四 「夏の保健室」
音がする。
何の音かは、分からない。
視界は暗闇だ。
次第に、音がはっきりとしてくる。
蝉の鳴き声だった。
次いで、誰かの声。
ざわめき。
そして、身体を触られる感覚。
「……しっかりしろ、大村! おい!」
はっとして、目を見開いた。いくつもの足が、視界に映っている。
冷たい床の感触。
目を動かし、美奈を覗き込んでいる顔を認識した。
小学生の時の担任だ。確か、六年四組だった。
「起きたか!」
身体を起こそうとして、止められた。
「倒れたんだ、大村。無理に起きるな」
「いえ」
感覚に、異常はない。
身体を起こし、素早く周囲に目を向ける。
体育館らしい。周りを同級生達が囲んでいる。懐かしい顔ぶれだ。
皆、こどもだ、と美奈は思った。
何かの集会の最中だったのか。体育館中が騒然となっているらしい。
美奈は自分の身体に目をやって、小さくなっていることに気がついた。着ている服にも、見覚えがある。小学生の頃に気に入って着ていたシャツだ。
あまりにもはっきりとしすぎている。夢ではないのだろう。
「保健室に行こう、大村」
「え、いや」
「良いから。抱えるぞ」
そう言って担任は美奈を抱きかかえると、生徒の間を抜けて体育館を出た。
外は晴れていた。大きな雲が、空に浮かんでいる。
「驚いたぞ、急に倒れて」
「ごめんなさい」
「謝らなくて良い。目が覚めて良かった」
自室で全身を襲った苦痛は、今は何もない。頭痛や、めまいなどの症状も感じない。
「何があった?」
「……分かりません。でも、無理をしているわけではなく、平気ですので……先生、おろしてくれませんか。自分で歩きます」
足を止め、担任が目を見開きながら美奈を凝視した。
ゆっくりと、地面に下ろされる。
自分の足で立ち、異常が無いことを確信した。
「もう大丈夫です、先生。ご心配をおかけしました」
「あ、ああ」
「……? 何でしょう」
「え、いや、お前、そんなにハキハキと喋る子だったか?」
そうか、と美奈は思った。
この頃の自分と今の自分では、性格も大きく変わっているだろう。周りには、急に人が変わったように感じるかもしれない。
「倒れた時に頭でも打ったんですかね、ふふ」
冗談をかますと、担任が何度か瞬きをして、豪快に笑った。
「……大丈夫そうだな。だが無理はさせられないから、とりあえず保健室で休め」
「分かりました」
担任の後について歩き、保健室へたどり着いた。
「ゆっくり寝ていなさい」
窓を開けながら、担任が言った。
「はい」
美奈がベッドで横になったことを確認すると、担任は保健室を出て行った。
足音が遠ざかったのを確認して、身体を起こす。
開け放たれた窓から吹き込む風が、カーテンを揺らしている。
蝉の声が、騒がしい。
夏か、と美奈は思った。
自分の手を見つめ、何度か握っては開いてを繰り返す。
感覚が、生々しい。
音も触覚も、匂いすらも、全てがはっきりと感じられる。
「本当に、戻れたんだ」
脱いだ体育館シューズに目をやった。つま先に、六年四組と書かれている。
夏ということは誕生日前だから、十一歳か。
父は、死んでいる。
拳を握りしめた。
出来ることなら、救いたかった。
話したいことも、沢山あった。一番戻りたかったのは、あの時だ。
吹き込む風が、美奈の頬を撫でていった。
息を、ゆっくりと吐き出す。
過ぎてしまったことは、仕方がない。
元々、どこに戻るかは未確定だったのだ。中学生に上がる前の年代に戻れただけでも、幸運といえる。
「これから、どうしようか」
呟いて、ベッドに倒れこむ。
勢いで薬を飲んだは良いが、何も考えずに戻ってきてしまった。
元子は何も言っていなかったが、恐らく、もう元の時間軸には戻れないだろう。
今後、この時間軸で生きていかなくてはならないのであれば、何をやるべきか。
何かをしたくて、薬を飲むことを選んだわけではない。
といって無為に過ごせば、また、前と同じ結果になってしまう。
考えながら、天井の汚れが気になってぼんやりと眺めた。
なぜ天井なのに汚れているのか。掃除係が雑巾でも投げつけて汚したか。
そういえば、天井が低い。この学校はこんなに小さかっただろうか。世界全体が、縮んだような気すらする。
思考はだんだんまとまらなくなり、雑念で満たされていく。
そのうちに、美奈は瞼が重くなるのを感じ、眠りについていた。
「美奈、起きて。美奈」
揺すり起こされて、目を開けた。
霞む視界。汚れた天井。
女の人の顔。
「あ……」
母だった。
仕事着のまま、ベッドの隣に座っていた。
「お母さん」
慌てて、身体を起こす。
元の時間軸で最後に見た母の顔は、やせ衰えて皴だらけだった。動かなくなった母の頬に触れた時、その冷たさに涙をこぼした。
目の前の母は、若く美しい姿をしている。
手を伸ばし、恐る恐る母の頬に触れる。あたたかく、滑らかな肌触り。
生きている。
母が、生きている。
自然と、涙が溢れていた。
「どうしたの、美奈?」
美奈の手を取りながら、母が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「会いたかった、お母さん」
母の身体を抱きしめる。
もう、二度と会えないはずの人だった。
今、目の前にいる。美奈の腕の中に、存在している。
「お母さん」
声を上げて、泣いた。
母の手が、美奈の背をさすってくる。その手の大きさと優しさが、母が確かに生きていることを感じさせてくれる。
父の死後、保険金があったとはいえ、ずっとそれだけで暮らすのは不可能だった。
だから、母は朝から晩まで仕事をしていた。
高校生の頃には美奈もバイトをしようとしたのに、母は決して許そうとはしなかった。
少しは休んでほしかった。なのに、ずっと働いていた。
無理をし続けて、母の身体は、少しずつ壊れていった。
そして、死んだ。
仕事着。今も、仕事だったのだろう。この頃から、すでに働きづめだった。
母を抱きしめる腕に力を込め、美奈は泣き続けた。
何も問うことなく、母は抱きしめ返してくれていた。
母の教えは、一人でも生きていけるようになりなさい、だった。
だから母が死に、祖母が死んでも、美奈は生き続けた。どんな目に合おうとも。
だが、本当は、最高峰の大学に入れなくても、一流の企業に入らなくても、美奈は構わなかった。一人で生きていけなくても、良かった。
母と祖母が傍に居てくれれば良かったのだ。そうすれば、どんな苦難だって乗り越えられたはずだった。
その気持ちを、母にも祖母にも伝えたことはない。
母は、美奈に厳しく勉強を押し付けたし、祖母は、そんな美奈と母を黙って見ていた。
美奈が、自分の気持ちを押し殺しつづけた結果、二人の命を縮めたのだ。別の道を選んでいれば、二人はもっと長く生きたかもしれない。
「落ち着いた、美奈?」
しばらくしてから、母が言った。
「うん。ごめんね、お母さん」
「先生に聞いて、仕事を早退してきたの。倒れたって聞いたから」
「それは、もう大丈夫だよ。平気」
「そう。でも、無理しないように今日は大人しくしてなさい。クラスももう終わったって。先生から夏休みの日程表も貰ったから」
「夏休み?」
「そう。明日から夏休みでしょ。登校日とか、プール開放の日とかが載ってるプリント」
「あ、うん」
ならば、先ほどの集会は、終業式だったのか。
「もう動ける?」
「大丈夫」
「じゃあ、先生に挨拶して、帰りましょう」
「うん」
布団から出て、いつの間にか体育館シューズと入れ替わっている上靴を履いた。
立ち上がった母の手を握る。やはり、あたたかい。
母がそばにいる。その実感が、また、美奈の目を潤ませた。




