこなす。才能があるのだろうが、努力も人一倍する子だった。よく一緒に部活後に残って練習をしている。
それで仲良くなったというのもあるかもしれない。
「成功させたいよな」
「だねっ。目指せ新入部員五十人!」
「それは、多すぎだな。絶対まとめきれないだろ」
「はは、そうかな」
三年生が卒業して、今の吹奏楽部には三十人しか部員がおらず、かなり少ない。夏の大会にフルメンバーで出場するためには、少なくとも二十人ほどは入部してほしい。
そのためにも、部活動説明会は重要な機会だった。ここで新入生をつかめないと、大会も危うくなる。
コンクールは、人数が多ければ良いわけでもないし、小編成として三十人前後で出ることもできる。ただ、どうしても上の大会に行くのが難しくなる。人数が多ければそれだけ表現の幅が広がるし、ハーモニーの厚みも増す。
小編成では、そもそも東海大会までで、全国大会が存在しない。上を目指すのであれば、大編成で五十人前後のバンドを組むのが基本だ。
コウキ達アンサンブルメンバーと、新入生に向かって部の説明をする部長の陽介は、合奏から外れて個別練習を顧問から言い渡されている。
この出来次第で部員数が変わってくるのだから、顧問も本気だ。
「三木君の彼女さんも入ってくるんでしょ?」
にやにやしながら、萌が肘でつついてくる。
「彼女じゃないって」
萌が言っているのは、洋子のことだ。
どこから漏れたのか、洋子のことを萌は知っていた。まだ会ったことはないようだが、よくその話題でからかってくる。
実際に洋子が入部したら、もっとからかってくるかもしれない。他人の恋愛話が、萌は大好きなのだ。
「あんま人の前でいじんないでよ?」
「はーい、分かってるよん」
からからと笑いながら、萌は一足先に音楽室へと入っていった。
洋子は、からかわれるのが嫌いだ。そういう想いはさせたくない。
それに、洋子には去年、気持ちを告げられている。さっきのようなからかいは、洋子に複雑な想いを抱かせるだろう。
萌はちゃんとそういう所は察してくれる子だから心配はしていないが、出来れば洋子には、平穏に部活動を楽しんでほしい。
まるで、親馬鹿のようだ。つい、洋子のことはあれこれと気を回しそうになる。
だが、洋子ももう中学生なのだ。あまり、コウキに世話を焼かれたくはないかもしれない。
自分自身も、洋子を不快にさせないよう気を付けよう、とコウキは思った。
音楽室から、部員が鳴らす楽器の音が聴こえだした。始まる。
扉を開けて、中へと足を踏み入れた。




